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「お母様は悪役令嬢」  作者: 輝く泥だんご
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第129話 『何もない』


 声なき絶望の咆哮と共に、圧縮された「死の球体」が、骸薔薇の遺骸の胸から弾け飛んだ。


 放たれたのは、純度100%の「死の奔流」。


 それは、触れたものの細胞を瞬時に腐食させ、精神を死の絶望で染め上げ、魂の活動を強制的に停止させ、永遠の屍として固定化する、最も重く、最も残酷な濁流。

 

その黒き奔流が、宇宙空間を真っ二つに裂きながら、『False Harbinger』へと一直線に殺到した。


「来させないわ!!」

 ダイヤモンド・カイが叫ぶ。


 12姉妹は、ヴィクターを護るため、ヴィクターの精神を維持する演算を行っていたその接続を逆流させ、自らの水晶の義体を物理的・概念的な「盾」として展開した。


 だが、宇宙の墓場から集められた絶対的な死の呪詛の前に、その強固な水晶の装甲は、まるで薄い飴細工のように脆かった。


 パァンッ!!


 第一の盾が、黒い奔流に触れた瞬間に腐食し、粉々に砕け散る。

 続く第二、第三の盾も、防ぐ間もなく死の毒に侵され、ドロドロに融解して消滅していく。

「あ、がぁっ……!」

 姉妹たちの共有意識空間に、体を腐らせられ、生命活動を強制停止させられる凄まじい苦痛が走る。


 アメシスト・ミューの紫色の瞳から命の光が消え、彼女の姿が風化した石塊となって崩れていく。


「ヴィク……ター……」

 ローズクォーツの懇願も虚しく、彼女の体は黒い死の濁流に飲み込まれ、屍となって散華した。


 十二重の盾が、全て砕け散った。

 姉妹たちの断末魔の悲鳴が、ヴィクターの脳髄に直接響き渡る。

「……演算領域、完全腐敗。自我の維持、不可能」

 ヴィクターの脳内で、彼を必死に繋ぎ止めていたアイオライト・シータの声が、死のノイズにまみれて途切れた。彼女のパッチデータもまた、限界を超えた死の圧力によって、ヴィクターの精神の深奥で無残にひび割れ、生命の灯火を絶たれたのだ。


「……アイオ、ライト……」

 姉妹たちの砕け散る悲鳴。


 自分を繋ぎ止めていた、アイオライトという名の冷たい、しかし確かな愛情の完全なる「死」。

 

 そして、眼前に迫り来る、亡霊花ヶの絶対的な死の奔流。


 全てを真正面から受け止めたヴィクター・フェイザーの中で。

 彼を「英雄」として、あるいは「個」として規定していた最後の一線が、ついに音を立てて弾け飛んだ。


 ヴィクターの喉から、機械の合成音声ではない、魂の底から絞り出されたような絶望の絶叫が迸った。


 それは、彼自身の悲鳴であると同時に、彼の中に封じ込められていた「何か」が、ついに檻を破って外へと飛び出した産声でもあった。


 ストッパーを完全に失った彼の本質。


「さいなまれる大樹」が、ここに侵食を果たした。


 漆黒の機体『False Harbinger』が、内側から裏返るようにして、おぞましい変異を開始する。


 黒い装甲がメリメリと剥がれ落ち、内部の魔導回路が狂ったように暴走し、膨張する。


 その中から現れたのは、もはや機械でも人間でもない。


 あらゆる光、あらゆる音、あらゆる「意味」を剥奪し、「何も無い」にする絶対的な白。


 漆黒の宇宙空間に、突如、巨大な「白亜の巨木」がその姿を現したのだ。


 枝葉はなく、ただ空間の亀裂そのものが樹木の形を成しているかのような、漂白された存在感。


 だが、大樹の覚醒が引き起こした虚無の災厄の片隅で。


 紫星城の玉座の間に立つ醉妖花は、その事態に動じることなく、自らの「食事」という名の自己統合の儀式を遂行していた。


 ヴィクターが白き虚無を放ち、亡霊花ヶの最後の一撃を完全に相殺したその隙を、彼女は絶対に見逃さなかった。


「……目障りな抵抗ね。でも、それで終わりよ。お休みなさい、私の愛しい抜け殻」


 醉妖花の背後に顕現した巨大な薔薇の幻影が、泥の海から引きずり出された巨大な骸薔薇の遺骸の頭から、無慈悲にその牙を突き立てた。


 世界で最も美しく、そして強固であったはずの骸薔薇の肉体が、文字通り「噛み砕かれる」おぞましい音が、全次元に響き渡った。


 亡霊花ヶの断末魔。


 それは、数多の宇宙を死に染め上げてきた絶対者が、己の器ごと「捕食される」という屈辱と絶望を味わった悲鳴だった。


 幻影の薔薇の無数の牙が、骸薔薇の遺骸を容赦なく引き裂き、咀嚼する。砕けた真珠の肌から、腐敗した血ではなく、亡霊花ヶが蓄積してきた膨大な死の概念が黄金に輝く魔力となって溢れ出し、幻影の薔薇の喉奥へと飲み込まれていく。


 泥の海が、急速に色を失い、崩壊していく。


 亡霊花ヶという存在の根幹と、骸薔薇という過去の肉体が、醉妖花の「太母」としての胃袋に落ち、完全に消化され、統合されていく。


 ゴキュン。

最後の一片である、ハルバードの傷跡が残る心臓を飲み込み、巨大な花の幻影は、満足げにその花弁を閉じた。


「……ごちそうさま」


 醉妖花は、艶やかに濡れた唇を指先で優雅に拭うと、冷徹に言い放った。


「少し、泥臭かったけれど。これで私は、過去も未来も全てを内包する、真の太母として完成したわ」

 亡霊花ヶの本体は、ここで完全に敗北し、消滅した。


 かつて宇宙を脅かした「死」の権化は、醉妖花が自らの遺骸を取り込み、過去と決別するための儀式の「供物」として処理されたのだ。


 だが、勝利の歓喜が訪れることはなかった。


 醉妖花が自らの過去の亡骸を喰らい尽くし、真の太母として完成したまさにその瞬間。


 足元では、クオーツ・ゲシュタルトの死によりストッパーを失ったヴィクター・フェイザー――「さいなまれる大樹」が、宇宙そのものを白紙に戻す最大の大災厄として、白き産声を上げていたのである。


 宇宙の根底が揺れる。


 白亜の巨木から、空間の亀裂である「白い根」が、四方八方へと爆発的に広がり始めた。


 それは、亡霊花ヶが消え去った後の泥の海の残滓を、そして背後にいる八十八重宇段大天幕を、さらにはこの多元宇宙そのものを、「ゼロ」へと帰すための「絶対的な白の波動ノイズ」の放射であった。


「死」の脅威が去った直後に現れた、「消去」という名の真の絶望。

 

 世界は、極限の破滅へと加速していく。


 それは、「死」という概念すらも凌駕する、真の絶望の幕開けであった。


 「死」は、まだ救いがあった。なぜなら、死んで骸となること自体が、そこに命があり、歴史があったことの証明であり、対抗し、あるいは受け入れるべき対象としての「理」を持っていたからだ。


 しかし、クオーツ・ゲシュタルトの犠牲という最後のストッパーを失い、完全覚醒を果たしたヴィクター・フェイザー――「さいなまれる大樹」が放つものは、全く異質であった。


 彼が変貌した「白亜の巨木」から、空間の亀裂そのものである「白い根」が、四方八方へと爆発的な速度で伸長していく。


 その白い根が触れた泥の海は、泥として乾くことも、灰になることすらない。ただ、色が抜け落ち、音が消え、質量が失われていく。


 歴史が巻き戻るのではない。過去が消えるのでもない。


 ただ、現在そこにあるものが、「なにも存在しない。故に、何もない」という絶対的な白紙の状態へと塗り替えられていくのだ。


 脅威のスケールは、生命を刈り取る「死」から、宇宙というキャンバスそのものを漂白する「存在の消去」へと跳ね上がっていた。


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