29話 報告
ウィステリア帝国中央魔術局の観測室は、
時間の感覚を失わせる場所だった。
外が昼であろうと夜であろうと、
天井に刻まれた魔術灯は一定の明度を保ち、
記録盤と魔術陣は、黙々と情報を吐き出し続けている。
「……」
若い分析官は、表示板の前で立ち尽くしていた。
数値は正常。
警告も出ていない。
分類上は、何ひとつ問題がない。
それでも、
彼の視線は一点に固定されていた。
環境魔力推移を示す線。
なだらかに上下するはずの曲線が、
ほんの一瞬だけ――引っかかったように歪んでいる。
「……気のせい、か」
呟きながら、過去の記録と重ねる。
似た事例を探す。
火災事故。
結界誤作動。
未登録魔術の暴発。
どれも、合致しない。
「……属性が、分からない?」
通常、どんなに微細な現象でも、
火・水・風・土のいずれかの傾向は残る。
だが、この歪みは――
どれにも寄らなかった。
分析官は喉を鳴らし、深く息を吸う。
(……局長に上げるほどじゃないかもしれない)
だが、無視するには、
胸の奥に残る違和感が強すぎた。
彼は記録をまとめ、観測室を後にした。
*
局長室の前で、分析官は一度立ち止まる。
ここに来るたび、
背筋が自然と伸びた。
中にいるのは、
ウィステリア帝国・中央魔術局局長。
そして――
無意識に、口を開く。
「……ラサド十四親王殿下」
間髪入れず、内側から声が返った。
「ここでは局長と呼べと言っているだろ」
淡々とした声。
叱責でも威圧でもない。
だが、
皇族であることを拒絶する冷たさがあった。
「……失礼しました、局長」
扉が開く。
室内は整理され、無駄がない。
机の上には書類の山。
その奥で、ラサドは眼鏡越しに文字を追っていた。
「要件は」
「南方で、少し気になる反応が出ました」
分析官は、簡潔に報告する。
「魔力量は基準以下。
発生時間も短く、警戒基準には達していません」
「結論は」
「異常とは断定できません」
ラサドは、それ以上追及しない。
「それで?」
「……環境魔力の揺らぎ方が、通常と少し違いました」
分析官は、言葉を選びながら続ける。
「魔術使用の記録と一致せず、
属性判定もできません」
「ふむ」
ラサドは、初めて報告書に目を通した。
南方。
短時間。
微弱。
「場所は」
「アルトレス方面です」
その名を聞いた瞬間、
分析官は、わずかな間を感じた。
だが、ラサドは表情を変えない。
「反帝国派の領か」
報告書を机に戻す。
「珍しくもないな」
「……ですが」
分析官は、思わず言葉を継いだ。
「環境が先に揺れるのは、
理論上……」
「理論上、起こり得ない?」
ラサドが言葉を引き取る。
分析官は、黙って頷いた。
ラサドは、静かにため息を吐く。
「だからこそだ」
「……?」
「数値が出ない以上、
それは“存在しない”のと同義だ」
理路整然とした声音。
「記録には残せ。
だが、追う必要はない」
「……承知しました」
分析官は、それ以上言えなかった。
理屈では、局長が正しい。
中央魔術局の基準では、完全に正しい。
一礼し、部屋を出る。
*
一人になった局長室で、
ラサドは書類を整理し直した。
南方。
環境魔力。
一瞬の歪み。
それらはすべて、
彼の中で「未満」に分類される。
「……ふーん」
小さく呟き、思考を切り替える。
この帝国で重要なのは、
管理できるかどうかだ。
測れないものは、
まだ“問題”ではない。
少なくとも――
今は。
報告書は、棚の奥に収められた。
まだ、
帝国は何も知らなくてよかった。




