第005話 灰灯工房、開店準備
灰灯工房は、想像以上にひどい状態だった。屋根は一部抜け、扉は傾き、作業台には厚い埃が積もっている。炉の前には割れた魔石が散らばり、地下へ続く階段からは湿った風が上がってきた。普通の令嬢なら泣くだろう。リディアは袖をまくった。泣くのは掃除が終わってからでも遅くない。
最初に決めたのは、営業時間だった。朝の鐘二つから夕方の鐘六つまで。昼休憩は必ず取る。緊急対応は別料金。看板にそう書くと、通りかかった老人が目を丸くした。
「魔道具屋が、休むのか」
「休まない魔道具屋は、いつか壊れます」
「道具ではなく人の話か」
「両方です」
町長エッダは、リディアを警戒していた。王都から来た元侯爵令嬢など、面倒ごとの塊に見えて当然だ。だが彼女は、工房の権利書と税の支払い計画を机に並べ、できることとできないことを正直に説明した。大きな約束はしない。安請け合いもしない。その代わり、引き受けたことは記録に残す。
「王都の方は、もっと派手におっしゃるものかと」エッダが言った。
「派手に言えば屋根が直るなら、いくらでも言います」
エッダは初めて笑った。笑い方は短く、まだ信用には遠い。けれど敵意ではなくなった。それだけで十分な進展だった。
グレンという鍛冶屋は、壊れた蝶番を見て渋い顔をした。「こりゃ丸ごと替えたほうがいい」
「予算がありません」
「正直だな」
「嘘で蝶番は直りません」
彼はしばらくリディアを見てから、余り物の金具を持ってきた。代金は後払いでいいという。ユナという針子は、破れた作業布を縫い、ノアという少年は掃除を手伝う代わりに工具を触りたがった。
フォルは誰よりも堂々としていた。埃の山に鼻を突っ込み、危険な魔石だけを外へ弾き出す。役に立つが、同時に邪魔でもある。リディアは帳簿に「看板獣候補」と書き、食費の欄でしばらく悩んだ。
夕方、工房の窓に修復した照明石を吊るすと、薄い琥珀色の光が通りへ漏れた。近所の子どもたちが足を止め、古い工房が開いたのかと囁く。リディアは扉の内側から看板を掛けた。灰灯工房。修理、相談、生活魔道具。無理な納期はお断り。
その看板を見た時、胸の奥が少し震えた。王太子妃になる未来は消えた。だがその未来には、彼女の名前で開く扉はなかった。今は違う。この小さく傾いた扉は、リディア自身が開け閉めできる。
閉店札を裏返すと、ノアが不思議そうに尋ねた。「まだ明るいのに閉めるんですか」
「明日も働くためです」
「王都の人って、そういうことを考えるんですね」
「考えない人が多いから、私は逃げてきました」
その夜、工房の奥で水音がした。地下からだ。竜骨水路への接続という図面の注記が、リディアの頭をよぎる。初日の掃除は終わった。だが、この工房がただの廃屋ではないことは、もう明らかだった。




