57話 いつも通りの朝
朝の空気は、ひんやりとしていた。
窓を開けると、
アルトレス領の澄んだ風が部屋に流れ込んでくる。
遠く、港の方角から聞こえる人の声。
それらは、昨日までと何一つ変わらない。
「……」
リオルはベッドの上で、ほんの少しだけ考え込んでから、
ゆっくりと体を起こした。
体は、思ったより軽い。
筋肉痛はあるが、不快な重さではない。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせるように、心の中でそう呟いた。
着替えを終えて廊下に出ると、
すでにヴォルクルが待っていた。
「おはよう」
「……おはよう、ヴォルクル」
「体調は?」
「……うん。だいじょうぶ」
短いやり取り。
いつも通りの会話。
けれど――
リオルは、はっきりと気づいていた。
(……近い)
ヴォルクルが、いつもより一歩、距離を詰めて歩いている。
守る、というより。
逃がさない――そんな位置取り。
気になって見上げると、
ヴォルクルは、すっと視線を逸らした。
「……なんでもねえ」
それ以上は、何も言わない。
⸻
訓練場には、すでにエリオラがいた。
腕を組み、壁にもたれかかるように立つ姿は、
昨日と変わらないはずなのに――
「遅い」
「……すみません」
「いい。今日は準備運動からだ」
淡々とした声。
だが、リオルを見る一瞬の視線だけが、違っていた。
(……?)
測るような。
確かめるような。
言葉にはできないが、
“見られている”という感覚だけが残る。
少し離れた場所には、ミノンの姿もあった。
「おはようございます、リオル様」
「……おはよう、ミノン」
挨拶は、いつも通り。
けれどミノンもまた、
どこか落ち着かない様子で、
時折、周囲を気にするように視線を動かしていた。
⸻
準備運動が始まる。
呼吸。
姿勢。
重心。
昨日と、まったく同じ内容。
体を動かすたび、
体の奥が静かに反応するのが分かる。
(……出てない)
魔力は、外に漏れていない。
ちゃんと、内側に収まっている。
そう確認できて、
胸の奥が少しだけ軽くなった。
「止めるな」
エリオラの声が飛ぶ。
「呼吸は一定。
考えるな、感じろ」
「……はい」
言われた通りに、息を整える。
不思議なことに、
昨日よりも、怖さは少なかった。
エリオラは腕を組んだまま、
その様子をじっと見ている。
(……制御できてる)
声には出さない。
だが、確かな評価がそこにあった。
訓練場の端で、ヴォルクルは一歩も動かない。
視線は、ずっとリオルに向けられている。
(……なにか、あったのかな)
聞きたい。
でも、聞けなかった。
⸻
訓練が終わり、軽く息を整える。
「今日は、ここまでだ」
エリオラが言う。
「午後は、座学」
「……はい」
リオルは頷いた。
何も起きなかった。
本当に、いつも通りの朝。
それなのに――
胸の奥に、
小さな違和感だけが残っていた。
誰かが、
自分の知らないところで、
何かを決めたような。
そんな感覚。
リオルは、それを振り払うように、
深く息を吸う。
(……今は、やるだけ)
そう思って、歩き出した。
まだ知らない“境界線”が、
すぐそこまで迫っているとも知らずに。




