38話 触れてはいけない段階
夜明け前の医療棟は、
一日の中で、いちばん静かな時間だった。
窓の外はまだ暗く、
廊下に灯された魔導灯の光が、床に細い線を落としている。
エド・イレイユスは、
机に向かったまま、しばらく動かなかった。
診療記録は閉じてある。
薬も、器具も、すべて整っている。
だが――
今日は、何も用意する気になれなかった。
(……近い)
理由はない。
確証も、理屈もない。
それでも、
そう思ってしまった。
医師としての判断ではない。
治癒魔術師としての分析でもない。
もっと原始的な感覚だった。
皮膚の裏側が、ざわつく。
空気が重いわけでも、冷たいわけでもない。
ただ――
触れてはいけない段階に入った。
その感覚だけが、はっきりしていた。
エドは立ち上がり、
医療棟の奥へと歩き出す。
足音は小さい。
だが、一歩一歩に、確かな重さがあった。
やがて、
リオルの部屋の前で足を止める。
扉の向こうから聞こえるのは、
穏やかな寝息。
乱れはない。
苦しそうでもない。
(……数値は、きっと何も示さない)
そう分かっているからこそ、
測る意味がなかった。
治癒魔術陣を展開すれば、
おそらく“何か”は分かる。
だがそれは、
分かってはいけない種類の理解だ。
一度触れれば、
流れは止まらない。
「……」
エドは、扉に手をかけなかった。
(……今は、待つしかない)
医師としては、
あまりにも無力な結論。
それでも、
これまでの経験が、それを否定しなかった。
エドは、静かに背を向ける。
廊下を戻る途中、
ふと、足を止めた。
一瞬――
胸の奥が、ひやりとする。
まるで、
遠くで水面が揺れたような感覚。
音はない。
光もない。
それでも、
**確かに「動いた」**と分かる。
「……」
エドは、目を閉じた。
これは、症状ではない。
発作でもない。
ましてや、病気ではない。
(……現象だ)
意図したものでも、制御されたものでもない。
ただ、
存在している力が、
次の段階へ進もうとしている。
エドは、ゆっくりと息を吐いた。
治せる。
だが、治してはいけない。
止められるかどうかではない。
止めていい段階ではない。
「……間に合えよ」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からなかった。
医療棟の外では、
朝の気配が、少しずつ近づいている。
何も起きていない。
今は、まだ。
だが、エドは確信していた。
次に“動く”とき、
それはもう――
感覚だけでは、済まない。




