32話 治せないという判断
医療棟は、朝から静かだった。
乾燥棚に並ぶ薬草の匂い。
床に刻まれた消毒用の魔術陣が、かすかに緑色の光を帯びている。
エド・イレイユスは、診療記録に目を落としていた。
体温。
脈拍。
血流。
魔力循環の基礎数値。
どれも、基準値から外れてはいない。
「……」
紙を机に置き、静かに息を吐く。
正常。
だが、それは――
測れている部分に限った話だ。
*
診察台に座るリオルは、相変わらず細い。
病的な痩せ方ではない。
栄養不足とも違う。
ただ、
体の内側にあるはずの力が、外へ回っていない。
「胸のあたりに、違和感はありますか」
「……熱い……ような……
でも……痛くは、ありません……」
エドは小さく頷いた。
痛みはない。
だが、感覚は確かに存在している。
彼は、そっと手を翳す。
空中に描かれる、淡い緑色の魔術陣。
治癒魔術。
本来なら――
魔力循環を調整し、体調を安定させることはできる。
滞留する魔力を抜き取ることも、不可能ではない。
だが。
(……触るな)
長年の経験が、そう告げた。
感じ取れる魔力は、異常だった。
量ではない。
質だ。
制御されないまま滞留した魔力が、
内圧となって、わずかずつ外へ漏れ出している。
しかも――
その底が、見えない。
抜き取っても終わらない。
循環を整えれば、出口を作ることになる。
――一気に、噴き出す。
「……今日は、ここまでにしましょう」
エドは、魔術陣を消した。
「……え……?」
「無理に調整する段階ではありません」
少し間を置き、続ける。
「異常はあります。
ですが、病気ではありません」
リオルは、困ったように目を伏せた。
「……よく……分からない……です……」
「分からなくていい」
エドは、淡々と答えた。
「今、それを理解する必要はありません」
*
診察を終え、リオルが部屋を出る。
エドは一人、椅子に腰を下ろした。
治療手段はある。
だが、使うべきではない。
外部からの干渉は、引き金になる。
抜き取ろうとしても、意味はない。
魔力は、底なしだ。
空いた分を埋めるように、さらに圧が高まる。
「……厄介ですね」
静かな独白。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
穏やかな朝だ。
だが――
内側では、確実に進んでいる。
エドは、結論を変えなかった。
――この子は、治す対象ではない。
――守り、待つべき存在だ。
彼は治癒魔術師だ。
だからこそ、
今は何もしないという判断を選んだ。
医療棟には、再び静けさが戻る。
まだ、何も起きていない。
だが――
内側では、確かに変化が続いていた。




