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佐伯の思案

 天明五年、神無月。


 夜更けに本所のはずれの空き屋敷を踏み込んで、それきり、佐伯庄之助の覚えはない。


 目を覚ますと、石の床に頬を押しつけていた。


 佐伯は身を起こした。湿った冷気が骨の髄まで沁みている。狭い石室であった。窓はない。壁の燭台に蝋燭が一本、揺らいでいる。


 己は、勘定吟味役改役の下にある一介の役人である。蝦夷地の抜荷の噂を探れと申しつかり、深川界隈の船問屋から本所の空き屋敷まで、ひとり、足を運んだ。家のうちは、空であった。空であったはずである。


 ふと顔を上げると、向かいに男がひとり、胡坐をかいていた。


「気がついたか」


 男はそう言った。年の頃は三十半ば。日に焼けた皮膚に、節くれだった指。漁師か、船頭か、いずれにせよ躰を使って生きてきた手であった。


「貴公は」


「常田と申す」


 男は名乗っただけで、それ以上は言わなかった。佐伯も名乗った。


 常田は、佐伯の身なりを、ちらりと見た。腰の物の拵えも、袴の縫いも、武家のものである。常田は何も言わずに、また自分の膝の上に目を落とした。


 佐伯は、この男もまた、抜荷の絡みでここに引きずり込まれたのではあるまいか、と思った。船頭の手をしている。深川あたりで雇われ、知らずに荷を運んでいた口かもしれぬ。


 訊いてみたかったが、訊けなかった。


 石室の中央に、ぽつりと火が灯ったからである。


 火は黒かった。


 黒い焔が立ち、その中から、一人の男のかたちをした何かが現れた。


 目だけが、赤い。


 顔の造作は、和人のものではなかった。鼻が高く、眼窩が深い。南蛮渡りの絵草紙で見た、阿蘭陀人の顔に近かった。


「ようこそ、ふたりの客人」


 声は、耳ではなく、頭の奥に直接響いた。


「儂はこの檻の主だ。名は要らぬ。お主たちには、ひとつ、遊びをしてもらう」


 黒い焔の中から、七枚の札が宙に浮かび上がった。


 佐伯は、息を呑んだ。


 札に刻まれていたのは、和の数字ではなかった。1、2、3、4、5、6、7――異国の算用数字が、白く浮かんでいた。


「お主たちに、三枚ずつ配る。残る一枚は、儂が持つ」


 札は宙を舞い、三枚が佐伯の前に、三枚が常田の前に落ちた。最後の一枚は、悪魔の指の間に挟まれた。


 佐伯は札をめくった。


 二、五、六。


「掟は単純だ。お主たちは、それぞれ一度だけ口をきいてよい。何を言うても構わぬ。その上で、互いの持ち札を当てよ。両者ともに正しく当てれば、解き放ってやる」


 悪魔は唇の端を吊り上げた。


「ただし、儂には当てられてはならぬ。儂が、お主たちの札を見抜いた時は――一生、ここから出さぬ」


 佐伯は息を呑んだ。


 悪魔は、続けた。


「言うておくが、相談は許さぬ。発言は一度ずつ、ただ一言ずつである。声を交わす――ふたつ目の言葉を発した時、お主たちの負けとする」


 悪魔の赤い目が、ふと、常田の方へ向いた。


 唇が、ゆるりと、吊り上がった。


「そして――発言するのは、貴様からだ」


 常田を、指さした。


「貴様が、口を開け。その後、向こうの男が口を開く。順は、儂が決める」


 常田は、何も言わなかった。


 悪魔は、にやりと、いっそう深く笑った。


「考えるがよい。刻限は設けぬ。だが、相談はならぬ。一言だけだ」


 言うだけ言って、悪魔は焔の中に沈んでいった。


 残されたのは、石室と、二人と、七枚の札であった。


 佐伯は、石の床を見つめた。


 胃の腑が、冷たくなった。


 ――先に口を開くは、常田どのか。


 佐伯は、常田の顔をうかがった。常田は、自分の札をじっと見ている。算術に親しんだ顔ではなかった。


 佐伯は、頭の中で算盤を弾きはじめた。


 吟味役配下とはいえ、勘定方の端くれである。一から七までの数の合計は二十八、ということは、すぐに出た。己の手札の合計は十三。常田と悪魔の持つ札の合計は、十五ということになる。


 しかし、合計を口にしては、悪魔にも筒抜けである。


 佐伯は腕を組んだ。


 まず思いついたのは、組み合わせの数を言うことであった。


 己の札、二・五・六の合計は十三。三枚の和が十三になる組み合わせは、一・五・七、二・四・七、二・五・六、三・四・六の四通り。


「四通り」と言えば、常田には伝わる。常田は己の手札を見て、四通りのうち己の札と重ならぬものを選び、そこから己の札を引けば、佐伯の札が割れる――かに見える。


 しかし、佐伯は唇を噛んだ。


 甘い。


 悪魔もまた、己の一枚を知っている。残る六枚で「四通り」になる組み合わせを数え上げれば、悪魔にも絞られてしまう。場合によっては、悪魔は一通りに見抜く。


 駄目だ。


 佐伯は別の手を考えた。


 合計の偶奇を言う。手札のうち最も小さい数を言う。最も大きい数を言う。


 いずれも、常田に絞り切れぬか、あるいは悪魔に絞られすぎるか、そのどちらかであった。


 佐伯の額に、冷たい汗が浮いた。


 己が伝えるべき情報は、常田にだけ意味を持ち、悪魔には届かぬものでなければならぬ。


 常田と悪魔の違いは、ただひとつ。手札の枚数である。常田は三枚、悪魔は一枚。


 その差を、どう使うか。


 佐伯はじっと宙を見つめた。


 ――。


 佐伯の頭の中で、一筋、光るものがあった。


 常田にだけ届き、悪魔には届かぬ。そういう一言が、確かに、ある。


 己の手札と、全札の総和と、常田と悪魔の手札枚数の差。それらを、ひとつの数の上に折り畳めば、常田の手の中でだけ、答えが解ける。悪魔の手の中では、解けぬ。


 佐伯は、その一言を、口の中で転がした。


 膝を打ちそうになった。


 しかし、すぐに、その手が止まった。


 佐伯の額から、汗が、つうと一筋、落ちた。


 ――先に口を開くのは、常田どのである。


 佐伯が、いかに精妙な策を組み立てようと、それを、常田に伝える術がない。


 相談は、許されぬ。口を開けば、その瞬間に、負ける。


 佐伯にできるのは、ただ、常田が何かを口にするのを、待つことだけであった。


 その「何か」を聞いてから、己の一言を返す。それしか、ない。


 しかし――常田は、船頭の手をしている。算術に親しんだ顔ではない。


 佐伯が、半刻ばかりも宙を睨み、ようやく辿り着いた一手である。これを、常田が、独力で、思いつくことができようか。


 いや、よしんば常田が、別の道筋から、何か一言を編み出したとしても、それが、佐伯の頭の中の一言と噛み合うとは限らぬ。常田が口を開き、その一言が、佐伯にとって意味を成さぬ言葉であれば、その時点で、すべてが終わる。


 佐伯は、唇を噛んだ。


 血の味がした。


 己の頭の中にある策は、いま、何の役にも立たぬ紙くずに等しかった。


 佐伯は、常田の方を、ただ、見つめていた。


 常田は、札を見ていた。


 いや、見ていない。


 常田の目は、札の上を素通りして、その向こうを見ていた。


 何を見ているのか。


 佐伯には、まるで読めなかった。


 時がどれほど流れたか、分からなかった。蝋燭の焔だけが、ゆらゆらと、揺れていた。


 やがて、常田が、ぼそりと言った。


「分かったぜ」


 佐伯は、息を呑んだ。


 常田の声には、迷いがなかった。

皆さんも佐伯と一緒に考えてみてください。

また、佐伯の考えを常田に

伝えられる方法はないでしょうか?


ヒントを出すと

佐伯と常田にのみ悪魔のカードが分かればいいのです。


答えは後編でお確かめください。


答えをどうしても書きたい!という場合は

同作者の「神と悪魔と僕の魂」の感想欄に書き込んでください

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