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98話 精霊と契約するということ


第三訓練場は、夕暮れに沈みかけていた。


昼の喧騒が嘘のように静まり返り、土の地面には、昼間に残った無数の足跡と魔力痕がまだ消えずに残っている。

空気の中には、わずかな精霊の気配が漂っていた。


ナナは訓練場の中央に立っていた。


胸元に刻まれた精霊紋が、淡く、落ち着かないように光っている。

火、水、木、光、闇、雷――

複数の属性の気配が、彼女の周囲を巡っては離れ、また近づいてくる。


「……落ち着かないね」


ナナは、思わず胸元を押さえた。


精霊たちは敵ではない。

むしろ、ずっと自分を守ってくれてきた存在だ。


けれど今は、その“近さ”が、重かった。


「当たり前さ」


背後から、落ち着いた、それでいて芯のある声が響く。


「それだけの数を、無自覚に繋ぎ止めてりゃね」


振り返ると、そこにいたのはミランダ・コーチェラだった。


白髪を後ろで一つに束ね、軍服の上からでも分かる、鍛え抜かれた体。

年齢を感じさせるのは髪の色くらいで、立ち姿そのものは、現役の頃と何一つ変わっていないように見えた。


「……ミランダ先生」


「先生なんて柄じゃないよ」


ミランダは鼻で笑い、ナナの前に立つ。


「今はただの、くたびれたババアだ」


「……ババアって、自分で言うんですね」


「言われる前に言うのが礼儀だろ」


そう言いながら、ナナの胸元に視線を落とす。


「それが、精霊紋かい」


「……はい」


ナナは頷いた。


「私、精霊と契約してます。でも……」


言葉が、少し詰まる。


「うまく、扱えてないって……言われました」


ミランダは即答しなかった。

代わりに、地面に腰を下ろし、片膝を立ててナナを見上げる。


「扱う、ね」


静かな声。


「それがもう、間違いの入り口だよ」


「……え?」


「精霊は道具じゃない」


ミランダの声は、厳しいが、責めるものではなかった。


「そして、守護者でもない」


「精霊ってのはね――」


一拍置いて。


「対等な“隣人”だ」


ナナは息を呑んだ。


「今のあんたは、精霊に囲まれてる」


「数が多いのは才能だ。疑いようもない」


「でもね」


ミランダは、指で地面を叩く。


「囲まれてるだけで、立ってない」


ナナの胸元の精霊紋が、わずかに強く光った。


まるで、その言葉に反応するように。


「精霊魔術ってのは、“借りる”魔術じゃない」


「“一緒に立つ”魔術だ」


「……一緒に」


「そう」


ミランダは、立ち上がる。


「だから今日は、これをやる」


ミランダは、訓練場の中央に歩み出て、ナナを手招きした。


「精霊を、選びな」


その言葉に、ナナの喉が鳴った。


「……選ぶ、って」


「今、ここでだ」


精霊の気配が、一斉にざわめく。


火の温度。

水の冷たさ。

木の穏やかさ。

光の柔らかさ。

闇の静けさ。

雷の鋭さ。


全部が、ナナに語りかけてくる。


(……選ぶなんて)


(できるの?)


「安心しな」


ミランダは、腕を組む。


「捨てろとは言わない」


「ただ、“最初の一体”を決めろ」


「精霊契約はな、積み重ねだ」


「最初の一歩を、曖昧に踏み出すと、あとで全部崩れる」


ナナは、目を閉じた。


胸の奥で、ざわついていた不安が、少しずつ形を持ち始める。


(……私)


(精霊に守られてきた)


(でも……)


(私、精霊を守ろうとしたこと、あった?)


その瞬間。


ひとつの気配が、静かに前へ出てきた。


派手ではない。

強くもない。


けれど――


温かい。


それは、光の精霊だった。


眩しさではなく、包むような光。


(……あなた)


ナナは、ゆっくりと目を開ける。


「……この子」


声が、震えなかった。


「光の精霊と、契約します」


ミランダの口元が、わずかに緩む。


「いい目だ」


「じゃあ、やりな」


ナナは、胸元に手を当てる。


「……来て」


言葉は短い。


だが、精霊は迷わなかった。


光が、ナナの胸元に溶け込む。


精霊紋が、一瞬、強く輝き――

新しい紋様が、ひとつ、はっきりと刻まれた。


「……!」


ナナは、息を詰める。


だが、苦しくない。


むしろ、今までよりも――軽い。


「……静か」


「当たり前だ」


ミランダは頷く。


「やっと、一本の軸が立った」


「他の精霊は、これからだ」


「順番にな」


ナナは、胸元の紋章を見つめた。


ひとつだけ、はっきりと刻まれた精霊紋。


(……選んだ)


(選ばれた、じゃない)


初めて、そう思えた。


「……ありがとうございます」


ナナが頭を下げる。


ミランダは、ふん、と鼻を鳴らした。


「礼はいらん」


「その代わり――」


鋭い視線。


「覚悟を持て」


「精霊魔術師ってのはな」


「優しいだけじゃ、務まらない」


「守る覚悟と、背負う覚悟」


「どっちも必要だ」


ナナは、強く頷いた。


「……はい!」


ミランダは、その返事を聞いて、満足そうに背を向ける。


「よし。今日はここまでだ」


「明日からは、地獄だよ」


そう言って、肩越しに一言。


「ババアをこき使うんじゃないよ、全く」


その背中を見送りながら、ナナは胸元の温かさを感じていた。


精霊は、まだそこにいる。


でも――

今は、振り回されていない。


初めて、精霊と並んで立っている。


そんな感覚が、確かにあった。


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