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■ プロローグ:最強の終わり、ポンコツの始まり

 ――ガァン!!!

 鳥のさえずりが響く長閑のどかな辺境の山奥に、およそ大自然の調和を暴力的にぶち壊す、金属が激しくひしゃげる爆音が木霊こだました。

「また、失敗した……」

 半壊したログハウスの庭で、ハル(17歳)は魂の抜けたような顔で呆然と立ち尽くしていた。

 かつて、幾重もの魔法障壁と厳重な近衛兵がひしめく鉄格子の隙間から音もなく潜入し、標的に指一本触れるだけでその頸椎を正確無比にねじ切った世界最強の『暗殺の手』。

 それが今は、目の前で無惨にねじ切れた百均レベルの鉄製洗濯バサミを掴んで微かに震えている。ハルの足元には、繊維がズタズタに引き裂かれて雑巾のようになった麻のシャツが、悲しく転がっていた。

 ハルは、つい数日前まで世界最高峰と謳われた国家直属の暗殺組織で、不動のエースだった。

『気配遮断』と『気配察知』において彼の右に出る者は世界に存在せず、どれほど厳重な警備に守られた標的であっても、ハルは呼吸の隙間、認識の死角に滑り込み、誰にも気づかれずに任務を遂行してきた。だが、その組織が王国の政変によって電撃解散した。

「これからは自由だ。お前の好きなように生きろ」

 そう言われて放り出され、組織の「道具」としての役割を突然失ったハルが、迷った末に目指したのが、この未開の山奥だった。

 本当は、心根の優しい少年だったのだ。生きるために感情を殺し、心を人形にして血と鉄の匂いにまみれながら刃を振るってきた彼が、密かに胸に抱いていた唯一の救い。それは、幼い頃に自分を育ててくれた組織の老人が寝る前、子守歌代わりに聞かせてくれたおとぎ話だった。

(――緑の森の、ちいさな羽の案内人。温かいお家へ、連れて行ってくれる――)

 耳の奥に残る、かすかな優しい歌声。そんな誰も傷つけず、誰にも傷つけられない、穏やかで温かいスローライフが、世界のどこかにあると信じていたのだ。

 しかし、念願の自由な生活を始めて即座に、ハルは己の致命的な欠陥に直面することになる。

 彼には「生きるための常識ベンチマーク」が、完全にゼロだった。

 暗殺や隠密なら、ミリ単位の筋力、1%以下の魔力出力を完璧にコントロールできる。しかしそれは、「対象の息の根を止める」という明確な目標数値ターゲットがあってこそのものだった。日常の家事における「適切な加減」が、ハルには全くわからないのだ。

 畑を耕そうと『肉体強化』を発動すれば自重で地面に直径3メートルの大クレーターを作り、洗濯物を絞ろうとすれば敵の首を締め上げるテンションで服を引きちぎった。極めつけは一昨日の料理だ。かまどに火を点けようとして魔術の出力を間違え、爆破魔術コンバスト並みの業火を放って我が家の屋根半分と天井を焼き尽くし、消し飛ばした。

「俺は……生きていてはいけない道具だったんだ。人を殺すことしかできない、不良品だ……」

 青空が眩しく丸見えになっている半壊リビングの隅で、ハルは膝を抱えていた。

 加減がわからない恐怖から一歩も動けず、すでに三日間、何も食べていない。

 飢えと、強烈な自己嫌悪、そして深い孤独。暗い絶望の淵に沈む少年の鼻腔に、突如として、信じられないほど香ばしい、暴力的に美味しそうな匂いが飛び込んできた。

「おいおい、そこの若手。死んだ魚の目してどうした? メンタル管理も社会人の基本だぞ」

 ハルが弱々しく顔を上げると、そこには光の粒子をまとった、息をのむほど美しい手のひらサイズの少女の妖精が浮いていた。そして、その口から溢れ出たのは――鈴を転がすような、恐ろしく可憐で可愛い、甘い美少女の声だった。

「ひでえ有り様だな。屋根は吹き飛び、床は踏み抜かれ、クワはひしゃげてる。おいお前、ポテンシャルはカンストしてるのに、業務効率が最悪だぞ。予算の過大見積もりで現場を爆破してどうする。素人質問で恐縮だが、お前にアセットマネジメントの概念はないのか?」

「……妖精、ですか?」

「妖精じゃねえ。ピピンだ。前世は日本最大手総合商社の営業統括部長、兼コンプライアンス室長。佐藤、52歳、独身だ。……まあ、不運な過労死ってやつで、気づいたらこのトチ狂った可愛いガワに転生してたわけだがな」

 ちっちゃな妖精ピピンは、透き通るような美しい羽をパタパタと震わせ、可愛い手首を組んでハルを凝視した。その見た目は「誰もがハグしたくなるような愛らしい妖精さん」そのもの。しかし、言っていることはゴリゴリのカタカナビジネス用語。そしてその脳内(心の声)では――

(おいおいおい、何だこいつの体幹は!? 呼吸の音が一切しねえし、重心が1ミリもブレてねえぞ! 前世で修羅場を共にしたどんなヤクザ者の大親分よりも、文字通り桁違いにヤバい『ホンモノ』じゃねえか! なのに、この飢え方……なるほどな。スペックが高すぎて日常の出力基準ベンチマークがわからずバグってやがったんだ。おまけに、深刻なメンタルハザードの顔だ……くそっ、放っておけねえ!)

 ガチの渋いおっさんボイスで戦慄する脳内を隠し、ピピンは鈴のような可愛い声で、ハルの鼻先にちっちゃな人差し指を突きつけた。

「おい若いの。お前、行くあてがないならウチの『商会』に内定をくれてやる。本日付で『佐藤商会』の創業だ!」

「商会……ですか。俺は、暗殺しかできない道具です。スローライフを送ろうとしても、全部壊してしまう不良品です。あなたのような美しい妖精の役には立てません」

「バカ野郎、不良品なもんか! 経営資源の無駄遣いをしてるだけだ! 適切なOJTオン・ザ・ジョブ・トレーニングさえ施せば、お前は我が社のトップ特効隊長エースになれる!」

 ピピンはちっちゃくて可愛い手を腰に当て、ふんぞり返って、鈴のような可憐な声で「カハハ!」と笑い飛ばした。

「まぁ、商会っつっても、今は現役ガワが美少女で中身がおっさんの俺一人しかいねえんだけどな! 資本金は俺が転生したときに持ってたこの銅貨数枚……日本円で『1万5千円』スタートだ! 泣き言言ってる暇があったら、明日から挨拶と力加減のPDCA回すぞ!」

(クソッ、可愛い声で大見得切るの、まだちょっと恥ずかしいな……!)

 脳内のおっさんボイスで頭を抱えるピピン。

 しかし、ハルにとっては違っていた。おとぎ話の妖精とは少し――いや、かなり違っていたけれど、血と鉄の冷たい世界しか知らなかった自分に、初めて「全力の熱量を持って」向き合ってくれた。

 ハルは本能的に、この小さな「可愛いおっさん妖精」を、生涯を賭けて仕えるべき心の師――**「シショー」**と定めたのだった。

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