エピローグ:それぞれの旅路の先へ
ベルリンの廃墟に、朝日が昇った。
瓦礫の山と化した研究所の残骸。大破したイワン二号の残骸。戦車たちのなれの果て。そして、生き延びた者たち。
乗組員たちは、それぞれが瓦礫の上に座り込み、あるいは倒れ込み、疲れ果てていた。体中が傷だらけで、煤と血と涙でぐちゃぐちゃだった。しかし彼らは確かに生きていた。戦いは終わった、その事実だけが重く、温かく、そこに横たわっていた。
誰も口を開かなかった。歓声はすでに過ぎ去り、今はただ、生きていることの実感が、一人ひとりの胸に静かに沈殿していた。どのくらいそうしていただろう。五分か、三十分か、あるいはもっと長く。
沈黙を破ったのは、意外な人物だった。
「……同志元帥」
瓦礫の上にあぐらをかいたコミッサロフが、手帳を握りしめたまま、ぽつりと言った。彼の眼鏡はひび割れ、額には包帯が巻かれている。しかし手帳だけは決して手放さなかった。
「報告書は……どう書けば」
ジューコフは、コミッサロフを見た。それから、瓦礫の向こうに広がるベルリンの廃墟を見た。ゾンビの死体の山。大破した列車。空にはまだ、爆煙の名残が漂っている。
彼はしばらく考えてから、静かに言った。
「好きに書け。どうせ誰も信じない」
コミッサロフは一瞬きょとんとし、それから声を出して笑った。その笑い声は、これまで彼が見せたどんな表情よりも、人間らしかった。笑いすぎて眼鏡がずり落ち、彼は慌てて押し上げる。それがまたおかしくて、周囲からも笑い声が漏れた。
「わかりました。では、好きに書かせていただきます」
彼は手帳を開き、新しいページにペンを走らせた。何を書こうか、すでに決まっているかのように、彼の手は迷わなかった。
「『特務装甲列車第一号、通称スターリンの鉄槌号。モスクワよりベルリンまで、全行程二千キロ。目的を完遂し、列車はベルリンにてその役目を終えた。これに関する報告書は、以下の通りである。しかしながら、読者諸氏におかれては、以下の内容を信じるかどうか、ご自身の唯物論的世界観とよく相談されたし』」
彼はペンを置き、満足そうにうなずいた。
「よし。これでいい」
イヴァンが隣で微笑み、コミッサロフの肩を軽く叩いた。
◇ ◇ ◇
オルロフ爺は、一人でイワン二号の残骸の前に立っていた。
蒸気機関車は、もはや原型をとどめていなかった。ボイラーは破裂し、車輪は外れ、煙突は根元から折れて瓦礫の山に突き刺さっている。しかしその姿は、役目を終えた老兵のように、どこか誇り高く見えた。
「イワン……二号……」
彼は持っていたビールの最後の一瓶を開け、ほんの少しだけ機関車の残骸の前に垂らした。彼はこの日のために、一瓶だけ取っておいたのだ。最後の別れのために。
「お前も……最高の機関車だった」
彼の声は震えていた。涙を隠そうともしなかった。ビールの瓶を掲げ、空になったそれをそっと残骸の上に置く。そして、初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートをポケットから取り出し、残骸の上に並べた。
「初代イワン。それからクズネツォフ。三人で……待っててくれ。俺もいつかそっちに行く。まだ先の話だがな」
彼はツナギの袖で涙を拭い、それから背筋を伸ばした。
「俺はな、故郷に帰って、新しい機関士を育てる。この旅で学んだこと、全部教えてやる。レールのない地面の走り方。幽霊列車への体当たりの仕方。それから——」
彼は微かに笑った。
「機関車は生き物だってことをな」
◇ ◇ ◇
戦車貨車の残骸の前で、グロモフとフォン・シュタインベルクは、長い間無言で並んで立っていた。
プロイセン貴族とソ連の歩兵隊長。つい数日前まで殺し合っていた二人の指揮官は、今、同じ瓦礫を見つめている。沈黙は重くなかった。むしろ、言葉を超えた何かが、二人の間には確かに存在していた。
「少佐」
グロモフが口を開いた。
「これからどうする」
「私は、生き残った部下と共に降伏する。それが、指揮官としての責任だ」
「捕虜になるのか」
「そうだ。だが、不思議と悪くない気分だ。これでようやく、部下たちを家に帰せる」
フォン・シュタインベルクは瓦礫の向こうに、部下たちが集まっているのを見つめた。百名近くいた将兵は、半数以下になっていた。しかし彼らは生きている。それだけで、指揮官としての責務は果たされたのだ。
「大尉。あなたは」
「俺は軍人だ。次の戦場に行く。でも——」
グロモフはフォン・シュタインベルクに向き直り、右手を差し出した。
「あんたに会えて、良かった」
フォン・シュタインベルクはその手を取った。今度は、戦場での無言の握手ではなかった。確かな言葉を添えた、別れの握手だった。
「私もだ。大尉。あなたは——」
彼はほんの少しだけ口元を緩めた。
「ソ連兵の中で、唯一私を笑わせた男だ」
「……それ、褒めてるのか」
「最高の賛辞だ」
二人は固く握手を交わし、同時に微かに笑った。
◇ ◇ ◇
バウマンはティーガー戦車の残骸のそばに座り込み、一枚の紙を膝の上に広げていた。
「マリアへ。戦争が終わりました。ベルリンで終わりました。ぼくは生きています。奇跡だと思います。パン屋の三男が、こんな無茶苦茶な旅を生き延びたなんて、誰も信じないでしょう。でも本当です。証拠はないです。でも、本当です」
彼はペンを置き、顔を上げた。朝日が、彼の顔を照らしている。その顔には、初めての、心からの笑顔が浮かんでいた。
「マリア。会いに行きます。必ず。それから、一緒にパンを焼きたいです。戦争の話は、あまりしたくないけど、でも一つだけ自慢させてください。貨車の上から戦車砲を撃ったのは、世界でぼくだけです。たぶん、だけど」
涙で文字が滲んだが、彼は書き続けた。その手紙は、彼が戦争を生き延びた、何よりの証拠だった。
◇ ◇ ◇
ヴェーバーとクラスノフ博士は、研究所の残骸の中を這い回っていた。
「博士! ここにまだ無傷の資料が!」
「どれどれ、これは! 電波の発信周波数と変調パターンの完全な記録だ! それにこっちは、ゾンビの神経伝達に関する実験データ! 信じられん、これだけの資料が残っているとは!」
「私も手伝います。情報将校として、これらの価値は理解しています」
「同志ヴェーバー。君は敵国の将校だが——」
クラスノフは眼鏡を押し上げ、にやりと笑った。
「君と論文を共著にする日が来るとはな。『ゾンビの生理学的・霊的メカニズムの統合的分析』、共著者フランツ・ヴェーバー。どうだ」
「私の名前を出すのは立場上、複雑ですが」
「科学に国境はない! 私が一年かけて構築した仮説を、君が最初から持っていたのは腹が立つが、しかし!」
クラスノフはヴェーバーの手を握った。
「それも含めて、科学だ!」
ヴェーバーは困惑しながらも、その手を握り返した。
◇ ◇ ◇
ペトロヴァは瓦礫の中で、最後の負傷者の治療を終えたところだった。
すべての負傷者に包帯を巻き終わり、彼女は医療バッグを抱えて座り込んだ。中身はもう空に近かった。包帯も縫合糸も鎮静剤も使い切り、残っているのは、使いかけの馬用注射器が一本だけ。
「……戦争が終わっても、医者不足は変わらないんだろうな」
彼女は天を見上げて呟いた。
「獣医だけど。でもまあ、哺乳類はみんな同じだし。たぶん」
彼女は空になった医療バッグを抱えて、微笑んだ。この旅で彼女が救った命は、人間も、そして何も関係なかった。ただ傷ついた者を治す。それが彼女の戦い方だった。
◇ ◇ ◇
神父イヴァンと牧師クラウスは、研究所の瓦礫の上に並んで立っていた。
「牧師。あなたはこれから」
「私は捕虜収容所で、捕虜たちの心のケアを続けます。彼らもまた、この戦争の犠牲者ですから」
「そうですか。私はソ連に戻ります。そして教会を再建します。もう隠れたりしない。堂々と祈ります」
「同志コミッサロフが何と言おうと、ですか」
「ええ。彼はきっと『非科学的だ』と言うでしょう。でも——」
イヴァンは微笑んだ。
「彼は必ず、私の教会に来ます。文句を言うためだけにでも。それが彼の信仰心の形ですから」
クラウスは声を出して笑った。
「では私も、いつかあなたの教会を訪ねましょう。東西ドイツの壁ができる前に」
「約束です」
二人は握手を交わした。その背後で、コミッサロフが「勝手に国際的な宗教ネットワークを——」と何やら手帳に書き込んでいるのが聞こえた。イヴァンは振り返り、にっこりと笑いかけた。
「同志。聞こえてますよ」
コミッサロフは手帳を閉じ、咳払いをした。
「聞かせるために言っている!」
「ええ。わかっています」
◇ ◇ ◇
夕暮れが訪れた。地平線に夕陽が沈み、ベルリンの廃墟が茜色に染まっていく。
ジューコフは瓦礫の上に一人、座っていた。手には一枚の紙。朝、書き始めた手紙の続きだった。今なら書けると思ったからだ。
彼はペンを走らせた。
「パパはベルリンに着いた。列車は壊れたが、部下は生きている。何よりの土産話だ」
彼のペンは、淀みなく進んでいく。
「道中、ゾンビと戦い、幽霊列車を追い払い、時には敵だったドイツ兵と肩を並べた。戦死者も出た。部下の名は、全員覚えている。彼らは勇敢だった。全員が英雄だ。ナターシャ、エレーナ、マルガリータ。お前たちがパパの絵を描いてくれたこと、パパは決して忘れない。あの絵がポケットにあったから、パパは最後まで走れた」
彼はペンを置き、手紙をそっと折り畳んだ。
その時、背後から声がした。
「元帥」
振り返ると、コズロフが立っていた。彼の手には、一通の書類。
「モスクワから呼び戻しです」
「……少し休ませろ」
「無理です。次の戦争です」
「次の戦争だと? 冷戦か」
「……恐らく」
ジューコフは深いため息をついた。コズロフはそんなジューコフを見て微かに笑う。それは、この長い旅で培われた、副官だけが許された笑みだった。
「コズロフ」
「はい」
「お前はよくやってくれた。この旅を、現実にしたのはお前だ。礼を言う」
コズロフは一瞬息を呑み、それから静かにうなずいた。ジューコフが部下に直接礼を言うことは、ほとんどない。その貴重な言葉に、彼は短く「当然のことをしたまでです」とだけ答えた。
「では、帰るぞ。モスクワに」
「はい。今度は——」
ジューコフは立ち上がり、夕陽に向かって歩き出した。地平線から朝日が昇る。いや、まだ夕陽だったが、彼は確かに朝日を見ていた。新しい始まりを、見ていた。
「後ろ向きにだ」
初めて「帰る」と言ったジューコフに、乗組員たちの笑い声が瓦礫の街に響いた。それは小さな笑い声だったが、不思議とよく響き、遠くまで届くように思えた。そして全員が知っていた。この声こそが、彼らが守り抜いた「人間らしさ」の証明なのだと。
その笑い声は、これから彼らが歩む、それぞれの旅路の先へと、静かに消えていった。
地平線に、朝日が昇る。本当の朝日が。
本当の朝日だ。
——完——




