25話 測れないもの
医療棟の奥は、静かだった。
完全な無音ではない。
遠くで誰かが歩く気配。
壁の向こうから、屋敷の生活音が微かに滲んでくる。
それでも、この部屋だけは、
外界からわずかに切り離されているように感じられた。
エド・イレイユスは、
机の上に広げた記録用紙へ視線を落としていた。
そこに並ぶのは、数日前に行った魔力測定の結果。
リオル・アルトレスのものだ。
数値は、安定している。
突出はない。
急激な変動もない。
異常値も、記録上は存在しない。
魔力測定器が残したログは、
終始「問題なし」を示していた。
「……」
エドは、紙から目を離す。
部屋の空気が、わずかに重い。
湿度が高いわけではない。
温度も、記録と一致している。
それでも――
皮膚に触れる感覚が、数日前と違っていた。
「……一致しないな」
独り言のように呟く。
測定結果は、正しい。
使用している魔力測定器も、信頼できる。
帝国医師団にいた頃から、
何度も人命を預かってきた器具だ。
誤作動を起こすような代物ではない。
「……測れていない、のではない」
そう言ってから、エドは首を振った。
違う。
測定器は、
測るべきものを、正確に測っている。
問題は、そこではない。
「……測る前提が……違う」
魔力測定器は、
魔力を「個人の内側に存在するもの」として扱う。
量。
循環。
出力。
それらを測るための器具だ。
だが――
「……外に出ているなら?」
ふと、窓の外を見る。
中庭の石畳は乾いている。
だが、朝に拭いた手すりは、
昼になると、また冷たくなっていた。
記録には残らない程度の変化。
だが、体感としては、確かに存在する。
「……個人は正常。
……環境が、ずれている」
その事実は、
帝国式の魔力測定器では捉えられない。
測定対象が、
そもそも想定されていないのだから。
エドはペンを取り、
記録用紙の余白に短く書き足す。
――体感との乖離、継続。
数値ではない。
結論でもない。
ただの、覚え書き。
「……進行している」
その言葉は、
あえて紙には残さなかった。
今それを書けば、
証拠のない断定になる。
だが、医師としての直感は、
はっきりと告げている。
エドは椅子から立ち上がり、
部屋の奥の棚を開けた。
古い論文。
帝国式の測定理論。
改良案の走り書き。
どれも、「平均的な魔術師」を基準にしている。
「……足りないな」
必要なのは、
量を測る器具ではない。
「……“場”を測る器具だ」
個人ではなく、
空間に生じた歪みを捉えるもの。
エドの脳裏に、
一つの国名が浮かぶ。
――メルトガルト。
魔導工学と精密設計で知られる隣国。
理論よりも、構造を優先する技術者たち。
「……あそこなら」
机に戻り、
新しい紙を一枚取り出す。
ペン先を整え、
ゆっくりと文字を綴り始めた。
⸻
メルトガルト工房連合 技術主任殿
突然の書状、失礼する。
私は、アルトレス領専属医師
エド・イレイユス。
現在、従来型の魔力測定器では
捉えきれない現象に直面している。
魔力の「量」ではなく、
状態、分布、周囲環境への影響を
同時に観測できる
精密魔力測定器の製作は可能だろうか。
用途は医療および研究目的に限定する。
実戦利用は想定していない。
試作段階のものでも構わない。
返書にて、条件の相談を願いたい。
敬具
エド・イレイユス
⸻
書き終え、
エドは静かにペンを置いた。
返事が来るかは分からない。
費用も、時間もかかるだろう。
だが――
「……見ないふりは、できない」
魔力測定器を、覆い布で包む。
役に立たないわけではない。
ただ、
これから起きるものには、追いつけない。
扉の外で、足音が止まる。
ヴォルクルだ。
気配で分かる。
エドは扉に手をかける前、
もう一度だけ、机の上の記録へ目を落とした。
数値は、最後まで正常だった。
それが、
何よりも不安だった。
測れないものは、
存在しないのではない。
――測る側が、追いついていないだけだ。
エドは、静かに部屋を出た。




