第128話 『漆黒の衝角』
数多の0世代宇宙を蹂躙し、その最奥の次元断層すらも強引に突き抜け、全天を覆う巨大な繭――八十八重宇段大天幕は、ついに全次元の底へと到達した。
大天幕の最奥に鎮座する紫星城の展望窓から見下ろす外景は、いかなる狂人の悪夢よりもおぞましいものだった。
そこは、亡霊花ヶの真の本体が潜む場所。
星々の光など到底届かぬ、絶対的な暗黒。無数の、既に死に絶え、太母のシステムによって廃棄された「0世代世界」の残骸。砕けた惑星の破片、干からびた恒星の骸、そして崩壊した次元の膜が、重力すら意味を持たない空間で折り重なっている。
それらの死骸が溶け合い、腐敗し、果てしなく広がる「泥の海」を形成していた。
それは、宇宙の墓場。死と絶望だけが泥濘となって渦巻く、存在の終着点である。泥の表面からは、常に「ボコッ……ボコッ……」と、無数の死者の怨念が気泡となって弾け、宇宙の真空であるにも関わらず、魂を直接腐らせるような異臭が放たれていた。
八十八重宇段大天幕の巨大な影が、その泥の海の上空に姿を現した瞬間。
泥の海の最深部に潜む亡霊花ヶの本体が、自らの領域を侵す明確な外敵を感知した。
海全体が、まるで一つの巨大な生物のように隆起する。
そして、全次元に向けて、途方もないスケールの呪詛が解き放たれた。
『――死の永遠の肯定――』
それは、死を究極の美と肯定する亡霊花ヶが放つ、最悪の呪い。
泥の海そのものが意志を持って逆巻き、大天幕を永遠の停滞へと引きずり込もうとする絶対法則の波濤である。
この泥に触れたが最後、生ける者は如何なる抵抗もできずに死せる者となり、死せる者は腐敗の頂点で時間が固定される。あらゆる運動エネルギーが泥の粘り気に奪われ、魂の底まで神経を侵す猛毒の中で、永遠に悶え続ける泥濘の地獄。
銀河を丸ごと飲み込むほどの巨大な泥の津波が、大天幕の下部防隔へと牙を剥いて殺到する。その高さは数万光年にも及び、波頭には無数の苦悶する骸骨の顔が浮かび上がっていた。
だが、その絶望の海に、大天幕から真っ先に飛び込んでいく三つの小さな光があった。
「みつらぼし」の三騎である
。
「……燃えなさい。貴女のその小汚い泥は、お嬢様の靴を汚すわ」
真空の宇宙空間に、月跡の冷徹な、しかし澄み切った声が響き渡る。
彼女が搭乗する漆黒と銀の重装甲機『Selene Executor』が、泥の津波の真正面に躍り出た。機体の背部に展開された巨大な光輪が、冷たくも神々しい月光のように輝き始める。
『鎮魂歌・フレア』
月跡が機体の腕を優雅に振るうと、彼女の本質である「焼き尽くす」概念が、リレイフレームの絶大な出力を経て、戦略兵器の規模で解き放たれる。
放たれたのは物理的な高熱の炎ではない。「死んでいる」という属性そのものを燃料とし、対象の存在の歴史ごと焼き尽くす、絶対的な銀の炎。
迫り来る泥の波濤が、銀の炎に触れた瞬間、概念そのものが蒸発する凄まじい音を立てて泥としての形を失っていく。熱で乾くのではない。
泥を構成していた怨念と呪詛が燃え上がり、ただの無害な銀色の灰へと変換されていくのだ。星を飲み込むはずの泥の津波が、月跡の機体の前で真っ二つに裂け、灰となって宇宙の塵に還っていった。
その空間の裂け目に、深紅の重装甲機『Hecatoncheir Arms』が、物理的な慣性を完全に無視した軌道で転移してくる。
ほたるである。
先刻までの軽口は鳴りを潜め、コックピット内のほたるの瞳には、冷徹な殺意と、目前の「理不尽な死」に対する激しい嫌悪が張り付いていた。
「……チッ。斬っても斬っても湧いてきやがる。反吐が出そうな死臭だ」
機体の関節部が重低音の駆動音を上げ、背部から伸びる六本の巨大なサブアームが、空間そのものを鷲掴みにするように動く。
彼女の本質、「武具の操作」。彼女にとって、敵の放つ呪詛も、眼前に広がる広大な泥の海そのものも、自らを害そうとする「武具」に他ならない。
「邪魔だ。オレの道を、クソみたいな死臭で塞ぐな」
主腕が握る、全長数百キロメートルにも及ぶ概念武装『ギガント・デスサイズ・II』。
ほたるが機体のスロットルを力任せに押し込むと、大鎌が無慈悲な弧を描いて振り下ろされる。
それは泥を斬るのではない。空間ごと、次元ごと、泥の海が存在する「座標」そのものを切り裂いた。ズガガガガッ! と宇宙が引き裂かれる音が響き、泥の海に何万光年にも及ぶ巨大な断層が生じる。
亡霊花ヶの防御陣形が物理的にズタズタに引き裂かれ、泥の波が自らの重力で崩壊していく。ほたるの顔に一切の容赦はない。彼女はただ、主君が通るための絶対的な「道」を切り開くという任務を、血の滲むような集中力で遂行していた。
そして、その後方から、鋼鉄の巨像『Mentha Majesty』が、無数のビットを散布しながら悠然と進出してきた。
「……第3420から3500番ライン、侵攻ルートの確保を確認したなお。これより、この汚い泥の海を、お嬢様の『敷地』として接収するなお!」
コクピットの中で、ミントは白濁した瞳から血の「未練の涙」をダラダラと流し続けながらも、その指先は神業のような速度でコンソールを叩き続けていた。
散布されたビットが、泥の海の上に、緑色の幾何学模様――巨大な魔法陣のグリッドを形成する。彼女の本質「増殖」と「浸潤」が、リレイフレームの演算能力によって銀河規模に拡大される。グリッドが泥に触れた瞬間、亡霊花ヶの領域が強制的に上書きされ、泥が硬質な魔黒大理石へと瞬時に置換されていく。
大天幕が進軍するための物理的な「足場」と、城の理が完全に適用される「制圧エリア」が、圧倒的な速度で構築されていくのだ。
「残業代は弾んでもらうなお! こんなブラックな環境での出張作業、最低でも有給百年分と、最高級のケーキバイキングで手を打つなお!」
ミントが、血の涙を拭うことすらできずに、通信回線で吠える。
眼下に広がるのは、常人であれば一瞥しただけで発狂するような凄惨な死の海。しかし、彼女たちは既に醉妖花の狂気の中にあり、亡霊花ヶの狂気が立ち入る隙はもうすでに無かった。
彼女たちが蹂躙し、焼き払い、切り拓き、そして敷地へと書き換えた道を通って。
八十八重宇段大天幕はゆっくりと、しかし絶対的な王者の威容をもって、泥の海の中心――亡霊花ヶの懐深くへと降下していく。
大天幕の最奥、紫星城、玉座の間。
展望窓の外に広がる、銀の炎に焼かれ、鎌に切り裂かれる泥の海。
その光景を、醉妖花は玉座に深く腰掛けたまま、冷徹に見下ろしていた。
彼女の傍らには、純白のウェディングドレスに身を包まれたローラが、見えない糸で縫い止められたように立っている。
「私の庭の雑草抜きも、そろそろ仕上げね」
醉妖花は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
その瞬間、彼女の瞳のラピスラズリの奥で、赤と金の光が爆発的に燃え上がった。
それは、もはや一人の少女の魔力ではない。全宇宙の「心」を支配し、己の美意識のままに蹂虙する、完全なる「太母」としての神威の顕現であった。
「……いただきましょうか」
醉妖花が、ドレスの裾を翻し、両腕を大きく天へと掲げる。
【超越汎心論】――極限解放。
紫星城の背後に、宇宙そのものを覆い尽くすほどの、途方もなく巨大な「黒と真紅の薔薇の幻影」が顕現した。
その幻影は、物理的な質量を持たないにも関わらず、存在の重みだけで周囲の次元を軋ませている。花弁の一枚一枚が、銀河を包み込むほどの広がりを持ち、その中心には、あらゆるものを噛み砕き、消化するための、無数の目に見えない「牙」が渦巻いていた。
「貴女のその終わらない絶望。……私の庭の、極上の土壌として愛してあげるわ」
醉妖花の絶対的な支配の意志が、幻影の薔薇を通じて、泥の海全体へと浸食を開始する。
泥の海を構成していた死者たちの怨念が、醉妖花の「心」を魅了する力に触れ、次々と
「恐怖」から「恍惚」へと塗り替えられていく。泥の海が、まるで醉妖花に傅くように波打ち、その深淵から、亡霊花ヶの本体の「核」が、ズルリと引きずり出されていく。
それは、想像を絶する光景であった。
泥と絶望が剥がれ落ちたその奥から現れたのは、巨大な球体や植物の根などではない。
――美しい、あまりにも美しい『美しい少女の亡骸』であった。
黒漆より深く照り輝く髪が、宇宙の無重力空間に広がっている。
真珠のように光を纏う白磁の肌は、死後数十億年を経てもなお、一片の腐敗も許さず、完璧な美しさを保っていた。
その胸の中央には、かつて一人の男(Jacomus)が振るった、奇怪な形状のハルバードによって貫かれた、生々しい致命の傷跡がぽっかりと口を開けている。そこから溢れ出るのは血ではなく、数多の宇宙から吸い上げた「濃密な死の概念」そのものであった。
若き日の『骸薔薇』。
かつて紫星城で討ち取られ、宇宙から失われたはずの究極の悪役令嬢の遺骸。
亡霊花ヶは、この宇宙で最も美しく、最も尊き「死」の結晶であるこの遺骸を己の器として取り込み、その絶大な呪詛を苗床にして、全次元に死を振りまく災厄へと成長していたのだ。
玉座の間に立つ醉妖花の瞳が、見開かれた。
彼女の奥底に眠る骸薔薇の人格が、己の過去の肉体を前にして、歓喜と、そして身を焦がすほどの激しい怒りに震える。
「……ああ。探していたわ。私の、愛しい抜け殻」
醉妖花(骸薔薇)の唇が、三日月の形に歪んだ。
それは、紛れもない自己愛と、自らの所有物を勝手に弄ばれたことへの、絶対王者の憤怒であった。
「私の体を勝手に着込んで、死の安寧だなんてカビの生えた教義を騙る泥棒猫。……少しは似合っているかと思ったけれど、やっぱり薄汚れているわね。死体愛好家の悪趣味な飾り付けなんて、反吐が出るわ」
泥の海から引きずり出された骸薔薇の遺骸が、ゆっくりと、その虚ろな瞳を開いた。
赤と金の輝きを失い、絶対的な死の闇だけが広がるその双眸が、玉座に立つ「今の自分(醉妖花)」を見据える。
『――帰っておいで、私の魂よ。生の苦しみに終止符を打ち、美しき死の永遠に、ともに眠ろう――』
遺骸の口が微かに動き、亡霊花ヶの意志が、骸薔薇の肉体を通して甘美な誘惑を放つ。それは、魂の持ち主に対する、究極の「死の求愛」であった。
「……ふふ。お断りよ」
醉妖花は、扇で口元を隠し、心底可笑しそうに笑った。
「他人が着古した私のドレスなんて、もう未練はないわ。私は今、最高に愛おしい『新しい花』を見つけたばかりだもの。でもね……」
醉妖花の背後に浮かぶ幻影の薔薇が、さらに巨大に膨れ上がり、骸薔薇の遺骸をすっぽりと包み込んだ。
「失われた私の『半身』。それを喰らうことで、私は真の意味で完成する。亡霊花ヶ、貴女のその勘違いした『死の美学』ごと、私の新しい庭の肥料にしてあげる」
幻影の薔薇の無数の牙が、骸薔薇の遺骸の白磁の肌に、容赦なく突き立てられた。
自身が太母の糧として「捕食」されることを悟った亡霊花ヶは、ただ黙って飲み込まれることを良しとはしなかった。
亡霊花ヶにとって、全てを強制的に終わらせ、骸として永遠に固定することこそが「死」の救済である。それを否定し、生きたまま喰らい尽くそうとする醉妖花の在り方は、死に対する最大の冒涜であった。
亡霊花ヶは、引きずり出されそうになる自らの「根」を強引に泥の底へと食い込ませ、遺骸の胸の傷跡から、残存する全次元の「死の質量」のすべてを、ただ一点へと圧縮し始めた。
その圧縮された死のエネルギーは、もはや黒を通り越し、全ての命の活動を強制停止させる絶対的な「死の球体」となって、遺骸の胸元に現出した。
亡霊花ヶが、その最後にして最大の怨念の矛先を向けたのは、自らを喰らおうとする醉妖花ではなかった。
大天幕の最前線。
次元の壁を穿ち、この泥の海への道を切り開いてきた、漆黒の衝角――『False Harbinger』
そして、その機体に物理的・霊的に直接接続し、ヴィクター・フェイザーの精神を必死に維持する演算を行い続けている、クオーツ・ゲシュタルトの12姉妹たちであった。
彼女たちは、大天幕の制御などには目もくれていなかった。
12姉妹の義体は『False Harbinger』に深く癒着し、その全演算リソースを、たった一つの目的――「ヴィクターの自我を維持すること」に注ぎ込んでいた。
次元の壁を穿つたびに、彼自身の本質である「さいなまれる大樹」が暴走の兆しを見せ、ヴィクターの精神を白き虚無で塗りつぶそうとする。姉妹たちは、その巨大な虚無の圧力に対し、自らの魂の演算回路を焼け焦がしながら、必死に「ヴィクター・フェイザーという個人の定義」を書き込み続けていたのだ。
「……ヴィクターさん、私の声を聞いて。貴方は、木じゃない。貴方は……私たちの……」
ローズクォーツ・イプシロンが、機体の表面にすがりつくようにして、涙ながらに演算を送り込む。
「出力低下! 虚無の浸食率、限界突破寸前! でも、絶対に離さないわよ!」
カーネリアン・アルファが、ショートする回路の痛みに顔を歪めながら叫ぶ。
ヴィクターの脳髄に直接パッチとして仕込まれていたアイオライト・シータの人格データもまた、限界ギリギリのところで彼の論理回路を修復し続けていた。
だが、そこに、亡霊花ヶの最後の一撃が放たれた。
『――死の安寧を拒絶し、生を貪る者たちよ。ならば、あらゆる命脈を断ち切る、絶対の「虚無」に沈むがいい――』




