その壱
「ああ、何か凶悪な事件でも起きないものかな」
加賀見がそんな物騒なことを呟いたのは、ピアニスト森華奈子嬢殺人事件の資料をようやく私がまとめた頃だった。
私は飲んでいた珈琲を危うく取りこぼすところだった。
「なんだい、二階堂刑事。子供じゃあるまいし、珈琲ぐらい行儀良く飲めないのかい」
珈琲の入ったカップを取り落としそうになった私を見て、加賀見が眉をひそめた。
「加賀見!!」
「なんだい?」
と小首を傾げる加賀見に悪びれる様子はまるでない。
「滅多なことをいうものじゃないよ!帝都の名探偵とも呼ばれるものが!」
「その呼び名については僕も色々と思うところあるんだが」
私の言葉に加賀見はいたって不服そうな顔をしたが、私はそれをさえぎると言った。
「その議論は今度にしてもらおう!!凶悪事件が起きればいい、なんて冗談でも言うもんじゃない!」
「だって、君は退屈じゃないのかい?」
加賀見の問題発言に私は軽い眩暈を覚えた。とても「帝都の名探偵」と呼ばれる男の言うこととは思えない。
「僕は退屈で退屈で死にそうだよ。事件らしい事件もここのところ全くないし」
「いいことじゃないか。世の中、平和に越したことはない」
加賀見は私の顔を見ると、深くため息をついた。
「本当に君は退屈な男だなぁ。一体、君は何が楽しくて刑事なんかやってるんだ」
「退屈で結構。私は君を楽しませるために刑事をやってるんじゃない。帝都の平和を守るためにやってるんだ」
加賀見が何やら僕に反論しようと口を開いたその時、どたどたと誰かが階段を駆け上がってくる音がした。
「先輩!二階堂先輩!事件です!」
聞き覚えのあるその声は、どうやら私の部下の大木刑事であるようだ。加賀見はまるで獲物を見つけた猛獣か何かのように目を輝かせると舌なめずりをした。
「さてと、どうやら君の愛する平和で退屈な日々も終わりを告げたようだね。二階堂刑事、このまま僕が同席しても?」
私は加賀見の顔を見ると、深くため息をついた。
「勝手にしたまえ」
長椅子に腰掛けた大木刑事は大きな目を落ち着きなくきょろきょろとさせている。彼はこの部屋に来るのは初めてではないのだが、どうやら加賀見のことが気になるらしい。不器用な手つきで珈琲を入れる加賀見の方をちらちらと気にしている。
…そういえば、加賀見と大木君を会わせたのは初めてだったな。
私がそう気づいたのは、大木刑事が加賀見から珈琲を受け取って、そばかすだらけの頬を赤らめた時だった。
「事件が起きたのは、昨夜のことです」
と、大木刑事は加賀見の入れた珈琲を飲み終わると、ようやく事件のことを話し出した。
「三園ご夫妻のことをお二人はご存知ですか」
「三園って…まさか、あれかい?三園財閥の…」
私の言葉に大木刑事はこくり、と頷いた。
「三園晃、百合子。三園財閥の若き当主、晃さんとその妻である百合子さん。もっとも晃さんの方は『湊あきら』という名前の方が僕らには親しみがあるけどね」
珈琲片手にそう言った加賀見の方を私は驚いて見た。
「『湊あきら』って!?『黒い百合の咲く丘で』の湊あきらかい!?あの本は三園財閥のご当主が書いたのかい!?」
そんな私に驚いたのは、むしろ加賀見と大木君の方だったようだ。
「二階堂君、まさか知らなかったのかい!?」
「先輩、『あのトリックもさることながら、生きることの悲哀を織り込んだ物語は素晴らしい』って絶賛していたじゃないですか!!」
二人に詰め寄られた私は
「だって…名前が違うじゃないか…」
とまるで子供のいいわけのような言葉しか出てこなかった。そんな私に二人は深いため息をついたが、大木刑事は先を続けた。
「えーと、その、三園夫妻なんですが…昨晩、晃さんの書斎で百合子さんが変死体で見つかったんです」
「え…?しかし、大木刑事、新聞にはそんな記事…」
私の言葉に加賀見は大げさにため息をついた。
「二階堂刑事、君には想像力が足りないね。三園財閥の当主、しかも晃さんは『湊あきら』の名前で探偵小説も書いている。そんな晃さんの妻、百合子さんが変死体で見つかったんだよ、世間はどう思うだろうね?」
「それは…晃さんが犯人だと…」
「そう、三園財閥の当主が犯人だと喚きたてるだろうさ。三園財閥にとってはとんでもない醜聞だ」
「醜聞には違いないだろうけど…そうさ、なら、余計新聞が書き立てそうなものじゃないか!」
私の言葉に加賀見は救いようのない、とでも言いたげに首をすくめた。
「君は何も分かってないな!…三園財閥が今、日本の財界でどのくらいの力を得ているか。これは三園の醜聞ではすまないよ。日本の財界を揺るがす醜聞になりかねないのさ」
加賀見の横で大木君も頷く。
「そうなんですよ、先輩!だから上層部もこの事件をどうするべきか困り果ててるみたいで…」
ん?と私は大木刑事に首を傾げた。
「ちょっと待てよ。なんで上層部も手に余るようなこの事件を大木君が知ってるんだ?」
びくと震えた大木刑事の後ろ姿に私はピンと来て彼を睨んだ。
「君…まさかまた盗み聞きしたんじゃ…」
「ち、違います!!自分は書類に判を捺して貰おうと思って署長のところに行っただけです!!」
やましい気持ちはなかったんですと言い訳する大木刑事を見て、私は深くため息をついた。…やっぱり盗み聞きではないか…。
「大丈夫だよ、大木君」
妙に優しい加賀見の声がして、私は背筋に震えを感じた。加賀見がこういう声を使うのは、相手の信頼を得ようとしている時である――そう、良い言い方をすれば。
「任せたまえ。僕が全て解決してあげよう」
満面の笑みでそう言う加賀見に、大木刑事はそばかすだらけの顔を赤面させた。―――悪い言い方をするなら、それは相手をたらしこもう、としている時に決まって加賀見が出す声色だった。
「いえ、あの、でも、お忙しい加賀見探偵には、ご迷惑では…」
まるで少女のように顔を赤らめた大木刑事に加賀見はにこり、と笑いかけた。
「ここで警察が動くのは、懸命ではないね。それにちょうど僕も退屈――いや暇を持て余していたところなんだ。なあ、二階堂刑事」
大木君に使った猫撫で声はどこへいったのか、ぞんざいに呼びかけられた私は深い深いため息をついた。
「そうらしいね」
と適当に相槌をうつと、加賀見は椅子から立ち上がった。
「そうと決まれば、準備が必要だ!二階堂君、大木刑事、明日の昼頃またこの部屋に集合しよう!」
「初めてお会いしましたけれど、加賀見探偵、美男子ですね~。」
どうやら、すっかり加賀見に騙されたらしい、大木刑事が署までの帰り道、ぽつりと言った。
「男装した森谷麗子みたいだ」
「それ、加賀見には言わない方がいい。前歯を折られたくなければね」
へ?と間抜けな声を出した大木刑事に、私はううむ、と考え込んだ。
「それにしてもそんなに似てるかい?」
森谷麗子とは少し前に流行した女優である。舞台や活動写真によく出ていたのだが、病気療養中だとかで、ここのところ姿を見ない。
それにしても私には森谷麗子と加賀見に全く共通点はないように見えるのだが…。
「そっくりじゃないですか!特にあの陰のあるまなざし!!」
「うーん、でも手がねぇ…手は全く似てないよ」
私が手が似てない、と言うと大木刑事はあはは、と笑った。
「また始まりましたね!先輩の『手』診断!」
茶化すように言った大木刑事に私は少しむっとして言った。
「そうやって、馬鹿にするけどねぇ大木君。その人の手を見れば、大体どんな人間か分かるものだよ、本当さ」
「はいはい、先輩が手が好きなのは皆知ってますって」
「本当だよ、私の先生も…!」
そう反論しようとすると大木刑事は茶化すように言った。
「じゃあ、加賀見探偵はどんな手の持ち主ですか?」
うーむ、と少し考えこんだが、私は言った。
「不器用な手だね、あれは。探偵なんて本当は向いていないと思うよ」
大木刑事がええ~?と素っ頓狂な声を出して笑った。