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第001話 婚約破棄は業務時間外にお願いします

新連載です。婚約破棄から始まる、職人・辺境内政・もふもふ・溺愛の長編です。

王城の白大理石の広間には、花の香りと勝ち誇った沈黙が満ちていた。王太子カイルが婚約破棄を告げた瞬間、貴族たちは息をひそめ、リディア・ヴェイルが泣き崩れるのを待った。隣では聖女セラフィナが涙を浮かべ、異母妹ミレーヌが扇の陰で笑っている。用意された断罪劇は、彼女一人を悪者にするためだけに組まれていた。


けれどリディアの胸の奥で弾けたのは、悲鳴ではなく前世の記憶だった。徹夜続きの会議室、赤字だらけの仕様書、責任を押しつける上司、誰も読まない手順書。懐かしくもない光景が一気に蘇り、目の前の断罪劇が急にひどく粗末な案件に見えた。議事録はない。証拠は曖昧。責任者は感情的。そんな会議に人生を預ける必要はない。


「リディア・ヴェイル。貴様との婚約を破棄する」カイルは朗々と告げた。

「承知しました。では、破棄理由、損害範囲、慰謝料、財産分与、今後の接触禁止条件を文書でお願いします」

広間の空気が止まった。泣き崩れるはずの令嬢が、まるで商談の議事進行を始めたからだ。セラフィナの涙も、ミレーヌの笑みも、一瞬だけ形を失った。


リディアは自分の声が震えていないことに驚いた。怖くないわけではない。王太子の怒りも、貴族たちの視線も、心を切りつけるには十分だ。だが前世で過労死寸前まで使い潰された記憶が、彼女の中に別の怒りを灯していた。もう、曖昧な言葉で責任を押しつけられる側には戻らない。


カイルは顔を赤くした。「罪人が条件を出すな」

「罪人と断定されるのであれば、証拠を提示してください。提示できないのであれば、これは一方的な婚約破棄です」

「聖女が傷ついたと言っている」

「感情は証拠ではありません」

その一言で、広間のざわめきが大きくなった。リディアは初めて、王太子の言葉が絶対ではないとその場に示した。


魔法陣の飾りが施された天井を見上げると、リディアの視界に奇妙な注釈が浮かんだ。線が太すぎる。負荷分散がない。祈りの文言と実際の効果が一致していない。彼女は息をのむ。魔力ゼロと言われ続けた自分は、魔法を使えないのではない。魔法を読む方向が、王都の教本と違っていただけなのだ。


セラフィナが一歩前に出た。「リディア様、どうか素直に謝ってください。わたくし、あなたを憎みたくありません」

「でしたら、憎む前に証拠を出してください」

甘い声に、リディアはもう絡め取られない。前世で学んだ。優しい言葉で圧をかける人間ほど、議事録を嫌う。


広間の端で、老書記官が震える手で羊皮紙を広げた。リディアはそこへ、婚約破棄に伴う条件を淡々と述べる。接触禁止。名誉毀損の撤回。持参金の返還。精神的損害の補填。そして、王都北方にある放棄された灰灯工房の所有権。誰も欲しがらない廃工房の名に、貴族たちは鼻で笑った。


リディアは笑われても構わなかった。むしろ都合がいい。価値を知らない者ほど、価値あるものを安く手放す。彼女の目には、廃工房の古い権利書がただの慰謝料ではなく、新しい人生の起動鍵に見えていた。


その夜、王城の外へ出たリディアは、初めて深く息を吸った。婚約者も、王太子妃の未来も、虚飾の社交界も失った。だが代わりに、自分の時間を取り戻した。彼女は小さくつぶやく。「婚約破棄は業務時間外にお願いします。残業代は、高くつきますから」

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