第3話「棺桶急行、乗客募集中」②
軍病院の片隅、非公式の礼拝所。
神父イヴァンは、負傷した兵士の手を握っていた。彼の軍服には「衛生兵」の腕章がついている。しかし彼の左手には、隠しきれない十字架が握られていた。
「主よ、この者の痛みを和らげ給え」
彼の祈りは小声だったが、不思議とよく通った。そして彼は祈りながらも、もう片方の手で包帯を巻いていた。祈りと医療行為が、彼の中で矛盾なく共存していた。
「おい、そこの衛生兵」
廊下から声がした。振り返ると、そこには中年の男。政治将校のイーゴリ・コミッサロフが立っていた。神経質そうに眼鏡を直しながら、彼はイヴァンに人差し指を突きつける。
「宗教活動は——」
「彼は、祈っているだけです」
別の声がコミッサロフの言葉を遮った。ジューコフだった。
「……同志元帥」
コミッサロフは慌てて敬礼した。ジューコフはそれに軽く手を挙げて応え、病床の兵士たちを見渡した。皆、疲れ切り、傷つき、しかしそれでも生きている。
「衛生兵か」
イヴァンはうなずいた。
「はい。そして……神父でもあります」
コミッサロフがぎょっとした顔でジューコフを見た。しかしジューコフは、予想外に穏やかな表情でイヴァンを見返した。
「祈りながらでもいい。手を動かせ」
「……元帥。私は、あなたに一度だけお聞きしたいことがあります」
「言え」
「あなたは死者が蘇るこの状況を、どう思われますか」
ジューコフはしばらく沈黙した。病室に、負傷者の寝息だけが聞こえる。
「唯物論でも宗教でも説明できなくても、私は気にしない。ただ私は前に進む。祈りたい者は祈れ。祈らん者は戦え。列車の中では、それでいい」
イヴァンはしばらくジューコフの目を見つめていた。そして静かに十字架を胸の上で握り直した。
「……お供します」
コミッサロフは隣で「なんで私がこの列車に……」と小声で呟いていたが、それは別の話だ。
◇ ◇ ◇
司令部の一室。
「待ってください!まだプレゼンの続きが!」
アレクセイ・クラスノフ博士は、書類の束を抱えて廊下を走っていた。ボサボサの白髪、テープで補修した眼鏡、焦げた白衣。彼はジューコフが去ろうとするのを必死に追いかける。
「博士、プレゼンはもう十分です」
「十分? 十分ですって? これからが本題ですよ!ゾンビの神経伝達速度の測定結果、電波周波数の解析、それから——」
「博士」
ジューコフは立ち止まり、クラスノフに向き直った。
「お前の仮説は正しかった。それでもう十分だ」
「つまり? つまり私の研究が認められたということですか? ついに?」
「いいや。誰も認めてない。でもお前の仮説を信じて、ベルリンまで行く」
クラスノフは目を輝かせた。
「なんと! では私も——」
「お前はもう乗ってる。勝手に機材を持ち込むなと言ったはずだ」
「これは全部、必要なデータ収集機器です!」
「その中に『魂の残留エネルギー測定器』と書かれた木箱があったが」
「それも必要です!」
ジューコフはコズロフを見た。コズロフは肩をすくめて「言ったでしょう。予測不能な事態に強いタイプです」と言った。
「……わかった。ただし、機材は三分の一に減らせ」
「半分で!」
「四分の一」
「……三分の一で手を打ちませんか。これは科学研究の未来がかかっているのです!」
ジューコフは返事の代わりに、クラスノフの肩をぽんと叩いて歩き去った。
「あ、ちょっと! 返事を、三分の一なんて絶対無理ですからね! 聞いてますか、同志元帥!?」
彼の叫びは、司令部の廊下に虚しく響いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。モスクワ。軍事鉄道基地。
朝靄の中、鉄の巨体が横たわっていた。
全長百八十メートル。八両編成。側面には五十ミリの圧延鋼板、機関部は七十五ミリ。主砲は一五二ミリ榴弾砲。副砲として七十六ミリ野砲二門、各車両にDT機関銃がずらりと並んでいる。塗装は剥げ、あちこちに錆が浮いているが、それでもその威容は圧倒的だった。まるで眠っている鋼鉄の竜だ。
「……イワンだ」
オルロフ爺の声は震えていた。
彼はゆっくりと機関車に近づいた。ボイラーの前面に手を当て、まるで生き物の体温を確かめるように、そっと撫でる。
「この機関車はな、十年前に俺が設計チームにいたんだ。ソ連で一番速く、一番頑丈な装甲列車を作れって命令で——」
彼の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「イワン……生きてたのか」
ジューコフはオルロフの隣に立った。二人で機関車を見上げる。
「お前のイワンか」
「俺だけじゃない。設計チーム全員のイワンだ。だが、動かせるのは、たぶん、もう俺だけだ」
「動くか」
「当たり前だ。俺が整備すれば、どんな鉄クズだって走る。ましてやイワンならな」
オルロフは袖で目を拭い、機関車の運転席に飛び乗った。計器を一つずつ確認し、レバーを握り、ペダルを踏む。
「石炭は? 水は? 圧力メーターは——よし、悪くない。ちょっと手を入れれば——」
「二日でいけるか」
「一晩で十分だ」
オルロフの返事に、ジューコフはうなずいた。
◇ ◇ ◇
ジューコフはゆっくりと列車全体を歩いて回った。機関車から始まり、装甲客車、貨車、指揮車両まで。
彼はすべての車両に触れた。まるで新しい戦友の肩を叩くように、装甲板を拳で軽く叩きながら進んだ。
「一五二ミリ砲か。榴弾は何発ある」
「約百発です。補給は……現地調達ですね」とコズロフ。
「この車両は」
「炊事車両です。食堂も兼ねています」
「食堂……」ジューコフは微かに口元を緩めた。「ここでウォッカを回すのか」
「ええ。ただし、ドイツ兵には回しません」
「まだな」
二人は顔を見合わせて、声を出さずに笑った。
視察の最後、ジューコフは列車の先頭に立った。線路の先を見る。朝靄が晴れ始め、線路がまっすぐ西へ伸びているのが見えた。
「ベルリンまで何キロだ」
「約二千です」
「行けるな」
ジューコフの声には、迷いがなかった。
◇ ◇ ◇
三日後。軍事鉄道基地のプラットフォーム。
全員が揃った。
ジューコフが集めた「はみ出し者」たち。老機関士、狂人の狙撃手、隠れ神父、おまけでついてきた政治将校、ジョークが滑る歩兵指揮官、トンデモ学者、そして縁の下の副官。寄せ集めもいいところだ。
彼らは列車の前に整列し、ジューコフの言葉を待っていた。
ジューコフは指揮車両の前に立ち、全員を見渡した。伝声管を手に取る。その声は、全車両に響き渡るようになっていた。
「総員に告ぐ」
全員の背筋が伸びた。
「本列車はこれよりベルリンへ向かう。途中停車は補給のためだけ。後退はない。降車の選択肢もない。これは片道切符だ」
政治将校のコミッサロフが小さく「……やっぱり」と呟いた。キリレンコが「大尉、今度のジョークは本当に笑えませんね」と小声で言い、グロモフが「俺のジョークじゃない」と小声で返した。
「だが……いいか、同志諸君」
ジューコフは一呼吸置いた。
「帰るつもりで行く。死にに行くんじゃない。生きて帰るために、前に進む。全員、乗車」
ジューコフが手を挙げた。
「出発」
◇ ◇ ◇
オルロフ爺は、イワンの運転席に座っていた。
彼は震える手でレバーを握った。五十年近く機関士をやってきた男が、こんなに緊張したのは初めてだった。
「イワン」
彼は計器盤に話しかけた。
「お前はな、いい機関車だ。俺が知る中で一番だ。設計してる時からわかってた。お前なら、どんな無茶だってできるってな」
「アレクセイ。俺の息子も、お前が大好きだった。子供の頃、お前の図面を見せたら、目を輝かせてな……」
彼は言葉を詰まらせた。
「今度は、俺が行く番だ。息子の仇を取るんだ。迷惑かけるが、付き合ってくれ」
オルロフはレバーを前方に倒した。
蒸気が噴き出す。ピストンが唸る。車輪が軋む。鉄の巨体が、ゆっくりと動き出した。
プラットフォームに見送りはいなかった。この任務は公式には存在しない。ジューコフは「失脚し、前線に左遷された」ことになっている。この列車がどこへ行くのか、スターリン以外の誰も知らない。
列車は、無人の駅を滑り出していった。
◇ ◇ ◇
客車の中。コミッサロフは手帳を開き、几帳面な文字で記録を始めていた。
「十一月某日。〇六〇〇。乗員総数……確認中。物資残量……確認中。目的地——」
彼はペンを止め、窓の外を見た。
モスクワの街並みが遠ざかっていく。煙突から細く煙が上がり、疎開するトラックの列が通りを埋めている。子供が一人、列車に向かって小さく手を振った。コミッサロフは手を振り返そうとして、やめた。
「目的地、ベルリン」
彼はそう書いて、手帳を閉じた。
「……報告書に、どう書けばいいんだ」
誰も答えなかった。
◇ ◇ ◇
屋根の上。カチューシャは風に金髪をなびかせながら、線路の向こうに広がる平原を見つめていた。まだゾンビの姿はない。でも彼女は知っていた。すぐに現れることを。そして、それを全部撃っていいということを。
「……ねえ」
彼女は隣にいるはずのない誰かに話しかけるように呟いた。
「今日は何人撃てるかな」
彼女の狙撃銃のスコープが朝日にキラリと光った。
◇ ◇ ◇
食堂車の隅。神父イヴァンは密かに十字架を握り、目を閉じて祈っていた。その向かいの席に、コミッサロフが腰を下ろす。
「おい、衛生兵。いや、神父」
「何でしょう、同志」
「その祈り、効果はあるのか」
「少なくとも、私の心は落ち着きます」
「……阿片だ」
「そうかもしれません。ですが同志、あなたもいつか、祈りたくなる日が来ますよ」
「来るか馬鹿」
二人は睨み合い、そして同時にため息をついた。
◇ ◇ ◇
指揮車両。ジューコフは地図を広げ、線路の先を見つめていた。胸ポケットには、娘たちからの手紙が入っている。
コズロフがコーヒーを差し出した。
「元帥、そろそろお休みを」
「必要ない」
「二日、寝てません」
「あと二千キロは起きていられる」
「……無茶です」
「よく言われる」
ジューコフはほんの少しだけ笑った。
列車は加速する。モスクワが遠ざかる。前方には荒野と、死者たちの大地が広がっている。
そして列車の先頭で、オルロフ爺はイワンの汽笛を鳴らした。
長く、低く、大地を揺るがすような汽笛が、冬の平原に響き渡った。それは合図だった。この戦争の最後の一手が、今、動き出したのだ。




