100話 夜の距離
軍魔術部隊宿舎の夜は、静かだった。
灯りは落とされ、廊下を照らす魔力灯だけが淡く揺れている。
規則正しい生活音も消え、聞こえるのは遠くの風の音だけだ。
――そのはずだった。
「よっ」
当たり前のように扉が開き、
当たり前のようにカイルが入ってくる。
ノックはない。
「……入る前に、一言くらい」
リオルが言いかけたところで、
カイルはもう部屋の奥まで進み、勢いよくベッドに倒れ込んだ。
「つかれたー」
「……勝手に」
文句を言いながらも、リオルは立ち上がらない。
慣れてしまったのだ。
「今日も地獄だったな」
カイルは天井を見つめたまま言う。
「走って、魔力流して、また走って……
あの人、人の心とかないのか?」
「……あると思うよ」
リオルは苦笑して、ベッドの端に腰を下ろした。
すると。
「ん」
短い声と同時に、
カイルがころりと転がり、リオルの膝に頭を乗せてきた。
「……」
一瞬、言葉を失うリオル。
「なに」
カイルは目を閉じたまま言う。
「今日はこれくらいいいだろ」
抗議する間もなく、
白虎の耳がわずかに揺れ、しっぽがゆっくりと床を叩き始める。
――ぱた、ぱた。
無意識だ。
リオルは、しばらくその様子を見つめてから、
そっと手を伸ばした。
指先で、カイルの髪を撫でる。
撫で方は、訓練でも魔術でもない。
ただ、落ち着かせるような、やさしい動き。
「……」
カイルのしっぽが、ぶんっと大きく揺れた。
「……喜びすぎ」
「うるせ」
そう言いながらも、
カイルはそのまま動かない。
しばらく、何も言わずにその時間が流れる。
夜の静けさと、
呼吸の音だけが、部屋を満たしていた。
「……なあ」
カイルが、ぽつりと言う。
「ナナの話、聞いた?」
「うん」
リオルは、撫でる手を止めずに答える。
「なんか……
初代の魔術部隊総隊長に、直接教わってるらしい」
「ミランダ・コーチェラ、だっけ」
「そう」
カイルは、目を閉じたまま小さく笑った。
「すげーよな。
引退した伝説クラスだろ」
「……うん」
リオルは、少し考えてから続ける。
「でも、ナナ……
前より、落ち着いた気がする」
「分かる」
即答だった。
「前は、強いけど危なっかしかった」
「今は……
一緒に立ってる、って感じ」
その言葉に、
カイルのしっぽの動きが、少しだけゆっくりになる。
「……みんな、すごいな」
「うん」
「俺たちも、まだ途中だけどさ」
「……うん」
短い会話。
でも、不思議と足りていた。
「リオル」
「なに?」
「……ありがとな」
突然だった。
「今日も、こうしてくれて」
リオルは一瞬だけ手を止め、
それから、また同じように頭を撫でる。
「どういたしまして」
その声は、とても静かだった。
カイルのしっぽが、
もう一度、ぶんぶんと揺れる。
夜の宿舎。
何も起きない時間。
だが――
こういう時間が、確かに二人を前に進ませていた。
戦いでも、修行でもない。
ただ、
寄り添うだけの夜だった。




