20話 最初の水
朝は、静かだった。
前日のざわめきが嘘のように、
アルトレス邸は落ち着いた気配を取り戻している。
回廊に射す光も、庭の色も、いつもと変わらない。
――少なくとも、外から見れば。
リオルは、寝台に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
胸の奥にある温かさは、
昨夜よりも、さらに近い。
触れられないまま、距離だけが縮まっている。
(……だいじょうぶ……)
そう思おうとして、
思い切れなかった。
息を吸う。
吐く。
苦しくはない。
頭も、はっきりしている。
それでも、
身体のどこかが、自分のものではないような感覚が残っていた。
「……行ける……」
小さく呟き、床に足を下ろす。
立ち上がった瞬間、
一拍遅れて、感覚が追いつく。
倒れるほどではない。
眩暈でもない。
ただ、
自分の輪郭を思い出すまでに、少し時間がかかる。
*
朝食後、リオルは中庭へ向かった。
理由はない。
歩きたかっただけだ。
ヴォルクルは、少し後ろを歩いている。
言葉はない。
それでいい。
中庭は乾いていた。
夜のあいだ、雨は降っていない。
噴水も止まっている。
石畳に、朝の光が反射している。
その光が、
一瞬だけ、揺れた。
「……?」
足が止まる。
何かを見たわけではない。
ただ、
視界の端で、世界が瞬いた気がした。
振り返る。
何もない。
「……気の……せい……」
歩き出そうとした、そのとき。
胸の奥が、
きゅっと縮んだ。
次の瞬間。
石畳の隙間に、
小さな水滴が生まれていた。
落ちたわけでも、
滲み出たわけでもない。
――そこに、在る。
透明で、丸い。
朝の光を映し、静かに震えている。
「……え……?」
声が、遅れて出た。
水滴は落ちない。
広がらない。
ただ、
留まっている。
(……なに……?)
理解が追いつかない。
何もしていない。
何かをしようとした覚えもない。
それなのに、
そこに水がある。
胸の奥の温かさが、
わずかに脈を打つ。
それに応えるように、
水滴が、もう一つ、隣に生まれた。
息が止まる。
怖い、とは違う。
けれど、
どう見ればいいのか分からない。
足元に、三つ目の水が浮かぶ。
丸く、澄んでいる。
揺れているのに、崩れない。
ヴォルクルが、一歩前に出た。
「……動くな」
命令ではない。
状況を測る声だった。
リオルは、その場に留まる。
水滴は、
互いに触れ合い、
ゆっくりと一つにまとまり始める。
音はない。
跳ねもしない。
ただ、
集まっていく。
そのときだった。
水が揺れるのと同時に、
リオルの胸の奥が、すっと軽くなった。
熱が――
抜けていく。
燃えるようでも、痛むわけでもない。
長いあいだ、内側に溜め込まれていたものが、
出口を見つけたような感覚。
「……あ……」
思わず、声が漏れる。
怖さより先に、
戸惑いがあった。
それが何なのかは、分からない。
なぜ水なのかも、分からない。
けれど。
胸の内側と、
目の前のそれが、
つながっている。
(……出てる……)
(……中から……)
言葉にはならない。
理屈もない。
ただ、
身体が先に理解してしまう。
――これは、
自分の魔術によるものだと。
その自覚が生まれた瞬間、
遅れて、別の感覚がやってきた。
どう扱えばいいのか、分からない。
どうすればいいのかも、分からない。
呼吸が、わずかに乱れる。
それに合わせて、
水の表面が、静かに波打った。
息を止めると、水も止まる。
吐くと、また揺れる。
つながっている。
その理解が、
さらに混乱を呼ぶ。
「……違う……」
否定の言葉が、無意識に漏れた。
拒むように意識を向けた瞬間、
水の塊が、わずかに大きくなる。
「……待て」
ヴォルクルの声が、低く響く。
「……見るだけでいい」
助けに行けない。
だが、
目を離さない。
それが、今できる唯一の行動だった。
水は、
拳ほどの大きさになり、
石畳の上で形を保つ。
空気が、ひやりと冷える。
世界の音が、遠のく。
*
医療棟で、エドは顔を上げた。
理由は分からない。
だが、
来たと分かる。
「……中庭だ」
白衣を翻し、歩き出す。
同時に、ミリアも足を止めた。
胸を撫でる、冷たい感覚。
ゼクロアもまた、書類から視線を上げる。
誰かが知らせたわけではない。
それでも、
全員が同じ場所を目指していた。
*
中庭。
水は、
両手で抱えられるほどの大きさになっていた。
零れない。
落ちない。
まるで、
見えない器に収まっているようだ。
リオルは、動けずにいた。
(……止めたい……)
そう思った瞬間、
水が、わずかに歪む。
止めようとするほど、
反応が返ってくる。
エドが駆け込んでくる。
一目で状況を把握し、短く言う。
「……触るな」
「……刺激になる」
ミリアとゼクロアも到着する。
誰も、すぐには動かない。
動くべきではないと、分かっている。
「……リオル」
ミリアの声は、柔らかい。
「……大丈夫……見えているわ」
何が、とは言わない。
リオルの視界は、
水越しに世界を見ているようだった。
音が、遠い。
初めて、
はっきりとした恐怖が湧いた。
その瞬間。
水が、
一気に膨らんだ。
破裂ではない。
飛散でもない。
ただ、
拡がった。
ヴォルクルが反射的に踏み出す。
水は、
彼の足元で、ぴたりと止まった。
侵さない。
拒まない。
――選んでいる。
エドが、息を呑む。
「……純粋すぎる……」
水は、
ゆっくりと縮み始める。
呼吸に合わせて。
心拍に合わせて。
そして。
何事もなかったかのように、
石畳から、消えた。
水跡は残らない。
濡れた感触もない。
ただ、
冷えた空気だけが残った。
リオルの膝が、崩れる。
ヴォルクルが、即座に支える。
「……大丈夫だ」
短い言葉。
揺るがない。
「……ごめ……なさ……」
理由はない。
それでも、言葉が零れた。
エドが、静かに言う。
「……最初の反応です」
誰も、否定しない。
誰も、説明しない。
それが、
始まってしまったという事実だけが、
中庭に残っていた。




