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「お母様は悪役令嬢」  作者: 輝く泥だんご
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第130話 『白紙のキャンバス』


 玉座の間。


 紫星城の心臓部であり、太母として覚醒したばかりの醉妖花が君臨する絶対的な聖域。


 だが今、その聖域の足元から、音もなく、色もなく、「なにも存在しない。故に、何もない」という白き虚無の根が、じりじりと、しかし不可逆の浸食を続けていた。


 醉妖花は、玉座から立ち上がり、自らの絶大な権能である【超越汎心論】を全力で展開していた。


 彼女の背後に咲き誇る幻影の薔薇が、あらゆる次元の「心」を魅了し、支配し、そして捕食するために、その見えざる牙と芳香を虚無の波濤へと向けて放つ。


「……私の庭を、白紙になどさせるものですか! 私の足元に平伏し、その虚ろな存在意義を私の美しさで満たしなさい!」


 彼女の叫びは、宇宙の理そのものを捻じ伏せる絶対王者の命令だった。先ほどまで、全次元に死を撒き散らしていた亡霊花ヶの本体ですら、この力の前には屈服し、捕食されるしかなかったのだ。

 だが。


 ……何も、起こらなかった。


 白き虚無の根は、醉妖花の幻影の薔薇の牙をすり抜け、その芳香を「なにも存在しない」状態へと還元しながら、無慈悲に玉座への距離を詰めてくる。

 弾かれたのではない。抵抗されたのでもない。

「干渉の対象が存在しない」のだ。


 醉妖花の瞳が、驚愕に見開かれた。

「嘘……。心が、無い……!?」


 彼女の【超越汎心論】は、対象に「心」が存在して初めて成立する。対象が岩であろうと、次元の壁であろうと、あるいは「死」という概念そのものであろうと、そこに僅かでも存在のベクトル(方向性)があれば、彼女はそれを「心」と定義し、魅了し、束縛することができた。


 しかし、完全覚醒を果たしたヴィクター・フェイザー――「さいなまれる大樹」が放つ虚無には、一切のベクトルが存在しなかった。


 愛も、憎しみも、生への執着も、死への渇望も。


 残滓すら残っていない。文字通り、完全に漂白されている。


「なにも存在しない。故に、何もない」。


 ゼロに何を掛けてもゼロであるように、心が存在しない完全なる白紙に対しては、宇宙最強の魅了すらも、文字通り「空回り」するしかなかったのである。


「あ……、あぁ……」

 醉妖花の白磁の肌から、サディスティックな全能感が急速に剥がれ落ちていく。

 自らの力が全く通じないという、生まれて初めての絶対的な「無力感」。


 そして、己の足元から這い上がってくる、己という存在そのものが「最初から無かったこと」にされてしまうという、根源的な恐怖。


 彼女の深層で支配的となっていた「骸薔薇」の人格――全てを自分の箱庭に閉じ込め、支配し、標本にするという猟奇的な美意識が、形のない虚無を前にして音を立ててヒビ割れ始めた。


 支配すべき対象が存在しないのなら、支配者もまた存在できない。骸薔薇の神性は、その矛盾の前に機能不全を起こし、絶望に塗りつぶされようとしていた。


 醉妖花は恐怖に身を竦ませ、玉座にへたり込んだ。


 その絶望的な状況下にあって、玉座の傍らに立つノキ=シッソの額には、かつてないほどの脂汗が滲んでいた。


 彼の完璧に糊付けされた燕尾服の袖口が、虚無の余波に触れ、チリチリと白く透けては「なにも存在しない」状態へと還元されていく。

「……ええ。ヴィクター殿の『大樹』としての顕現は、予測の範疇でした。……ですが」


 ノキは、自らの左手が指先から白く消えゆく激痛――否、存在が削り取られる絶対的な喪失感に奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばりながら、残った右手でコンソールを叩き続けていた。


「ですが……ここまで圧倒的とは! 質量も、概念も、一切の防御が通用しない! シミュレーション上の勝率は、既に0です!」


 彼のリスク回避思考が、どれほど演算を回しても、導き出される答えは「全次元の消去」という一文のみ。

 

 策はない。手立てもない。

 

 神々が身を削って時間を稼ごうと、経済の魔術師がゼロから盾を錬成しようと、行き着く先は「無」である。


「……可能性など全くない。論理も理屈も通じないこの絶対の虚無を裏返せる『不確定要素』など、本来であれば存在するはずがない。……しかし!」


 ノキは、血を吐くような思いで、崩壊していく紫星城のシステムを強引に繋ぎ止め、残存する全魔力フローのバイパスを、たった一箇所へと集中させた。


 それは、計算された勝利への道などではない。


 この宇宙で唯一、確定した事実すらも書き換えることができる規格外の力への、狂気の信仰にも似た託宣。

「頼みます……! この理不尽を、貴女の『お転婆』でブチ壊してくれ……!」


 ノキが繋いだ魔力のバイパスは、玉座の傍らで、純白のウェディングドレスに縛り付けられている少女――ローラへと直結していた。


 紫星城の莫大な魔力が、ローラという「観測者」の力を極限まで覚醒させるための燃料として、彼女の瑠璃色の瞳へと注ぎ込まれる。


 魔力の供給を受けたローラの魂の奥底で、あの泥臭く、逞しく、アラビリスの裏路地で理不尽に対して真っ先に拳を握って立ち向かっていた「気が強い」娼婦時代の魂が、猛烈な爆発を起こした。


 その熱量は、彼女を雁字搦めにしていた「安全な箱庭で愛されるだけの花嫁でいなさい」という醉妖花(骸薔薇)の呪縛を、内側から完全に焼き切った。

 聴覚が戻る。視覚がクリアになる。


「……ふざけんな!」

 ローラの口から、抑えきれない怒声が迸った。

 彼女は、自らの身体を縛り付けていた重苦しい純白のウェディングドレスの胸元を、両手で力任せに掴んだ。

 数億の魔晶石が縫い込まれ、因果律すら律していたはずのその「見せかけの花嫁衣裳」を、彼女はただ純粋な魂の力と腕力だけで、ビリッ!! と無残に引き裂いた。

 

 飛び散る純白の布切れと魔晶石の破片。

 

その下から現れたのは、美しい姫君の肌ではない。


 これまでの過酷な戦いで泥と汗にまみれ、あちこちが擦り切れた、白茶色の探検服姿であった。


「ローラ……?」

 恐怖に震え、玉座にへたり込んでいた醉妖花が、信じられないものを見るように目を見開く。

 ローラは、引き裂いたドレスの残骸を足蹴にすると、怯える醉妖花を、真正面から鋭く睨みつけた。


 「ちょっと、醉! あんた、いつまでそんな所で震えてるのよ!」

 その言葉は、臣下が主君に向けるものでも、花嫁が伴侶に向けるものでもなかった。対等な、いや、目を覚まさない悪友の横っ面を張り飛ばすような、強烈な叱咤だった。


「あんたはね、箱庭の安全な場所で、綺麗なお人形で遊んでるから、本当の『心』が見えなくなるのよ! 泥にまみれて、傷ついて、それでも必死に立とうとしてる奴の心が、あんたには見えないの!?」


「なっ……! ローラ、貴女、何を言って……外は『虚無』なのよ!? 触れれば、貴女の存在自体が『なにも存在しない』状態にされてしまうのよ! お願い、こっちへ来て! 私の腕の中に……!」

 醉妖花が、悲鳴のような声で手を伸ばす。彼女の中の骸薔薇の残滓が、まだローラを「守るべき所有物」として安全な場所に囲い込もうとしていた。


 だが、ローラはその手を払いのけた。

「断るわ」

 ローラは、腰に帯びていた黒曜星の刃の柄を強く握りしめた。


「あんたが怖くて動けないなら、私がやる。あんたの箱庭が壊れるっていうなら、私が新しい世界を『観測』してあげるわ!」


 ローラは、恐怖に静止する醉妖花をその場に置き去りにし、玉座の間へと侵入してきている「白き虚無の根」――ヴィクターが変貌した大樹の核へと向かって、迷いなく歩みを出した。


「ローラ! 駄目ぇぇぇッ!!」

 醉妖花の絶叫が響く。

 ノキは、自らの右腕が白く消えゆく中で、ローラの迷いのない背中を静かに見届けていた。

(ええ、そうです。神すら諦めるこの虚無の帳を破れるのは、人間である貴女の、その理不尽なまでの意地だけなのです……!)


 ローラの足が、白き虚無のノイズが渦巻く領域へと踏み込んだ。

 

 瞬間、「なにも存在しない。故に、何もない」という絶対法則が、彼女の肉体と存在確率に無慈悲な牙を剥いた

「ぐ、ぅッ……!」

 激痛はない。だが、靴の先から、探検服の裾から、そして彼女の肌の表面から、色が抜け落ち、ポロポロと白いノイズとなって「消去」されていく。


 自分が誰であったか、何をしようとしていたか。記憶すらもが空白に書き換えられそうになる、死よりも深く、恐ろしい喪失感。


(負けない……! 私の存在は、誰にも消させない……!)


 ローラは、奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、黒曜星の刃を杖代わりにして、一歩、また一歩と虚無の暴風の中を前進していく。


 肌が白く透け、存在が明滅しようとも、彼女の瑠璃色の瞳だけは、決してその光を失わなかった。


 彼女の視線の先にあるのは、絶対の「無」であるはずの白亜の大樹の、そのさらに深奥。

 そこは、ヴィクター・フェイザーという個人の自我が完全に漂白され、システムが崩壊したはずの場所。

 ローラの【観測】の瞳は、その絶対的な空白を捉えた。


 ――そこには、本当に何もなかった。


 愛の残滓も、祈りの破片も、後悔も、生への執着も。


 ヴィクターの魂は、文字通り完全に消滅しており、塵一つ、ノイズ一つ残っていなかった。

 それが、この宇宙における「確定した事実」だった。

 

 だからこそ、醉妖花の【超越汎心論】は意味を成さなかったのだ。

 

 だが、ローラは、その「揺るぎない事実」を前にして、歯を食いしばり、顔を上げた。

「……残滓すら残っていない? 全てが消えて、無かったことになった?」

 

 ローラの身体の半分以上が透明に透けかけ、彼女自身の存在が消去される寸前。

 

 彼女は、黒曜星の刃を天に掲げ、因果律のキャンバスに強引に筆を叩きつけるように、自らの意志を、魂の底から絶叫した。


「ふざけないで! そんな悲しいこと、私は決して認めない!!」


 【絶対観測】――過去の事実の強制書き換え。


『ヴィクターの魂が完全に消滅したという事実は、間違っている! 彼は私たちを守ってくれた! 姉妹たちを愛していた! 彼らの想いが、絆が、そんなにあっさりと『無かったこと』になるはずがない!』

 黒曜星の刃から放たれた瑠璃色の光が、白き虚無のド真ん中を貫き、何もないはずの絶対的な空間へと真っ直ぐに突き刺さった。


『私が『観測』する! 彼の心は、姉妹たちの愛と共に、確かにここにある!!』


 それは、宇宙の歴史への明確な反逆。


「ヴィクターの魂は消滅した」という確定した過去を、「誤った観測であった」として強引にデリートし、「ヴィクターの心は、決して消えずにそこに在り続けている」という新たな歴史を、ゼロから創り出し、絶対の法則として固定したのだ。


 白亜の巨木が、激しく脈動した。


「なにも存在しない。故に、何もない」はずの絶対的な白紙の領域に、強引に「有(ヴィクターの心)」というインクが叩きつけられたのだ。


 虚無の暴風が、ピタリと止んだ。


 存在の消去が停止し、透けかけていたローラの身体の輪郭が、再び確かな実体を取り戻していく。


 玉座の傍らで、その光景を呆然と見つめていた醉妖花の中で、決定的な「崩壊」と「新生」が起きた。


 自らの存在が消えかけても、泥にまみれ、ボロボロになりながら、確定した絶望すらも意地で覆し、他者ヴィクターの心を復活させようと吠えるローラの背中。


 その泥臭く、不格好で、しかし宇宙のどんな宝石よりも眩しく力強い輝きを見た瞬間。

 醉妖花の深層にこびりついていた、骸薔薇の「全てを自分の箱庭に閉じ込め、安全な標本として支配する」という猟奇的な美意識が、ガラスが砕け散るような高い音を立てて、完全に崩壊したのだ。


(……ああ。私は、なんて愚かだったのかしら)

 醉妖花の瞳から、赤と金の禍々しい光がスッと消え去り、本来の、深く澄み切ったラピスラズリの青が戻ってくる。


 ポロリ、と、彼女の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。

(私が愛した貴女は、ガラスの温室で安全に飾られるような、大人しい花なんかじゃなかった。……泥の中で、理不尽に抗って、誰よりも強く、一番美しく咲く、無鉄砲なお転婆な女の子だったじゃない)


 支配したいわけじゃない。閉じ込めたいわけじゃない。


 私はただ、この気高くて危なっかしい少女の、その泥だらけの隣を歩きたかっただけなのだ。


 醉妖花を取り巻いていた、独善的で冷酷な「太母」のオーラが、春の陽射しのように暖かく、そして無限の包容力を持つ、真の神性へと昇華していく。


 彼女は、玉座を蹴り、自らの足で駆け出した。


 ドレスの裾が破れることも厭わず、彼女は虚無の余波が残る空間を走り抜け、ローラの背中へと追いつく。


「……醉?」


 息を切らすローラが振り返る。


 醉妖花は、もうローラを「保護すべき弱い存在」としては扱わなかった。


 彼女は、泥と汗にまみれたローラの隣に並び立ち、その震える手を、自らの両手でしっかりと握りしめた。


「ごめんなさい、ローラ。私、少し間違えていたわ」


 醉妖花は、心からの、等身大の少女としての笑みを浮かべた。


「貴女の観測で、この大樹に『心』が生まれた。……なら、ここからは私の仕事よ。私の背中を、預けるわね」

 それは、主従でも、保護者と被保護者でもない。


 互いの強さを心から肯定し、背中を預け合う「対等のパートナー」としての、完全なる承認であった。


 この瞬間、二人の間にあった強制的な関係が完全に解消され、二人の心が初めて、完璧な形でシンクロを果たした。


 ローラが【観測】によって、無から有へとヴィクターの「心」を復活させたことで、絶対の「無」であった大樹の虚無に「心」が生まれた。


 それはすなわち、醉妖花の【超越汎心論】が、大樹に対して完全に通じるようになったことを意味する。


「ノキ!」

 醉妖花が呼ぶと、右腕を失いながらも完璧な庭師として立ち上がったノキが、恭しく一礼と共に「奇怪な形状のハルバード」――宇宙を切り分ける剪定バサミを彼女の元へ投擲した。


 ハルバードを空中で掴み取った醉妖花は、骸薔薇の呪縛から完全に解き放たれ、真の太母として、そして一人の恋する乙女として、大樹の虚無へと向き直った。

「さあ、ヴィクター。貴方のその白紙のキャンバス、私の庭の、美しい『余白(静寂)』として包み込んであげるわ」


 醉妖花がハルバードを振るう。


 それは、破壊の斬撃ではない。暴走する虚無の枝葉を優雅に切り落とし、復活したヴィクターの心という「幹」だけをこの宇宙に残す、究極の『剪定』の舞であった。


 お転婆な少女の反逆が、悪役令嬢の歪んだ愛を打ち砕き、二人の真の絆が、宇宙の終焉を今、食い止めようとしていた。


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