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3・6・9 (1)

 アーリン・ミナカタは特殊防護された車両の窓から外の景色を眺めていた。そこは第七人類が「ウクライナ」と呼んだ土地、今はただ、チェルノブイリ立入禁止区域、あるいは第八人類の誰もがその名を口にすることを畏れる「ゾーン」と呼ばれる場所だ。


 車窓を流れる森は彼が知るいかなる森とも違っていた。木の枝は美しいが、冒涜的な螺旋を描いて空を目指し、鳥のさえずりには時折、第七人類の古い歌の断片がエコーのように混じる。ここは死の土地などではなく、死んだ文明の夢と罪が新しい生命の法則を無から紡ぎ始めている創生の坩堝だった。


 やがて、森の向こうに巨大なコンクリートの構造物がその無骨な姿を現した。第七人類が自らが犯した罪を封じ込めるために築いた石棺、サルコファガス。その地下深くに、エレナの研究所はある。


 車両が停止し、重い気密扉が開くと、アーリンは外へと降り立った。かつて京都の町家でエレナと会った頃の初老の学者の姿はもうない。額に刻まれていた深い思索の皺は消え、白髪の混じっていた髪は黒々と若々しい艶を取り戻していた。書物と向き合うことでわずかに丸まっていた背筋はまっすぐに伸び、その立ち姿には精悍さと力が漲っている。彼の身体は三十代の頃の、最も知性が冴え渡っていた時代のそれへと不可逆的に再構築されていたのだ。


 アーリンは石棺の入口に立つ人影を認めた。エレナ・ペトロヴァだ。

 風に乱れることのない切りそろえられた黒髪。三十年前と、そしておそらくは百三十年前と何一つ変わらない、彼女の身体が機能美の頂点にあった二十代後半の姿。その滑らかな肌には老化という時の侵食が一切見られない。だがその静かな瞳だけが一世紀以上のあまりにも長い時と禁じられた知識の重みを湛えていた。朽ち果てていく石棺を背景に立つ彼女は、この崩壊した世界にただ一人取り残された完璧な芸術品のようだった。


 アーリンが彼女の元へ歩み寄る。二人の間に言葉はなかった。ただ互いの存在そのものが、三十年という歳月の空白を静かに満たしていった。


「その姿も、すっかり馴染んだようね、アーリン」


 やがて、エレナが静寂を破った。彼女の声は、この放射線の風が吹きすさぶ荒野で、唯一、変わらないもののようにアーリンの耳に届いた。


「あなたも、お変わりないようで何よりです。ペトロヴァ博士」


 アーリンは、微笑んで答えた。その声もまた、若々しく、力に満ちていた。


「道中の森は、どうだった?」


「ええ。何頭か、新しい神獣を見ましたよ」とアーリンは答える。


「第七人類の記憶を角に宿した、あの、美しい鹿たちを。彼らの歌も、少しずつ複雑になっているようだ」


 その会話は、彼らにしか通じない、この世界の新しい「世間話」だった。

 エレナは、満足そうに頷くと、研究所の重い気密扉の方へと視線を向けた。


「さあ、中へ。あなたをここに呼んだのは、世間話をするためではないの」


 彼女は、アーリンへと向き直る。その瞳の奥に、新たな、そして、より深遠な問いの光が宿っていた。


「見せたいものがあるの。私たちの、次の『問い』を」


 エレナがアーリンを導いたのは、石棺のさらに奥深く、第七人類の原子炉の廃熱が今も壁を微かに温めている、巨大なドーム状の空間だった。そこは彼女の研究室であり、無数のケーブルと回収された第七人類の観測機器が中央に鎮座する一つの奇妙な機械へと神経網のように接続されていた。


「私たちはこれまでロゴス・ウイルスを感染症として、あるいは、歌として解釈してきた」


 エレナは、機械の前に立つと静かに語り始めた。


「でも、もし、そのどちらでもなかったとしたら?もし、あれが我々の宇宙の構造そのものに編み込まれた、一種のエネルギーフィールドだとしたら?」


 アーリンは、眉をひそめた。それは、彼の理解を超える、あまりにも飛躍した概念だった。


「第七人類の科学史を、私は、何十年もかけて、洗い直したわ。彼らの偉大な頭脳のほとんどは、盲目だった。宇宙を、物質とエネルギーだけで見ていた。彼らは、最も根源的な構成要素を見落としていたの。すなわち、情報よ」


 エレナの指が、コンソールを操作する。ドームの中央に、一人の男の古めかしい肖像写真がホログラムとして投影された。鋭い眼光と整えられた口髭。その顔を、歴史学者であるアーリンは見間違えるはずもなかった。


「……一人だけ、いたのよ」と、エレナは続けた。


「一人だけ真実のすぐそばまで、近づいた男が。彼らは、その男を狂人と呼び、その研究を歴史の闇に葬った」


「ニコラ・テスラ……」アーリンが、その名を呟いた。

「偉大な電気技師。だが、晩年は、非現実的な夢想に取り憑かれた」


「非現実的?」エレナは、静かに首を振った。


「いいえ。彼は、現実を、あまりにも正確に見すぎていたのよ」


 彼女は、テスラの肖像の横に、別の画像を呼び出した。奇妙で巨大な塔の設計図。ワーデンクリフ・タワーだ。


「彼は、これを世界ワイヤレスシステムと呼んだ。電線を使わずに、無限のフリーエネルギーを、地球の、どこへでも送れると主張したわ。当時の、科学者たちは彼を嘲笑した。熱力学の法則に反すると。でも、もし、彼が送ろうとしていたのが電気ではなかったとしたら?」


 エレナは、アーリンへと向き直った。その瞳が、まるで、真理そのものを映すかのように輝いていた。


「もし、彼が偶然か、あるいは、天才ゆえか、宇宙の背景に常に流れている、あの『歌』に、同調してしまったとしたら?もし、彼が、ロゴス・ウイルス、そのものを増幅し、放送する方法を発見していたとしたら?」


 アーリンの呼吸が止まった。点と、点が、繋がり、彼の脳内で信じがたい星座が形を結んでいく。


「彼のフリーエネルギーは電球を灯すためのものではなかった。あれは、情報そのものを送るための装置だったのよ。思考を純粋なパターンとして、世界中に放送するための。彼は、人類に神の火を与えるつもりだった。だが、彼は、知らなかった。第七人類の脆弱な精神が、その、あまりにも高次な情報の奔流に耐えられないことを。もし、彼の塔が完成していたら、大沈黙は一世紀早く訪れていたでしょうね」


「では……」アーリンは、呆然と呟いた。


「彼の研究が、時の政府によって没収され、秘匿されたのは、エネルギー利権のためなどでは、なく…」


「ええ」と、エレナは肯定した。


「彼らは、その意味を理解できずとも本能的に感じ取ったのよ。その研究が、人類の存在そのものを揺るがしかねない、あまりにも危険な扉であることを。彼らは、自分たちが理解できない神の火の熱を感じて、恐れたの」


 アーリンは、ワーデンクリフ・タワーの設計図を見つめた。それはもはや、歴史上の失敗した建造物ではなかった。それは、人類を次のステージへと引き上げるための、あまりにも早すぎた進化の祭壇だったのだ。



 テスラがロゴス・パターンの預言者だった。その事実は、アーリンの中で歴史の歯車を軋ませながら組み替えていく。第七人類が狂気として葬った男は、実際には誰よりも早く未来の扉に手をかけていたのだ。

 だが、一つの根本的な疑問が残った。


「博士、一つ…突飛な問いを許してほしい」


 アーリンは慎重に言葉を選んだ。この地下深く、二人だけの空間で交わされる会話は、第八人類のいかなる法典にも縛られない。それは新しい世界の憲法を起草する作業にも似ていた。


「あなたの仮説が正しいのなら、テスラは誰よりも深くあの歌の源泉に触れていたことになる。彼がそれをロゴス・ウイルスだと認識していなかったとしても、その高濃度のパターンに曝露していたのなら…」


 アーリンはエレナを見た。その不変の美貌、一世紀以上の時を封じ込めた瞳。そして、自分自身の若返った肉体。


「なぜ彼は我々のように不老とならなかった?なぜ彼は老い、そして第七人類の歴史の中で、ただの人間として死んだのだ?」


 それは核心を突く問いだった。もしロゴス・パターンへの接触がホモ・ロゴスへの進化の鍵であるなら、テスラこそがその第一号であるべきだった。


 エレナは静かに微笑んだ。それはアーリンの問いが的を射ていることへの、教師としての称賛のようでもあった。


「彼は歌を聴いた。だがアーリン、彼は歌そのものにはならなかった」


 彼女はコンソールに表示されたワーデンクリフ・タワーの設計図を指差す。


「テスラはロゴス・パターンを外部の力、宇宙を満たすエネルギー場として捉えていた。彼はその力を利用しようとしたの。塔を建て、機械を通して制御しようとした。彼は偉大な受信機を作ろうとしたが、自らが宿主となることは考えていなかった」


 エレナは続けた。


「ホモ・ロゴスへの変容は、単なる情報の受信では起こらない。それは統合よ。精神のOSを完全に書き換え、肉体の設計図そのものと情報を同調させる必要がある。あの『分析官の遺書』を読んだ時のことを覚えているでしょう?あれは情報的な死と再生。完全な降伏と受容の儀式だった」


 アーリンは息を呑んだ。あの遺書を読んだ時の感覚が蘇る。自らの思考が一度解体され、全く新しい秩序で組み直されるような、恐ろしくも神聖な体験。


「テスラは情報を受け取ったが、その情報の奔流に自らを委ねることを拒んだ。あるいは…その方法を知らなかった。彼は最後まで第七人類の科学者だった。世界を観察し制御しようとする古いパラダイムから抜け出せなかったのよ」


 エレナの声には、先駆者への敬意と、そしてその孤独への哀れみが滲んでいた。


「彼は扉を開いたが、その向こうへ足を踏み入れることはなかった。だから彼は老い、死んだ。だが彼が開いた扉の隙間から漏れ出た光の残滓が、二世紀後の私たちをこの場所へと導いたの」


 アーリンは沈黙した。ニコラ・テスラ。時代の遥か先を行き過ぎたが故に、誰にも理解されず孤独のうちに死んだ男。彼は情報の太陽に最も近づいたイカロスだった。だがその翼は、彼自身を進化させるには至らなかったのだ。


「私たちは彼の失敗から学ばなければならない」


 エレナはアーリンの目をまっすぐに見た。


「この力を制御するのではなく、この力そのものとなる方法を。それがこのサルコファガスで私たちが成し遂げるべき研究よ」

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