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20話 最初の水



朝は、静かだった。


前日のざわめきが嘘のように、

アルトレス邸は落ち着いた気配を取り戻している。

回廊に射す光も、庭の色も、いつもと変わらない。


――少なくとも、外から見れば。


リオルは、寝台に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。


胸の奥にある温かさは、

昨夜よりも、さらに近い。

触れられないまま、距離だけが縮まっている。


(……だいじょうぶ……)


そう思おうとして、

思い切れなかった。


息を吸う。

吐く。


苦しくはない。

頭も、はっきりしている。


それでも、

身体のどこかが、自分のものではないような感覚が残っていた。


「……行ける……」


小さく呟き、床に足を下ろす。


立ち上がった瞬間、

一拍遅れて、感覚が追いつく。


倒れるほどではない。

眩暈でもない。


ただ、

自分の輪郭を思い出すまでに、少し時間がかかる。



朝食後、リオルは中庭へ向かった。


理由はない。

歩きたかっただけだ。


ヴォルクルは、少し後ろを歩いている。

言葉はない。

それでいい。


中庭は乾いていた。

夜のあいだ、雨は降っていない。

噴水も止まっている。


石畳に、朝の光が反射している。


その光が、

一瞬だけ、揺れた。


「……?」


足が止まる。


何かを見たわけではない。

ただ、

視界の端で、世界が瞬いた気がした。


振り返る。

何もない。


「……気の……せい……」


歩き出そうとした、そのとき。


胸の奥が、

きゅっと縮んだ。


次の瞬間。


石畳の隙間に、

小さな水滴が生まれていた。


落ちたわけでも、

滲み出たわけでもない。


――そこに、在る。


透明で、丸い。

朝の光を映し、静かに震えている。


「……え……?」


声が、遅れて出た。


水滴は落ちない。

広がらない。


ただ、

留まっている。


(……なに……?)


理解が追いつかない。


何もしていない。

何かをしようとした覚えもない。


それなのに、

そこに水がある。


胸の奥の温かさが、

わずかに脈を打つ。


それに応えるように、

水滴が、もう一つ、隣に生まれた。


息が止まる。


怖い、とは違う。

けれど、

どう見ればいいのか分からない。


足元に、三つ目の水が浮かぶ。


丸く、澄んでいる。

揺れているのに、崩れない。


ヴォルクルが、一歩前に出た。


「……動くな」


命令ではない。

状況を測る声だった。


リオルは、その場に留まる。


水滴は、

互いに触れ合い、

ゆっくりと一つにまとまり始める。


音はない。

跳ねもしない。


ただ、

集まっていく。


そのときだった。


水が揺れるのと同時に、

リオルの胸の奥が、すっと軽くなった。


熱が――

抜けていく。


燃えるようでも、痛むわけでもない。

長いあいだ、内側に溜め込まれていたものが、

出口を見つけたような感覚。


「……あ……」


思わず、声が漏れる。


怖さより先に、

戸惑いがあった。


それが何なのかは、分からない。

なぜ水なのかも、分からない。


けれど。


胸の内側と、

目の前のそれが、

つながっている。


(……出てる……)


(……中から……)


言葉にはならない。

理屈もない。


ただ、

身体が先に理解してしまう。


――これは、

自分の魔術によるものだと。


その自覚が生まれた瞬間、

遅れて、別の感覚がやってきた。


どう扱えばいいのか、分からない。

どうすればいいのかも、分からない。


呼吸が、わずかに乱れる。


それに合わせて、

水の表面が、静かに波打った。


息を止めると、水も止まる。

吐くと、また揺れる。


つながっている。


その理解が、

さらに混乱を呼ぶ。


「……違う……」


否定の言葉が、無意識に漏れた。


拒むように意識を向けた瞬間、

水の塊が、わずかに大きくなる。


「……待て」


ヴォルクルの声が、低く響く。


「……見るだけでいい」


助けに行けない。

だが、

目を離さない。


それが、今できる唯一の行動だった。


水は、

拳ほどの大きさになり、

石畳の上で形を保つ。


空気が、ひやりと冷える。


世界の音が、遠のく。



医療棟で、エドは顔を上げた。


理由は分からない。

だが、

来たと分かる。


「……中庭だ」


白衣を翻し、歩き出す。


同時に、ミリアも足を止めた。

胸を撫でる、冷たい感覚。


ゼクロアもまた、書類から視線を上げる。


誰かが知らせたわけではない。

それでも、

全員が同じ場所を目指していた。



中庭。


水は、

両手で抱えられるほどの大きさになっていた。


零れない。

落ちない。


まるで、

見えない器に収まっているようだ。


リオルは、動けずにいた。


(……止めたい……)


そう思った瞬間、

水が、わずかに歪む。


止めようとするほど、

反応が返ってくる。


エドが駆け込んでくる。


一目で状況を把握し、短く言う。


「……触るな」

「……刺激になる」


ミリアとゼクロアも到着する。


誰も、すぐには動かない。

動くべきではないと、分かっている。


「……リオル」


ミリアの声は、柔らかい。


「……大丈夫……見えているわ」


何が、とは言わない。


リオルの視界は、

水越しに世界を見ているようだった。


音が、遠い。


初めて、

はっきりとした恐怖が湧いた。


その瞬間。


水が、

一気に膨らんだ。


破裂ではない。

飛散でもない。


ただ、

拡がった。


ヴォルクルが反射的に踏み出す。


水は、

彼の足元で、ぴたりと止まった。


侵さない。

拒まない。


――選んでいる。


エドが、息を呑む。


「……純粋すぎる……」


水は、

ゆっくりと縮み始める。


呼吸に合わせて。

心拍に合わせて。


そして。


何事もなかったかのように、

石畳から、消えた。


水跡は残らない。

濡れた感触もない。


ただ、

冷えた空気だけが残った。


リオルの膝が、崩れる。


ヴォルクルが、即座に支える。


「……大丈夫だ」


短い言葉。

揺るがない。


「……ごめ……なさ……」


理由はない。

それでも、言葉が零れた。


エドが、静かに言う。


「……最初の反応です」


誰も、否定しない。

誰も、説明しない。


それが、

始まってしまったという事実だけが、

中庭に残っていた。


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