常田の思案
常田は、それきり何も言わなかった。
「分かったぜ」――その一言だけを残して立ち上がった。
札を、石の床に置いたままであった。
佐伯は、声をかけることができなかった。
声をかければ、その瞬間に負ける。
常田は、石室の中央へまっすぐに歩いていった。
船頭の歩き方であった。腰が低く、足の運びに迷いがない。
石室の中央で立ち止まり、低くひと声、言った。
「主よ」
黒い焔が立った。
悪魔が現れた。
南蛮の顔立ちの、赤い目が、常田を見て、すうと細められた。
悪魔は唇の端を吊り上げ、楽しげに言った。
「決まったか。よかろう。ではまず、貴様から――」
常田が踏み込んだ。
間髪を入れぬ。
悪魔の言葉の尾を、拳が断ち切った。常田の拳が、悪魔の顎を下から撥ねた。
ごつ、と鈍い音がした。
黒い焔が揺れた。
悪魔がよろめいた。
よろめいた、ということは、躰がある、ということであった。
佐伯は、それを見て、常田の「分かったぜ」の意味を悟ったように思った。
――そうか。
悪魔を倒せばよいのか。
佐伯の頭の中で、何かがすうと落ちた。
己は、悪魔の定めた盤の上で勝つことばかりを考えていた。盤をひっくり返すという発想が、まるで無かった。
常田は、それを迷わず選んだ。
算術ではなく、拳で。
――そう、佐伯は思った。
佐伯は、燭台に手を伸ばし、蝋燭ごと引き抜いた。蝋燭の根元は鉄で重く、握れば短い棍棒のかわりになる。
石室の中央へ駆けようとして、佐伯は、ふと足を止めた。
己の手の中の、鉄の棒を見た。
次に、己の腰を見た。
帯びている。
打刀と脇差。武家の二本を、確かに腰に差している。
佐伯の胸の中に、苦いものが走った。
悪魔を前にして、まず燭台に手を伸ばした。腰の刀のことを、思い出しもしなかった。武家に生まれ、武家として育ち、武家として禄を食んでいる男が、である。
太平の世は、百年を超えた。武士の二本は、いつのまにか、身分を示す飾りとなっていた。
――情けない。
佐伯は唇を噛んだ。
よろめいた悪魔の頭が、ぐらりと持ち上がった。
赤い目が燃えた。
それまでの、人を嬲って楽しむ色は消えていた。
怒りであった。
「貴様ら、儂の盤を――」
悪魔の声は、もはや頭の奥に響くものではなかった。喉から、肉の声で吐き出されていた。異国の訛りが明らかに混じっていた。
悪魔の右手が宙を払った。
黒い焔がその手の内に集まる。
焔は形を成し、長い、まっすぐな剣となった。
佐伯の知る刀ではなかった。反りがない。柄から切先まで、刃が一本の直線で伸びていた。十字の鍔。南蛮の絵草紙で見た、阿蘭陀の剣であった。
悪魔は片手で構え、常田に向かって踏み込んだ。
突きが来た。
西洋の剣は、斬るのではなく、刺すものらしかった。
切先が、常田の喉を狙ってまっすぐ伸びた。
常田は半身になって避けた。船の上で波をいなす身のこなしであった。切先は、常田の耳のすぐ脇を抜けた。
しかし悪魔は引かぬ。剣を引き戻すと、すぐに次の突きが来た。一突き、二突き、三突き。直線の剣の、機械じみた連突であった。
常田は、後ろへ下がった。
拳では届かぬ。間合いが違いすぎた。
佐伯は駆け寄りながら思った。
――この男は、丸腰である。
己の手の中の燭台は、棄てた。鉄の根元が、石の床にからりと鳴った。
燭台では、届かぬ。あの異国の剣の間合いには、入れぬ。
佐伯は、腰に手をかけた。
剣の心得は人並み以下、抜いても己が死ぬだけと知っていた。
だが、常田の手なら違うかもしれぬ。
「常田どの!」
佐伯は叫んだ。
声をかけてよいか、もはや構うてはおれなかった。
鯉口を切り、抜く。刃の代わりに柄頭を前にして握り直し、常田に向かって放った。
「これを、お使いなされ!」
二尺三寸の脇差ではない、本身の打刀である。回転しながら宙を飛んだ。
常田は、悪魔の突きを身を捻って外しながら、左の手を上げた。
飛んできた柄を、つかんだ。
刀身は、まだ鞘の中である。
常田は、間髪を入れず、右の拳で悪魔の剣を叩き落とすように払い、その隙に左の手で柄を、右の手で鞘を握り、抜いた。
しゃっ、と鋼の鳴る音がした。
二尺三寸五分の刀身が、燭台の灯りを受け、ぬらりと光った。
常田は、それを両手で握り直した。
握りは、漁師の握りであった。刀を遣う者の握りではなかった。柄を、櫓を握るように、強く、まっすぐ握っていた。
しかし立ち姿は、揺るがなかった。
悪魔の赤い目が、わずかに細められた。
はじめて悪魔の顔に、警戒の色が浮かんだ。
「貴様、武辺の者か」
「いいや」
常田は低く言った。
「ただの船頭だ」
悪魔は剣を構え直した。両手で握り、半身に身を低くした。西洋の剣士の構えである。
常田は、構えなかった。
刀をただ正面に下げて立っていた。両腕を脱力させ、切先を悪魔の方へぼんやりと向けているだけである。
佐伯は息を呑んで見ていた。
常田の姿勢には流派がない。型がない。ただ刀を持って立っているだけである。素人の構えに見えた。
しかし、その素人の構えに、悪魔は踏み込めずにいた。
悪魔の喉から、低い唸りが漏れた。
ふと、悪魔がふわりと後ろへ飛び退った。
間合いを切ったのである。
佐伯は、その動きに嫌な予感を覚えた。
悪魔の左手が宙を払った。
黒い焔が、その手の内に集まり、形を成した。
佐伯は息を呑んだ。
悪魔の手に握られていたのは、もはや剣ではなかった。
短く、黒く、金物の管に木の握りがついている。管の脇に、鉤のような撃鉄。鉄の打ち金。火皿。
佐伯の目は、それを知っていた。
長崎口から渡って来た阿蘭陀渡りの絵図。勘定方の文書蔵で、一度だけ見たことがあった。火縄を用いず、燧石の火花で薬を撃つ、西洋の短筒である。
「常田どの、それは――」
佐伯は叫んだ。叫びかけて、その言葉を呑み込んだ。
悪魔の右手にも、黒い焔が集まっていた。
もう一丁、現れた。
悪魔は、左右の手にそれぞれ一丁ずつ、構えた。
二丁の短筒の銃口が、常田の胸を狙った。
佐伯は、声にならぬ声を上げた。
あれは刀では受けられぬ。
燧石が落ちた瞬間に弾は飛ぶ。間合いを詰める暇はない。鋼の鎧でも貫くと聞いた、異国の鉛玉である。
常田は――。
常田は、短筒を見ていなかった。
悪魔の躰の、銃口よりもっと上の、肩のあたりを見ていた。
佐伯は悟った。
常田は、銃が何かを知らぬ。
知らぬが、しかし――。
常田の躰は、刀を下げたまま、わずかに低く沈んでいた。漁の最中、波が高く立ち上がる気配を、肌で読む、あの低い構えである。
悪魔の指が、引き金にかかった。
燧石が火花を散らした。
二発の銃声が、ほとんど同時に石室を裂いた。
白い煙が、二筋噴き出した。
常田の躰は、その瞬間、すでに横へ、低く流れていた。
二発の鉛玉は、常田の頬の脇と、脇腹の脇を、それぞれすり抜けた。石室の奥の壁に、ふたつの抉れたような跡が刻まれた。
佐伯は、声を失った。
常田は何を読んだのか。
短筒のからくりを知らぬはずである。引き金が落ちる音も、火薬の匂いも、知らぬはずである。
しかし常田の躰は、引き金が落ちる前にもう動いていた。
それは、知ではなかった。
海の上で、何度も何度も、波の一拍先を肌で読んできた男の――獣の勘であった。
白い煙が、まだ石室に漂っていた。
悪魔は、二丁の短筒を握ったまま固まっていた。
赤い目に、はじめて――驚愕の色が浮かんだ。
外したのである。
二丁とも、外したのである。
常田は、低く沈んだ姿勢から、一気に踏み込んだ。
白煙を裂き、常田の躰が悪魔へ向かって突き進んだ。
悪魔は慌てて短筒を捨てた。
黒い焔が再び手の内に集まり、西洋の剣が形を取り戻した。
悪魔は半身に身を低くし、両手で剣を握り直した。
吼えるような声が、その喉から上がった。
突きが来た。
それまでで最も速い、最も鋭い、命を懸けた一突きであった。
常田は動かなかった。
動かぬまま、最後の一瞬で、躰だけをほんの半寸、横へずらした。
切先が常田の脇腹を掠めた。布が裂け、肌に血の筋が走った。
しかし、それだけであった。
切先が常田の脇を抜けたその時、常田の刀はすでに振り上げられていた。
間髪を入れず、振り下ろされた。
上段から、まっすぐの太刀筋であった。剣術の型ではない。船頭が、波の上で櫂を打ち下ろす、あの動きであった。
悪魔は刀を受けた。
西洋の剣を、両手で水平に掲げ、頭上で受けた。
鋼と鋼がぶつかった。
火花が散った。
悪魔の剣が、ぐらりと撓んだ。
常田の刀は止まらなかった。
西洋の剣を、上から押し切った。
いや――断ち切った。
悪魔の剣の、ちょうど中ほどから、ぱきん、と乾いた音がして、刃が折れた。折れた切先が、ぐるりと宙を舞った。
常田の刀は、止まらなかった。
折れた剣の、その向こうにあった、悪魔の額に入った。
頭蓋を裂き、鼻梁を裂き、顎を裂き、胸を裂き、腹を裂いた。
悪魔は、ふたつになった。
黒い焔が噴き上がった。
ふたつに分かれた躰は、左右にゆっくりと開いていった。
悪魔の赤い目は、最後まで見開かれていた。何が起きたのか信じられぬ、という目であった。
黒い焔は、すうと勢いを失った。
悪魔の躰は、墨のように床に滲んで消えた。
あとには、折れた西洋の剣と、悪魔が握っていた白い札が一枚、残されていた。算用数字の「4」が刻まれていた。
常田は、刀をだらりと下げた。
肩で息をしていた。
脇腹の血が、袴の腰のあたりまで垂れていた。
佐伯は駆け寄った。
「常田どの、傷は」
「掠っただけだ」
常田は、短く言い、佐伯に刀を、柄から差し出した。
「すまんかった。返す」
佐伯は、それを受け取った。柄が、まだ熱を持っていた。
常田は、床に転がった白い札を、拾い上げた。
白い札を、しばし、しげしげと眺めた。
常田は、佐伯の方へ、それを差し出した。
「すまねえが、これは何と書いてある。あいつの札だ」
佐伯は、白い札を、受け取った。
表に、算用数字が刻まれていた。
「――四、でござる」
「ほう、四か」
常田は、ふん、と一度頷いた。
その瞬間――。
佐伯の頭の中を、雷が、走った。
佐伯は、白い札を、握ったまま、動けなくなった。
悪魔の札が、四。
己の札は、二・五・六。和は、十三。
悪魔の四を足せば、十七。
全札の合計は、二十八。
とすれば、常田の三枚の合計は、十一。
残った札は、一・三・七のみ。
常田の札が、確定したのである。
悪魔が、いなくなり、悪魔の札が露わになった――その一事だけで、二人は、互いの札を、論理だけで、特定できる場所に来ていた。
悪魔さえ消えれば、互いの札は、声を交わすことなく、伝え合うことができる。
いや、声を交わしても、よい。
悪魔は、もはや、聞き取る耳を、持たぬのである。
佐伯は、白い札から、ゆっくりと顔を上げ、常田を見た。
常田は、にやりと笑っていた。
佐伯は、悟った。
常田が、最初に「分かったぜ」と呟いたあの時――。
佐伯は、それを「殴ればよい」という単純な思いつきと解釈した。盤をひっくり返す、という発想と理解した。だが、違ったのである。
常田は、それよりも遥かに深いところまで、見ていた。
悪魔さえ消えれば、掟は破れる。声をかけても、札を見せ合うても、誰にも見抜かれぬ。それを成すには、悪魔を、生きたまま閉じ込めるのではなく、知り得ぬ状態に――即ち、死に至らしめるしか、ない。
常田の「分かったぜ」は、解法そのものであった。
佐伯が半刻も唸って組み立てた、情報を折り畳む精妙な策など、足元にも及ばぬ、本質的な解であった。
しかし――。
佐伯は、もう一度、常田の顔を見た。
常田の目には、知の光は、なかった。
ただ、海の男の、何も知らぬ、穏やかな目があった。
常田は、算術を立てて、この解に辿り着いたのではない。総和も、引き算も、組み合わせも、知らぬ男である。
ただ、本能で、辿り着いたのである。
知らずに、解いた。
頭でではなく、躰で。
佐伯は、長い、長い息を吐いた。
言葉も、出なかった。
化生は倒した。だが、化生の定めた遊戯そのものは、宙に浮いたままである。互いの札を当てねば、解き放たれぬという、あの規矩は、まだ残っている。
佐伯は、姿勢を正した。
石の床の上に、両膝をついた。
そして、常田に向かって、低く、はっきりと言った。
「常田どのの札は、一、三、七」
常田は、にやりと笑った。
常田もまた、佐伯の前に、どっかと胡坐をかいた。
「あんたの札は、二、五、六」
二人とも、互いの札を当てた。
二十八。
合うていた。
掟が、満たされた。
その時、石室の壁が、軋む音を立てた。蝋燭の焔が、ふらりと揺れ、それから、強い風が吹き抜けた。
壁の一面が崩れ、その向こうに、白い光が射した。
朝の光であった。
二人は、立ち上がった。
佐伯は、足もとに散らばった七枚の札を、ちらりと見た。
化生に当てられることなく、互いの札を当てた。それが、遊戯に勝つということであった。
化生は、もはや、何も知り得ぬ。
知る術が、ないのである。
死んでいるからであった。
二人は、光の方へ、歩み出した。
潮の匂いがした。本所からほど近い、大川の河口のあたりに出たらしかった。
常田が、歩きながら、ぽつりと言った。
「あんた、さっきまで、何を考えてたんだい」
佐伯は、少し笑った。
「いろいろと、考えており申した」
「ほう」
「もう、忘れ申した」
常田は、それ以上、訊かなかった。
大川の水面が、朝日を受けて、ちらちらと光っていた。河口の向こう、江戸の海には、まだ朝靄が残っていた。その靄の中に、見知らぬ形の帆影が、ふたつ三つ、漂っている。蝦夷地からの廻船か、あるいは――それより遠いところから来た船か。
佐伯は、その帆影を、しばらく見ていた。
異国の数字を札に刻んだ、南蛮の顔の化生。その化生の定めた盤の上で、己は、半刻も唸って、ようやくひとつの策に辿り着いた。理に適うた、精妙な策であった。
だが、化生の盤は、はじめから、もう一つの解を孕んでいた。
二人の手札を当てるという条件と、化生に当てられぬという条件。後者を破れぬとは、誰も言うておらぬ。化生さえ消えれば、当てる耳も、目も、共に消える。残された二人は、声をかけ、札を見せ合うて、互いを当てればよい。
常田は、その解に、論理ではなく、躰で辿り着いた。
算術を立てず、総和も知らず、ただ嗅ぎ取った。化生を消すことが、すべてを解くと。
佐伯は、己の腰の刀に、そっと手を触れた。
悪魔を前にしてさえ、思い出しもしなかった、武家の二本である。常田は、その刀を、佐伯の手から受け取り、振るって、悪魔を断ち切った。
武士の刀は、もはや武士の手の中には、なかった。
北からはロシヤが、南からは阿蘭陀が、この国の海に近づいてきていると、勘定方では誰もが噂している。やがては、異国の理屈に、応じる場面も来ようと、上の御方々も御考えだという。
しかし――。
佐伯は、横を歩く常田の、日に焼けた横顔を見た。
異国の理屈に、几帳面に応じる男ばかりでは、この先、立ち行かぬのではあるまいか。
理屈で解けぬところを、盤面ごとひっくり返す、そういう男が、これからの世には、要るのかもしれぬ。
佐伯は、ふと、そう思った。
常田は、ただ、まっすぐ前を向いていた。
朝の光の中で、その横顔は、海の男の、ただ、何も知らぬ顔であった。
「正解は悪魔を殺して
悪魔の番号の読みと
自分の番号の読みを教えて貰う」でした。
分かりましたか?




