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37話 眠る前の音



夜は、静かだった。


屋敷の灯りは落とされ、

回廊を渡る足音も、すでに遠くへ消えている。

窓の外では、風が木々を揺らす音だけが、低く続いていた。


リオルは、ベッドの上に腰掛けたまま、

膝の上で指を重ねている。


眠くないわけではない。

身体も、重くはなかった。


ただ――

横になる気になれなかった。


(……さっきの……)


港町からの帰り道。

靴底を撫でた、あの冷たい感覚。


水に触れたとき、

一瞬だけ、皮膚の内側まで染み込むような感触。


それが、

頭の奥で、ゆっくりと反芻されている。


「……気のせい……」


声に出してみる。

だが、その言葉は、どこか手応えがなかった。


扉の外で、衣擦れの音がする。


「……起きてるか」


ヴォルクルの声だった。


「……うん……」


答えると、

扉が音を立てずに開く。


夜用の簡素な服に着替えたヴォルクルは、

昼間よりも、わずかに気配が柔らいでいる。


「……まだ寝ないのか」


「……なんとなく……」


ヴォルクルは部屋の中を一度見渡し、

それから、ベッドのそばまで歩み寄った。


触れない距離。

だが、遠すぎない位置。


「……さっきのことか」


「……たぶん……」


短いやり取り。

それで、十分だった。


リオルは、視線を落とす。


「……あの……冷たいの……」

「足じゃなくて……」

「……中……だった気がする……」


胸のあたりを、そっと指で示す。


ヴォルクルの眉が、わずかに寄る。


「痛みは」


「……ない……」


「息は」


「……へいき……」


一つずつ、確かめる。


どれも、問題はない。

だからこそ、判断が難しい。


ヴォルクルは、少しだけ考えてから言った。


「……今は、どうだ」


リオルは、目を閉じる。


呼吸を、意識する。

胸の奥。

昼間から残っていた、あの感覚。


――すぅ。


それが、

ほんのわずかに下がる。


(……ヴォルクルが近いと……静か……)


理由は分からない。

だが、違いだけは、はっきりしていた。


「……今は……ない……」


そう答えると、

ヴォルクルは小さく息を吐いた。


「……なら、いい」


短い言葉。

そこには、過剰な緊張はなかった。


ヴォルクルは椅子を引き、腰を下ろす。


「……眠るまで、ここにいる」


「……いいの……?」


「……別に」


そっぽを向く。


分かりやすい照れ隠しに、

リオルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


ベッドに横になる。

毛布を胸まで引き上げると、

昼間より、少しだけ重く感じる。


目を閉じた、そのとき――


ちゃぷん。


耳の奥で、

小さな音がした。


水が、

どこかで揺れたような音。


(……え……?)


思わず、目を開ける。


部屋は、静まり返っている。

水音など、するはずがない。


「……ヴォルクル……?」


「どうした」


「……いま……音……」


ヴォルクルは、耳を澄ませる。


数秒。

沈黙。


「……何も聞こえねえ」


その言葉に、

胸の奥が、きゅっと縮む。


(……ぼく……だけ……?)


恐怖ではない。

だが、

自分だけが感じている、という事実が、

静かに重さを増していく。


ヴォルクルは、すぐに立ち上がり、

ベッドの横へ来た。


「……気にすんな」


低く、落ち着いた声。


「聞こえないなら、

 聞こえなかったってだけだ」


正論だった。

だが、その言い方は、どこか柔らかい。


「……お前が、変ってわけじゃねえ」


その一言で、

胸の奥が、少しだけ緩む。


「……うん……」


目を閉じる。


今度は、音はしなかった。


代わりに、

ひんやりとした感覚が、

胸の奥を、なぞる。


痛みはない。

苦しさもない。


ただ、

水の中に、そっと手を入れたときのような、

静かな感触。


それは、すぐに消えた。


(……だいじょうぶ……)


そう思えたのは、

ヴォルクルが、すぐそばにいるからだ。


呼吸が、ゆっくりと深くなる。

意識が、少しずつ遠のいていく。


椅子に座るヴォルクルは、

リオルの寝息を確かめてからも、

視線を外さなかった。


剣も、魔術も使えない夜。


それでも、

離れないという選択だけは、

はっきりしていた。


夜は、静かに更けていく。


水の気配を、

誰にも見せないまま。


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