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19話 保てないもの



朝、屋敷の中はいつもより早く動き出していた。


特別な予定があるわけではない。

誰かが命じたわけでもない。


ただ――

落ち着かなかった。


回廊を歩く足音が揃わない。

扉の開閉が、わずかに多い。

窓を開けては閉める者が、やけに目につく。


空気は澄んでいる。

匂いも、温度も、いつも通りだ。


それなのに、

胸の奥に残るざわめきだけが、消えない。


*


厨房では、マリが鍋の前に立っていた。


火加減は完璧だ。

香りも、色も、問題ない。


それでも。


「……今日は……」


言葉にしかけて、飲み込む。


火のそばに立っていると、

胸の内側が、静かに落ち着かなくなる。


怖いわけではない。

熱いわけでもない。


ただ、

長く向き合っていられない。


「……少し、下がりますね」


誰に言うでもなくそう呟き、

マリは一歩、距離を取った。


火は、何も変わらない。

それでも、

自分のほうが先に耐えられなくなっている。


*


医療棟。


エド・イレイユスは、薬棚の前に立っていた。


瓶を一つ、手に取る。

戻す。


それだけの動作なのに、

指先に、微細な違和感が走る。


棚は安定している。

瓶も揺れていない。


それでも――

合っていない。


「……誤差、ではないな」


独り言のように呟き、

窓の外へ視線を移す。


中庭を歩くリオルの姿が見えた。


穏やかな足取り。

変わらない表情。


異変は、どこにもない。


それでも。


「……保っている、のではない」


静かに、そう言う。


「……保たされている」


何が、とは言わない。

言う必要がなかった。


この状態が、

いつまで続くか分からないことだけは、

はっきりしていた。


*


回廊で、リオルは本を抱えたまま立ち止まっていた。


読むつもりで持ってきた。

けれど、文字は視界を流れるだけで、

意味として残らない。


胸の奥が、温かい。


昨日より、

少しだけ近い。


触れられない。

だが、確かにそこにある。


(……へん……)


そう思いながらも、

不安はない。


苦しくも、怖くもない。


ただ、

内側と外側が、わずかに噛み合っていない。


「……リオル様」


声をかけられ、顔を上げる。


リチャードだった。


「お顔色が……」


「……だいじょうぶ、です……」


答えると、

リチャードは一瞬、言葉を探すように視線を伏せた。


「……承知いたしました」


深く一礼し、

それ以上踏み込まない。


離れもしない。

近づきもしない。


留まる。


それが最も自然だと、

無意識に判断している動きだった。


*


中庭。


ヴォルクルは、

リオルの少し斜め後ろを歩いていた。


だが今日は、

その位置を保つこと自体が、

わずかに難しい。


近づけば、

周囲の空気がざわつく。


離れれば、

重さが増す。


ヴォルクルは、呼吸を整える。


乱れてはいない。

問題もない。


それでも、

本能だけが告げていた。


――このままでは、足りない。


守る、ではない。

制御する、でもない。


ただ、

一人にしてはいけない。


その確信だけが、

はっきりと胸に残っていた。


*


夕方。


屋敷の一角で、

小さな異変が起きた。


魔術灯が、

一瞬だけ明滅した。


すぐに戻る。

故障でもない。


「……今の、見た?」


「気のせいだろ」


誰も問題にはしない。


だが、

同じ灯りの前に、

長く留まる者はいなかった。


理由は、誰にも分からない。


ただ、

そこに居続けることができなかった。


*


夜。


リオルは、ベッドに腰掛けていた。


眠れないわけではない。

だが、横になる気にもなれない。


胸の奥が、

静かに、しかし確実に存在感を主張している。


熱ではない。

痛みでもない。


「……なに……?」


小さく零しても、

答えは返らない。


扉の外で、足音が止まる。


ノックはない。

ただ、そこにいる。


ヴォルクルだと、分かった。


それだけで、

胸の内のざわめきが、

わずかに落ち着く。


リオルは、何も言わなかった。

言葉にするには、

まだ早いと感じていた。


この夜は、

何事もなく終わる。


けれど。


屋敷の中で、

人も、物も、空間も、

ぎりぎりのところで均衡を保っている。


それを崩す引き金が、

まだ、形を持っていないだけで。


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