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30話 平穏



アルトレス家の朝は、静かに始まった。


窓から差し込む光はやわらかく、

白いカーテンを透かして室内に落ちる。

遠くで鳥の声が重なり、屋敷は穏やかな気配に包まれていた。


「……」


リオルは、ゆっくりと目を覚ました。


眠れていないわけではない。

悪夢を見た記憶も、ない。


それでも――

胸の奥に、薄く残る熱があった。


(……また……)


痛みではない。

息苦しさでもない。


ただ、体の内側が、微かに落ち着かない。


布団の上で身を起こすと、

指先が、わずかに震えた。


深く息を吸い、吐く。

呼吸はすぐに整う。


だが、違和感だけが、残った。


*


「リオル、起きてるか」


扉の外から、低く落ち着いた声がした。


「……うん……入って……」


ヴォルクルが、静かに入ってくる。


燕尾服に身を包んだ狼獣人。

いつもと変わらない立ち姿。

だが、その視線は真っ先にリオルの顔色を捉えていた。


「顔、白いな」


「……そう……?」


自分では、よく分からない。


ベッドから立ち上がろうとして、

一瞬、足元が揺れた。


「おい」


ヴォルクルの手が伸び、

自然な動きで腕を支える。


「無理すんな。今日はゆっくりでいい」


触れられた瞬間、

胸の奥のざわつきが、すっと引いた。


(……落ち着く……)


理由は分からない。

ただ、ヴォルクルがそばにいると、

体が言うことを聞く。


「……ありがとう……」


「当たり前だ」


短く、即答だった。


*


朝食は、静かな食堂で取った。


消化の良い料理。

温かいスープ。

栄養を考え抜かれた献立。


――ミリアの指示によるものだ。


リオルは、ゆっくりと口に運ぶ。


味は分かる。

飲み込みも、問題ない。


けれど――


「……ちょっと、暑い……」


ぽつりと零す。


周囲の誰も、暑そうにはしていない。


ヴォルクルが無言で立ち上がり、

窓を少しだけ開けた。


外の空気が、流れ込む。


その瞬間、

胸の奥の熱が、和らいだ。


(……外……?)


理由は分からない。

考えようとしても、言葉にならなかった。


「……ごちそうさま……」


*


食後、リオルは回廊を歩いていた。


足取りはゆっくりだが、

朝よりは安定している。


自然と、視線が中庭へ向いた。


手入れの行き届いた石畳。

整えられた草木。

噴水の水音が、静かに響いている。


リオルは、足を止めた。


(……ここ……)


胸の奥の熱が、

この場所に来ると、さらに静かになる。


「中庭、好きなのか」


隣で、ヴォルクルが言う。


「……うん……落ち着く……」


それ以上は、言えなかった。


風が吹き、草木が揺れる。


リオルの白銀の髪が、ふわりと揺れ、

その奥に――

本人もまだ気づいていない赤い光が、かすかに混じる。


ヴォルクルは、それを見ていない。

ただ、無意識に一歩、距離を詰めた。


守るように。


中庭は、今日も穏やかだった。


何も起きない。

何も壊れない。


――それが、

いちばん危うい「平穏」だと、

まだ誰も知らなかった。


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