18話 距離の話
午後の回廊は、陽の入り方がやわらかかった。
窓から差し込む光が床に落ち、
白い石を淡く照らしている。
リオルは、ヴォルクルと並んで歩いていた。
特別な用事はない。
ただ、屋敷の中を一巡しているだけだ。
「……今日は、暖かいですね……」
ぽつりと零した声に、
前方で作業をしていた侍女のカナリアが、はっと顔を上げた。
「……あ、はい……」
返事をしながら、
カナリアは無意識に一歩、近づいてくる。
距離が近い。
だが、本人は気づいていない。
「……すみません……」
リオルが身を引こうとすると、
カナリアは慌てて首を振った。
「い、いえ……」
「……あの……」
言葉を探すように視線を彷徨わせ、
小さく笑う。
「……なんだか、ここ……」
「落ち着く、というか……」
自分でも不思議そうな声音だった。
理由は分からない。
説明もできない。
ただ、
そばにいると呼吸が深くなる。
それだけだった。
近くにいたリニカも、
気づけば二人の会話に加わっている。
「……あ、本当だ」
「なんか、音が少ない感じがする」
「……音……?」
リオルは首を傾げる。
「……静か、ですよね……」
そう言った瞬間、
三人の間に、妙な沈黙が落ちる。
確かに静かだ。
だが、それは不自然な静けさではない。
むしろ――
守られているような静けさ。
ヴォルクルだけが、
一歩後ろでその光景を見ていた。
距離を詰めすぎる二人。
悪意はない。
危険もない。
それでも。
「……そろそろ、行こう」
ヴォルクルが声をかけると、
カナリアとリニカは、名残惜しそうに一歩下がった。
離れることに、
わずかな抵抗を感じている自分に、
二人とも気づいていた。
*
同じ頃、別の回廊では、
人間の使用人たちが集まっていた。
話題は他愛もない。
夕食の準備、備品の在庫、明日の予定。
その中で、一人が小さく息を吐く。
「……この辺、空気が重くない?」
「え?」
問い返され、
その使用人は首を傾げた。
「……重いってほどじゃないんだけど……」
「……長くいると、ちょっと疲れる感じがして……」
「気圧じゃない?」
「さあ……」
誰も本気にはしない。
理由を深掘りするほどの違和感ではない。
だが、
話しているうちに、
一人、また一人と、その場を離れていく。
用事を思い出したから。
休憩に行くから。
理由はどれも自然だ。
残った者が、ぽつりと呟く。
「……最近さ……」
「……あの子の近く、長居できなくない?」
名前は出ない。
出さなくても、分かる。
「……分からなくは、ない……」
「嫌いとかじゃないんだけどな」
「そう……合わない、っていうか……」
それ以上は、誰も言わなかった。
理由を言葉にした瞬間、
自分たちが“何かを拒んでいる”ことが、
はっきりしてしまうから。
だから、曖昧なまま終わる。
そして、
自然と距離を取る。
それが、
一番楽な選択だった。
*
夕刻、庭に近い回廊。
ヴォルクルは、柱にもたれて立っていた。
少し離れた場所で、
リオルが本を抱えて歩いている。
近づく者。
離れる者。
その両方を、
ヴォルクルは静かに見ていた。
自分は、どちらでもない。
そばにいて、
特別に落ち着くわけでもない。
息苦しくなることもない。
ただ、
離れるという選択肢が浮かばない。
それだけだった。
無意識に、距離を測る。
近すぎない。
遠すぎない。
今の位置が、
一番危険が少ない。
理由は説明できない。
だが、
近づきすぎる者も、
離れていく者も、
どちらも“極端”だと感じていた。
「……リオル」
名前を呼ぶと、
リオルは少し驚いた顔で振り返る。
「……はい……?」
「……いや」
それ以上は言わない。
確かめる必要はない。
確認する意味もない。
ヴォルクルは、
ただ、その場に立ち続ける。
世界が選び始めても、
自分だけは選ばない。
選ばず、
残る。
それが、
今の自分の役目だと、
本能が告げていた。
遠くで、鐘が鳴る。
一日の終わりを告げる音。
何も起きていない。
何も壊れていない。
それでも。
人と空間が、
少しずつ、耐えきれなくなり始めている。
その中心にいる少年だけが、
まだ、それを知らなかった。




