攫われた弟子と、大切な弟子と、ふぎー!
朝の森は、静かだった。
アルファスとニャリエナは、薬草の採取依頼で、街外れの森に来ていた。
「あいつ、勇者様を置いて、Bランクになったニャン」
ニャリエナが草をかき分けながら、むうっと頬を膨らませた。
「アッチムさんの実力なら、当然ですよ」
アルファスは屈み込んで薬草を摘みながら、静かに答えた。
「勇者様は上のランクは目指さないニャン?」
「ええ!? ぼ、僕なんて、Dランクでもおこがましいのに!」
慌てて首を横に振るアルファスを見て、ニャリエナは呆れたように尻尾を揺らした。
「やっぱり勇者様は勇者様ニャン……」
穏やかな時間が流れていた。
その静けさを破ったのは、慌ただしい足音だった。街道の向こうから、数人の冒険者が血相を変えて駆けてくる。
「た、大変だ……!」
「異形だ、異形が出た……!」
アルファスが立ち上がった。
「……何が、あったんですか」
「合同討伐で、予定にない化け物が現れて……」
ひとりの男が肩で息をしながら続けた。
「アッチムちゃんが、攫われた……!」
アルファスの表情が変わった。
ギルドは、騒然としていた。
「Bランクでも、まるで歯が立たなかった……」
「Aランク以上を、すぐには集められない」
「討伐隊の編成にも、時間がかかる……」
絶望的な報告が次々と飛び交い、誰の顔にも焦りが滲んでいた。
その時だった。
「た、大変だ……! 空を見ろ……!」
その叫び声に、皆が外へ飛び出す。全員が空を見上げ、息を呑んだ。
巨大な光の陣が、空一面に広がっていた。複雑な線が、幾重にも重なっていく。
「空が、光って……!」
「この前も、こんな光を見たぞ!」
冒険者たちが呆然と空を見上げる中、ナタリアさんだけは、同じ空を見上げながら微笑んでいた。
「……また、君だね。アルファス君」
つぶやきは、誰にも聞こえなかった。
ニャリエナがひくひくと鼻を動かした。
「勇者様! 近くに人はいないニャン!」
「……ありがとう。探知術式、発動!」
次の瞬間、空気が震えた。複雑な術式が幾重にも重なり、巨大な魔法陣が空を覆っていく。
「集中しろ……探知術式、広域展開!」
術式は森を走り、街道を這い、山肌へと広がっていった。空そのものが、巨大な魔法陣へと変わっていく。
「……みつけました」
アルファスが静かにつぶやいた。
「行きましょう、ニャリエナさん」
ニャリエナは何も言わず、アルファスにしがみついた。
次の瞬間、二人の姿は、その場から消えていた。
洞窟の中は、暗く、湿っていた。
アッチムの身体には、黒い霧が絡みついていた。肌から染み込むように侵食していく。憎しみ、怒り、嫉妬。押し込めてきた感情が膨れ上がり、思考が少しずつ遠のいていく。
「師匠……」
震える声が、漏れた。
「うち……もう、だめっす……」
その時、洞窟の奥から風が吹き込み、アッチムを包む黒い霧が一気に掻き消えた。
「……誰だ」
魔族が低く唸った。足音が近づいてくる。一つだけではなかった。
「大切な弟子を、返してもらえますか」
眼鏡をかけた男が、ゆっくりと歩いてきた。
「ニャリエナさん、アッチムさんを」
「まかせるニャン!」
ニャリエナはアッチムのもとへ駆け寄ると、拘束する縄へ爪を走らせた。縄は、あっけなく切れた。
「おまえ! しっかりするニャン!」
ぐったりとした身体を、抱きかかえる。
「勇者様の弟子が、こんな所で負けてちゃだめニャン!」
「……アッチムさんは」
アルファスが、魔族の前に進み出た。眼鏡の奥の目が、じっと魔族を見据えている。
「僕が、必ず取り戻します」
その言葉と同時に、背筋が伸びた。おどおどとした気配が、すうっと消える。
「この霧は、生体侵食型……感情を糧に、精神を書き換える術式。解除には……」
ぶつぶつと独り言が始まった。
「……対抗魔力を、内側から逆流させれば、いける」
アルファスの手が動き、剣が抜かれた。
「行かせてもらいます!」
地面を蹴り、魔族との距離を一瞬で詰める。
魔族は咆哮を上げながら、腕を振り上げた。
「……振りが大きい」
身体を半歩ずらしただけで、魔族の一撃は空を切った。
「この霧の核は、胸の中心」
踏み込んだ瞬間、剣が閃く。一瞬だった。
魔族の巨体が、内側から崩れ、膝をついた。
「貴様は……やはり……あの……アルファス……」
言い終わる前に、その姿は崩れ落ち、黒い粒子となって消えていった。
洞窟に、静寂が戻る。
アルファスは剣を収めるとすぐにアッチムへと駆け寄り、膝をついた。眼鏡を押し上げる手が、少しだけ震えていた。
アッチムが目を覚ますと、そこは宿の一室だった。
「……あ」
瞬きをすると、見慣れた天井が見えた。視線を落とすと、ベッドの脇にアルファスが座っていた。
「気が付いたニャン!」
覗き込むニャリエナの顔も見えた。
「し、師匠……うち……」
アッチムはゆっくりと身体を起こした。
その目から、みるみるうちに涙があふれ出した。
「ごめんなさい……ごめんなさいっす……!」
声が震えた。
「調子に、乗ったっす……撤退しろって、心の中じゃわかってたのに……」
涙が、次々とこぼれ落ちる。
「うちのせいで……師匠まで、笑われるっす……」
アッチムはそう言って、両手で顔を覆った。
アルファスは静かに手を伸ばして、アッチムの頭をそっと撫でた。
「何も、言わなくていいです」
その声には、責める色が一切なかった。
顔を上げると、師匠は微笑んでいた。
「君が……無事で、よかった」
師匠はそれ以上何も言わなかった。ただ、その表情はどこまでも柔らかく、優しかった
その瞬間、胸いっぱいに、師匠への想いが溢れた。
「師匠――っ」
アッチムは勢いのまま、アルファスへ身を乗り出した。
ちゅっ!!
気づけば、唇を重ねていた。
「ふぇぇぇっ!?」
アルファスの思考が、完全に停止した。眼鏡がずれる。
「あわわ、わあー!」
「うわっす!」
そのまま二人はベッドから転がり落ちた。
その時、アルファスの身体から、小さな黒い欠片が飛び出した。欠片はパキンと砕けて、宙に消えた。誰も、それには気づかなかった。
「おまえたち……何してるニャン……」
二人の様子を見守っていたニャリエナが、静かに立ち上がった。
耳が伏せられ、尻尾が限界まで膨らむ。
爪が、じわりと伸びた。
「……ゆるさないニャン」
低い声だった。
「あ、あわわわわ……」
アルファスが真っ青になる。
「ち、違うっす! これは、その、勢いで……!」
アッチムが慌てて両手を振った。
「勢いでも、だめニャン!」
ニャリエナが飛びかかった。
「勇者様は、わたしのご主人ニャン!」
「うちの、師匠っす!」
「わたしのものニャン!」
「うちのっす!」
取っ組み合いが始まり、宿の部屋がめきめきと音を立てる。
「お、お二人とも、落ち着いて――! また弁償になりますよっ!!」
アルファスの悲鳴が、宿中に響き渡った。
◇
剣を打ち合う音が、稽古場に響いていた。
「いい動きだ、グーダス君!」
カイルの声に、グーダスは息を弾ませながら、剣を構え直した。
「はい! カイルさんたちと一緒なら、俺はもっと強くなれる!」
その目に、迷いは、もうなかった。
◇
石造りの建物の一室。窓辺に佇む女性が、遠い目で、外を眺めていた。
「アルファス様……だったかしら」
小さく、微笑む。
「あの護衛……もう一度、会いたいわね」
「――は?」
その言葉を聞いて、隣にたたずむ女性騎士が眉を吊り上げた。
「姫を、たぶらかす、その男。このゼリスが、実力を確かめてやります!」
騎士は剣の柄をぎゅっと握りしめた。
◇
街外れの酒場。薄暗い一角で、パーダロが一人、酒杯を睨みつけていた。
「あの陰キャ、どうやって潰してやろうか」
低く、つぶやいた。
「このパーダロ様をコケにしたこと……後悔させてやる」
◇
とある街で。
「おい、聞いたか! この街に、勇者エルクードが来てるらしいぞ!」
「じゃあ、聖女アリアーゼも一緒だな!」
街の噂は、あっという間に、広がっていった。
宿の一室で。
勇者エルクードは、グラスを傾けながら、独りごちた。
「俺が、勇者か……笑えるな」
その目は、どこか、遠くを見ていた。
その隣で、窓の外を眺めながら、聖女アリアーゼが、小さくつぶやいた。
「アルファス……」
その瞳は憂いを帯びていた。
―― 第二部 完 ――
※ニャリエナの独り言
あいつ、絶対許さないニャン! でも、無事でよかったニャン。
これにて第二部、完! いつも読んでくれて、本当にありがとうニャン!




