第27話 裏搬入路の先
ロドが逃げたと知った瞬間、エルナは誰より早く駆け出していた。
倉区の裏手へ回る細道は、表の荷運び路とはまるで違う。荷車がすれ違える広さもなければ、見通しも利かない。積み上げられた空箱、縄束、壊れた荷台、壁際に寄せられた木板。現場の人間が「とりあえず置く」ことで形作られたような道が、倉庫の裏を縫うように続いている。
逃げるには向いている。だが、追う側にとっても、相手の癖が出やすい場所だった。
「西の細道だ!」
後ろで誰かが叫ぶのを聞きながら、エルナは半開きの木戸を蹴り開けた。土の上に新しい靴跡がある。踏み込みが浅く、つま先が外へ流れている。急いでいる足だ。
前方で何かが倒れる音がした。
「いた!」
灰色の上着の裾が、角の向こうへ消える。ロドだ。振り返りもしない。荷台の脇をすり抜け、低い木柵を飛び越え、そのまま裏搬入路の奥へ走る。
エルナは迷わず追った。木柵に片手をつき、身体を流すように越える。着地の衝撃を殺しながら前を見ると、ロドとの距離はまだ詰められる範囲にあった。
後ろからレインの声が飛ぶ。
「無理に一直線で追うな! この先、道が割れる!」
「わかってる!」
エルナは短く返し、次の分岐で一瞬だけ足を緩めた。右は行き止まりに近い。左は石壁沿いの抜け道。正面はぬかるみ。急いでいる人間なら、足を取られる正面は避ける。
左だ。
読みは当たった。角を曲がった先に、ロドの背が見える。相手も気づいたらしく、肩を揺らしてさらに速度を上げた。
そのとき、地面に黒いものが散っているのが見えた。
煤のようで、煤ではない。粒が細かく、踏まれた跡が妙に濃く残る。
「黒い粉……?」
立ち止まる暇はない。だが、倉区の土埃とは違うと直感した。ここにあるべきものではない。
ロドは次の角で、積まれていた木箱を蹴り倒した。箱が崩れ、通路を塞ぐ。だがエルナは止まらない。倒れかけた箱の一つに足をかけ、そのまま上を踏み越える。木片が軋み、蓋が割れた。
「そんなもので止まるか!」
ロドは返事をしない。ただ、逃げる。追われ慣れていない走り方だった。速いが、無駄がある。後ろを気にしすぎている。だからこそ、先を読めば追いつける。
裏搬入路はやがて倉区外縁の石壁沿いへ出た。そこから先は、倉庫裏口と別区へ続く狭道が入り組んでいる。人目を避けるには都合がいいが、逃走路として使うには事前の準備がいる。
エルナはそこで気づいた。
ロドは迷っていない。
つまり、ただ逃げているのではない。**逃げる先が決まっている。**
次の分岐で、エルナはあえて本線を追わず、右の細道へ飛び込んだ。さっき見た石壁の向きと荷台の位置からして、この道は一つ先で合流するはずだ。賭けだったが、当たれば前へ出られる。
細道を抜けた瞬間、正面から飛び出してきたロドが目を見開いた。
「なっ――」
「終わりだ!」
エルナはそのまま間合いを詰めた。ロドは咄嗟に身をひねって避ける。肩がぶつかり、二人の足がもつれる。完全には捕まえきれない。だが、相手の勢いは止まった。
ロドは腰のあたりに手をやった。
刃物か、とエルナは反射的に身構える。
だが、出てきたのは小さな袋だった。
「何だ、それ」
ロドは答えず、袋を地面へ叩きつけた。
乾いた音とともに、黒い粉が一気に舞い上がる。
「っ!」
目を閉じた一瞬の隙に、ロドが横を抜ける。エルナは咳き込みながら腕を伸ばしたが、指先が袖を裂いただけだった。
「逃がすか!」
振り向いた先、ロドは石壁沿いのさらに細い抜け道へ飛び込む。そこへ反対側からレインが現れた。
「止まれ!」
前を塞がれ、ロドが急停止する。後ろにはエルナ。横は壁。追い詰めた――そう思った瞬間、頭上で嫌な音がした。
「上だ!」
セルドの叫びと同時に、古びた荷棚が崩れ落ちてきた。縄が切れ、木材と空箱がまとめて落ちる。エルナは反射的に前へ飛び、ロドへ手を伸ばしたが、その前に落下物が間へ割り込んだ。
激しい音。土埃。木片の散る気配。
「エルナ!」
「平気!」
咳き込みながら身を起こす。怪我はない。だが、視界の向こうにいたはずのロドの姿が消えていた。崩れた荷棚の奥、石壁の下に、人一人がやっと通れる隙間がある。古い排水路か、荷抜け用の穴か。そこへ潜ったのだ。
「くそっ!」
エルナが木片を蹴り飛ばす。
セルドが落ちた縄を拾い上げ、顔をしかめた。
「切れたんじゃない。擦って弱らせてある。偶然じゃないよ」
レインの目が細くなる。
「逃走路が用意されていた」
「単独じゃないってことか」
エルナが吐き捨てるように言う。
セルドは地面にしゃがみ込み、黒い粉を指先で拾った。
「倉区の埃じゃない。油と、焼いた石みたいな匂いがする」
「工房区か?」
ミハイルが遅れて追いつき、息を切らしながら言った。
「あるいは、水路側の防水材かもしれません。南側の受け渡し場では、似たものを使うことがあります」
その言葉に、セルドは崩れた木片の間から何かを拾い上げた。小さな木札だった。倉区の荷札より厚く、角に見慣れない焼き印がある。さらに泥に濡れた紙片も見つかった。
セルドが慎重に開く。
「……『南二、夜刻前、水門脇』」
エルナが顔を上げた。
「次の場所か」
「たぶんね」
レインは木札と紙片を見比べた。
「倉区の中だけで閉じる話じゃない。流れは別区へ伸びてる」
逃げた相手は捕まらなかった。だが、ただ取り逃がしたわけではない。
倉区の異常は、倉区だけのものではない。裏搬入路の先に、別の流れがある。黒い粉、見慣れない印、南二水門脇という書付。点だった違和感が、一本の線になり始めていた。
エルナは悔しさを押し殺しながら、石壁の隙間を睨んだ。
「今度は逃がさない」
レインは短くうなずいた。
「その前に、倉区を戻す。ここを止めたまま次へ行けば、相手の思うつぼだ」
追跡は終わった。だが、戦いはここから広がる。
倉区の裏路地で見失った背中は、王都の別の場所へ続く扉を開けていた。




