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第1章:世界一不器用な豚汁と、決壊(ロスト・コントロール)

「シショー。本日の第一タスク、裏庭の薪割り、完了しました」

 無表情のまま、ハル(17歳)は細部までミリ単位で正確に等分された薪の山を指さした。

 ピピンが「佐藤商会」の創業を宣言してから数日。ハルの生活スキルは、少しずつ「形」になり始めていた。

「うん、進捗しんちょくはバッチリだな! 出力(力加減)を10%以下に固定しろって指示、ちゃんと守れてるじゃないか。偉いぞハル!」

 ハルの頭の上で、ちっちゃな妖精ピピンが鈴を転がすような可愛い声で褒めちぎる。羽をパタパタと輝かせながら、愛らしい笑顔を浮かべるピピン。その姿は完全に「可憐な大自然の天使」だ。だが、ハルは「ありがとうございます」と静かに頭を下げるだけで、表情一つ変えない。

 指示された通りに動く。言われた通りの数値(出力)を出す。ハルにとってそれは、「スローライフ」という名の新しい任務ミッションを冷徹にこなしている感覚に近かった。どれほど怒鳴られても、ハルの心は凪のままだ。アサシンとは、不条理な環境にも感情を殺して従わなければ生き残れない。ハルには「ふてくされる」という子供らしい感情の出し方も分からず、ただ静かに次の命令を待つことしかできなかった。

 そんなハルの「冷めた従順さ」に、前世で大手企業のコンプライアンス室長も務めていたピピンの脳内おっさんボイスは、深刻な警報を鳴らしていた。

(あかんでこれ……。こいつ、上司の指示に100%YESで答える『超優秀な社畜ロボット』のフリして、心のシャッターを南京錠でギチギチに閉めてやがる。感情に頑丈な鍵をかけ、コントロールすることに慣れすぎてるんだ。これじゃ『佐藤商会』を自分の居場所だと思ってねえ。いつか摩耗して燃え尽きるぞ。この企業風土マインド、今すぐ是正メンタルケアしねえと破綻するわ……!)

 そんなある日、ハルが山で罠にかかっていた野生のイノシシの肉を運んできた時、ピピンのおかんセンサーと商社マンの魂が限界を迎えた。

「よしハル! 今日は我が佐藤商会の記念すべき『第一回・社内懇親会』だ。お前に俺の特許技術(得意料理)を伝授する。俺がサラリーマン時代、デスマーチ明けで心が折れかけた部下たちに、最後の手段として振る舞った最強のエネルギー源……**『豚汁とんじる』**だ!」

「トン……ジル、ですか?」

「そうだ! だが今の俺はこのサイズだからな、大鍋を振るう筋力はねえ。いいか、俺が横から全工程を完全マネジメント(口出し)する。お前は俺の腕になれ。1ミリの狂いも妥協も許さんぞ!」

「了解しました、シショー。……『トンジル再現任務』、開始します」

 小さなピピンはハルの肩に飛び乗り、彼のボサボサの髪をちっちゃな手で引っ張りながら、鈴のような可愛い声でいつも以上の指示(おっさん怒号)を飛ばし始めた。

「ゴボウはアク抜きを怠るな! 現場なべの下処理がガタガタだと、後で全部の味に響くんだよ! 基礎をナメるな!」

「肉は先に炒めて旨味を閉じ込める! 営業のファーストアプローチと同じだ、最初にガツンと印象植え付けんだよ!」

「アクを引け! 妥協すんな! 組織の不純物はこまめに摘み取るのがコンプラ室長の仕事だ!」

 ハルは言われるがまま、汗を流しながらアサシンとしての全神経を尖らせ、完璧にタスクを処理していく。そしてついに、黄金色の油がうっすらと浮き、純白の湯気が立ち上る大盛りの豚汁が完成した。

「よし、実食だ! 遠慮せずガツンといけ!」

 ピピンの合図で、ハルは木のお椀を両手で持ち、ズズッ……と汁をすする。

「……ッ!?」

 その瞬間、ハルの思考が真っ白に染まった。

 根菜の暴力的なまでの甘み、肉の脂のコク、放置された味噌の優しい風味。今まで「生きるための燃料」として、味のないパサパサの携帯食糧しか知らなかったハルの肉体に、強烈な「温かさ」が津波のように流れ込んでくる。

(美味い。……いや、違う。なんだ、この感覚は。胸の奥が、痛い)

 ハルは無意識に、アサシンの習慣で心拍数を下げ、脳内麻薬を分泌させてこの強烈な衝撃を統制コントロールしようとした。いつも通り、心を平坦な人形に保とうとした。だが、ダメだった。五臓六腑を温めるスープの熱が、ハルの冷徹な防壁コントロールを内側からドロドロに溶かしていく。

「……あったかい……です。……すごく、美味しくて……喉の奥が、熱いです……」

 ハルは必死に無表情を維持しようとする。しかし、コントロールを失った自律神経が、彼の意思に反して大粒の涙をお椀の中に落とし始める。

「おい、ハル……? どうした、どこか痛むのか!?」

「違い、ます……すみません。今、統制コントロールします、すぐに涙を、止めますから……っ」

 泣いてはいけない。「道具」に涙は許されない。ハルは袖で乱暴に目を擦り、無理やりいつもの「冷たい人形の笑顔」を作ろうとするが、顔の筋肉がひきつって上手く動かない。

「おれ、おれ……こんな温かいもの……食べたこと、ないです……。いつも冷たくて、暗い部屋で、一人で、乾いた肉を噛んでて……。誰も、美味しいかって、聞いてくれなくて……。ミスしたら叩かれて、上手くいっても、誰も褒めてくれなくて……っ。うっ、うあ、ああああん!」

 ついにハルは顔を覆い、子供のように声を上げてワンワンと泣きじゃくった。17年間、一度も吐き出すことができなかった「寂しさ」と「恐怖」が、豚汁の温かさに誘い出されるように、すべて決壊したのだ。

 その姿を見て、ピピンの胸に熱いマグマが込み上げてくる。

(こいつ、泣くことすら自分に許さねえように育てられてきたんだな。感情を押し殺して、必死に『指示通りのいい子』でいようとしてたんだ……!)

「……あったり前だろ、バカ野郎……ッ!」

 ピピンの目からも、ボロッと涙が溢れ出した。最大手総合商社の伝説のエースが、手のひらサイズの美少女妖精の顔で、ボロ泣きしながらハルの頭にしがみつき、ちっちゃな手でその頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。出力される声はどこまでも可憐な鈴の音だが、その魂は完全に「おかん」だった。

「いいかハル、会社うちは家族だっつっただろ……! 家族の前で、美味いもん食って、泣いて、甘えて、ふてくされるのはな! 世界で一番当然の権利なんだよ! 感情の統制なんか、この俺がコンプラ違反(絶対に認めない)にしてやる! 全部吐き出しちまえ!」

「ひっ、う、うああああん!……ずずっ、美味い、美味いです、シショー……っ!」

 山奥の小さな家で、二人は涙と鼻水で少し味の濃くなった豚汁を、お互いにボロ泣きしながら貪り食った。

 ハルはアサシンとしての「完璧な人形」を辞めた。おせっかいで温かいシショーに出会ったことで、彼は初めて、17歳の「未熟で不器用な一人の人間」として、本当の感情を取り戻したのだった。

■ 第2章:生活スキル向上編 〜OJT(おかん・人生・特訓)の本格始動〜

「よし、ハル! お前のやるエンゲージメントは現在、最高潮だな。本日より我が佐藤商会の『QOL(生活の質)向上プロジェクト』を本格始動する!」

 翌朝、半壊したログハウスの居間で、ピピンは机の上でふんぞり返ってちっちゃな胸を張った。あの日以来、ハルの瞳には「シショーを喜ばせたい、この温かい居場所を維持したい」という、明確な当事者意識モチベーションがギラギラと芽生えている。

「はい、シショー。何でも指示を。佐藤商会の利益(丁寧な暮らし)のために、全力を尽くします」

 真っ直ぐな瞳で頷きながら、ハルは懐から小さな羊皮紙のノートを取り出した。そこにハルは、真顔で羽ペンを走らせる。

「……? ハル、お前何書いてんだ?」

「シショーの言葉を忘れないよう、メモ(議事録)を取っています」

 覗き込んだピピンは、言葉を失った。そこには文字ではなく、**『怒っているちっちゃいピピン』と、『その虫に炎を吐きかけられて爆発するマッチかまど』**のような、壊滅的に下手くそな象形文字風の「絵」が書き殴られていた。世界最高峰のアサシンは、深刻なレベルで文字が書けなかったのだ。

(おいおいおいウソだろ!? 議事録がまさかのエジプトの壁画(象形文字)かよ! 壊滅的に絵が下手くそだけど、必死にメモ取ろうとしてる姿が健気すぎて怒れねえじゃねえか……っ!)

 脳内のおっさんボイスで目頭を押さえつつ、ピピンは「う、ううん! 素晴らしい心がけだな!」と可愛い声でエールを送った。

 こうして、外見は天使で中身はベテラン部長の【おかん社長】による、世界最強アサシンのホワイト人材化計画(OJT)が本格的に幕を開けるのだった――!

(第2部・第2章:『生活スキル向上編 〜掃除・洗濯・火加減のPDCA〜』に続く)

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