第18話 矛盾
その傷は致命傷だったろう。
彼女が人間――生物であればの話だが。
概念の具現である《矛盾》の核神・アイソドシンクに命はない。
有機物であっても生命体ではない。
だからその少女らしい華奢な身体の中に臓器などは一切存在せず、斬られたところで溢れ出すのは存在力だけだった。
葵家の二階の壁に背中をめり込ませたまま身動き出来ずに顔を伏せているアイソドシンクの目には微かに苦痛の色が滲んでいる。
命は無く、血も流さないが、それでも痛みは鮮明に感じる。
理由は分からないが、天意によって人間を象っているからなのか、人間と同じ感覚を核神は有していた。
「無様ですね、アイソドシンク。残念ながらこれが、使命を忘却した核神の末路です」
そう言って空中を泳ぎ始めたレクシアは、ゆっくりと風に乗ってアイソドシンクのもとに近付いていく。
残り数メートルというところで空の床に足を付き、そこから歩いて未だ身体に力の入らない核神の目の前まで移動すると、レクシアは抜き身の顕現乖離を翳して言う。
「あなたを消すには、この刀で直接斬らなければなりませんからね。残念ですが、そろそろお別れです。何か言い残すことはありますか?」
「私……は……」
レクシアからの問いにアイソドシンクは必死に顔をあげ、その綺麗な声を絞り出す。
「私は……忘れた、わけじゃ……ない」
「何のことですか?」
「役割、私の……ちゃんと、分かってる……。その上でっ………私、はっ!」
表情に乏しい白き核神が初めて、敵意を剥き出しにした猛犬のようにレクシアを睨み付けた。
「役割を果たさないのであれば覚えていようといまいと同じことです。あなたは天意に反した、それだけで消えてもらう理由には十分足ります」
鋭い視線をぶつけ続けるアイソドシンクに、レクシアは何度目かの溜め息を吐く。
「はぁ、もういいです。終わりにします」
レクシアが上段に顕現乖離を構え、そして一拍置いて一息に降りおろそうと力込め――
「やめろっ!」
――ようとした時、レクシアに後ろからしがみついたのは、先程まで戦闘の様子を離れて見ていた葵蒼汰だった。
蒼汰の手は完全にレクシアの程よく丸みのある胸にその指を食い込ませていたが、そうしている本人は必死でそれを楽しむ余裕はなかった。
「!? ちょ、な! 何処を、触っているんです……かっ!」
言葉尻と同時にレクシアは蒼汰を背負い投げする。顕現乖離はいつの間にか姿を消していた。
二体の核神の間に投げ出された蒼汰は、空の床に打ち付けられた身体に痛みを覚えながらも、すぐにアイソドシンクを背に回し庇うように立ち塞がる。
「いい匂いだったし、柔らかかったよ。ありがとう」
手に残った感触を噛み締めるように言う蒼汰に、レクシアは少し顔を赤くしながら激昂する。
「そんな感想も感謝もいりません! なんなんですかあなたは!」
「葵蒼汰。ただの人間、のつもりだったんだけど、どうやら干渉者らしい」
「自己紹介を求めているのではありません! どういう理由で、アイソドシンクを庇うのですか!」
「どういう理由でって、忘れたのか? 俺はこいつと一緒に君を説得するつもりだったんだぜ? それに、こいつは二度も大事な妹を助けてくれた。なら助けない理由はない」
「純粋な勝負でついた決着にケチをつけるのは、野暮だとは思いませんか?」
「純粋な勝負ね、なるほど。じゃあ一応聞くけどさ、君、自分の実力で勝った……なんて思ってねえよな?」
「は? …………何を、言っているのですか? 先程の戦闘に邪魔は入らなかった。であれば私の力がアイソドシンクのそれに勝ったという事でしょう? アイソドシンクは、私の蒼凰裂閃を避けられなかったのですから――」
「避けられなかったんじゃない、避けなかったんだよ」
「な………そんなことあるわけがありません! 蒼き鳳凰すら落とすあの一撃を避けなければ戦闘不能になるのは必至だと、アイソドシンクも分かっていたはずです!」
「だから、分かってて避けなかったんだ。言ったろ、二度も大事な妹を助けてくれたって。一度目は自分の使命を実行せずに回収を保留にしてくれた時。そして二度目は、今なんだよ」
「今………?」
思考を巡らし、そしてレクシアは気付く。
「まさか!」
「そう。シンクの後ろの壁、その向こうには緋奈が、俺の妹がすやすや眠ってるんだよ。シンクがあの攻撃を避けていたらここに直撃してただろう。あの威力だ、壁を吹き飛ばして緋奈にも被害が出ていたはずだ。普通の人間相手なら核神は影響を与えられないらしいが、緋奈はパラドクスだからな」
「あり、得ない……」
レクシアは信じらない物を目撃したかのように頭を抱えた。
「回収対象であるパラドクスを、守ったというのですか? アイソドシンク、あなたは……」
「私――」
蒼汰の背後で今まで黙していたアイソドシンクが、急に口を開いた。
「私にとって、“葵蒼汰”という人間――蒼くんは興味深かったんです。嘘と知って、偽りと知って、虚構と知っても尚、家族の絆を信じることの出来る人間が、私の思考を凌駕し、私の本質を覆しました。私は、蒼くんの思いが行き着く先を、観測したい。だから――」
「だから、天意に従うよりもこの少年の思いに沿うようにパラドクスを守った……ということですか。なるほど、あなたは――」
レクシアは肩を震わせながら。
「とんだ欠陥品のようですね」
冷たくそう言い放った。
「なぁ、レクシア。君にとって天意ってのが大事なのは分かった。でもその価値観を他に押し付けるのは違うんじゃないか?」
「価値観? あなたこそ勘違いしないでください。私達は人間ではない。天意によって生み出された、世界を運営する役割を担った存在です。あなたはアイソドシンクの心変わりを軽く考えているようですが、あなたにとっても不都合になりかねないことを今、教えておきましょう。アイソドシンクは一つの概念です。概念の思考が変わるということは、そのまま概念の性質が変わるということです。そうなれば、どういうことが起きるか、分かりますか?」
問い掛けているようで、レクシアに答えを待つ気は無かった。
「世界のバランスが崩れ、最悪の場合世界は消滅します」
レクシアが語った単純な結末は、蒼汰に言葉を失わせるには十分だった。
「それを知ってもまだ、変わりつつあるアイソドシンクを、守ろうと思えますか?」
蒼汰は目を伏せて、ただ黙っていた。
「どうやら、理解してもらえたようですね。では、そこをどいてくれませんか?」
「ああ……そうだな」
そう言いつつも、蒼汰はすぐに動こうとはしない。
「? あの……」
「悩む必要なんて無かった」
「何を言って……」
「世界が消滅しなかったとしても、緋奈の居ない世界に価値なんてねえんだからよ」
そんな言葉を吐き捨てて顔を上げた蒼汰の目には、迷いなど微塵もない。
「あなたは……まだ分からないのですか!」
「いや、分かった。勝負で決着をつけようぜ、レクシア」
「……何を言っているのですか? その状態のアイソドシンクが立ち上がったところで勝敗は目に見えて――」
「いや、戦うのはシンクじゃなくて俺だ」
「はぁ!? あなた、正気ですか?」
「ああ。元々俺の問題なんだ、俺が身体を張らないっていうのが矛盾してるだろ。それに、君がさっき言ってた『パラドクスは回収されるべき存在』っていうのも普通に気に入らない。なんでパラドクスが存在しちゃダメなんだ?」
「またその話ですか……パラドクスは矛盾した存在で、世界に害をなすからだと、言ったはずです」
「でも、シンクは一つの可能性を提示した。えっと、なんだっけ?」
蒼汰は後ろを振り向きながら、今は穏やかな表情をしているアイソドシンクに聞く。
「シアの行使権限、【万象保持】は全ての存在を世界に固着させる事が出来ます。つまりシアの意思次第でパラドクスも安定した存在になれる、かもしれません」
「不可能です。パラドクスの存在が天意に認められていないということは、他でもないアイソドシンクの存在が証明しています。いくら私がパラドクスの存在を容認しようとも、天意が認めるはずがありません」
「けど、やってみたわけじゃないよな?」
「やらなくても分かることです。それだけ明確にパラドクスの存在は否定されています」
「否定してるのはお前だろ。天意は何も言ってない。お前の解釈に過ぎない。それに、やらなくても分かることなんてこの世にはない。だってこの世に絶対はねえんだからよ」
ふぅ、と息を吐いて蒼汰は更に語る。
「あのさ、俺は今日思ったことがあるんだ。幼馴染みのクラスメイトとか、同学年の根暗とかと話してて思ったことが」
「なんですか、急に」
訝しむレクシアを手で制して、蒼汰は再び口を開く。
「まあ聞いてくれよ。幼馴染みは、『生きてたいけど、生きてて良いのかなって思う』って言ってた。根暗は、『こんな世界から居なくなっちゃいたいと思うのに、死ぬ勇気がなくて生きてる』って言ってた。俺からしたら、どっちも歪んでるって思ったけど、でもそれが矛盾なんだよな。
なら、矛盾はあっていいって、俺は思ったんだ。誰の心にも、それなりに矛盾はある。眠いけど寝たくない、食べたいけど痩せたい、悲しいけど泣きたくない、頑張りたいけど頑張れない、苦しいけど生きたい、なんでもいい。人間はみんな、何かしらの矛盾を心に持ってる。でもそれは必要なんだ。必要だから存在してるんだ。
お前は『矛盾は存在するべきじゃない』と言う。なら、どうして天意は矛盾を存在させた? 要らないなら、最初から生み出さなかったはずだろ? 答えはすごく簡単なんだ」
どうして、存在し得ない存在、矛盾が存在するのか。それは――。
「矛盾があって初めて、人間が生きられるからだ」
蒼汰が語ったその言葉の意味を、恐らくレクシア、そしてアイソドシンクも真には理解していないだろう。
それでも。
その言葉は確かに、その場に居た二体の核神の心を動かしせしめた。