航空郵便防衛部≪前≫~航空部隊ってお金かかるし在日米軍に任せればよくない?~
その部署、日本郵便防衛庁の航空部門“航空郵便防衛部”といえば、発端は郵便防衛庁が発足した時に、アメリカ軍から自前の連絡飛行機部隊と軽攻撃機部隊くらいは持つよう要求された事だった。
1953年にはこの要請に答えるように郵便防衛庁郵便防衛部の下に航空課が設立され、連絡飛行機はアメリカからセスナ社のL-19が85機の導入を決定し富士重工業によってライセンス生産を、軽攻撃機はちょうど東洋航空工業が東南アジア向けにライセンス生産をしていたフレッチャーFD-25が採用された。
余談であるが、アメリカにしてみれば連絡機や軽攻撃機に留まらず制空戦闘機も保有して欲しかったのであるが、そこまでは発足間もない日本郵便防衛庁には荷が重いだろうとなって要望こそ出したものの実質的には先送りがされた。
日本郵便防衛庁としても、何から何まで膨大な金が浪費される航空部隊の増備には消極的であった。
余談に次ぐ余談であるがこの東洋航空工業という会社、設立間もないにも関わらず早くも経営に行き詰っており、郵便防衛庁から大口採用の話が来た時には諸手を挙げて喜んだという。
だがこれも1956年になると、FD-25のあまりにも低性能さからロッキード社のT-33ジェット練習機が軽戦闘攻撃機として、1959年には災害対策用にシコルスキー社のS-58ヘリコプターも採用された事もあって航空課の規模は少しずつ拡大を続けていた。
さらに1960年台に入ると東京急行、ソビエト空軍による示威的な偵察・哨戒行動が活発化。Tu-95爆撃機が樺太と千島列島を超えて太平洋に出るとひたすら防空識別圏に沿うよう飛行を続けて伊豆諸島にまで飛来するような偵察飛行が相次いで発生。
これには郵便防衛庁も核爆弾なんか落とされては郵便ポストどころか都市の郵便インフラが丸ごと吹っ飛ぶのではと危機感を覚え、アメリカから見放されないよう上辺だけでも体裁を形作るべく防空迎撃戦闘機部隊の設立を決定。
郵政省の各種事業が日本経済の驚異的成長に伴って莫大な収益を上げ始め、郵政省からも予算が下りる郵便防衛庁の懐も暖かくなってきた事もその決定の一助となった。
また、そろそろ日本に本格的な戦闘機部隊を持たせたかったアメリカとも方針が合致した事もあって郵便防衛庁航空課に防空迎撃戦闘機部隊が設立される運びとなった。
機種の選定に当たってはロッキード社のF-104Sが、アメリカ製の値段の安い戦闘機という事で適当とされ他に対抗馬も無く、当時、郵便防衛庁に接近していたソ連も流石に戦闘機までは売ろうとしなかった為にすんなりと採用が決定した。
パイロットの育成に当たっては、T-33のパイロットをそのまま転換する事となり、1964年には実働部隊として初のF-104S戦闘機部隊が発足。在日アメリカ海空軍と共にスクランブル任務へ従事する事となった。
さらに日本各地に防空レーダーや地対空ミサイル、対空機関砲が、主に郵便局の建屋を拡張して設置する形で配備され、各郵便局に駐在する郵便防衛庁の部員らによって運用され始めるなど地上においても空の脅威への対策が進んでいった。
そして“海上郵便防衛部”が発足したのに伴ない、郵便防衛部が“陸上郵便防衛部”に改編されると共に航空課は“航空郵便防衛部”へ格上げされた。
だが、その事件は防げなかったのだ。
1976年9月6日13時11分。
北海道の西にある奥尻島、その島の最高峰である神威山にある奥尻郵便局神威山防空分室に設けられた対空レーダーが西方から低空を高速で接近する国籍不明機を察知した。
これに対し日本航空郵便防衛部は、千歳空港にある千歳郵便局千歳空港分室に所属のF-104Sが2機をスクランブル発進させた。
この時点までは誰もが、またウラジオストクからの定期便か。と考えていたのだが、スクランブル発進したF-104Sが離陸してすぐに対空レーダーが国籍不明機をロストすると緊張が走った。
「レーダーの隙を突いた超低空侵入攻撃か!」
航空郵便防衛部の部員らの頭をよぎったのはアメリカ空軍がベトナム戦争で行なったワイルド・ウィーゼル、防空施設空爆作戦だった。
もしそうであったら、この国籍不明機に続いてやってくるのはソ連空軍爆撃機の大編隊である。
となると北海道の郵便インフラの命運はスクランブル発進したF-104Sに掛かっているのも同然。であったのだが、国籍不明機を見失ったのはF-104Sにおいても同様で、国籍不明機の予測飛行ルートに沿って捜索を行なうに終始し、そして最後まで発見することは叶わなかった。
13時40分。
函館郵便局函館空港分室に所属のFD-25がソ連空軍からの攻撃に備え空中退避のため離陸を開始。もしソ連機と接敵しても交戦が可能なよう7.62mm機銃には実弾が装填され、2.75inchロケット弾も搭載された。
だが、函館空港分室に配備されていた4機の内2機が離陸の途中でエンストを起こし滑走路途上で立ち往生。パイロットらがオンボロ機に嘆いたその瞬間である。
突如としてジェットエンジン特有のゴォォォ!!という轟音が函館市内に響き渡った。
ソ連防空軍のMiG-25ジェット戦闘機がやって来たのである。―――しかも何故か着陸態勢で。
そう、着陸態勢でである。
しかし、その先の函館空港に1本しかない滑走路は2機のエンストしたFD-25が立ち往生して使用不能である。
それで何を考えたのかMiG-25は着陸態勢のまま僅かに鼻先をずらし、着々と高度を下げていく。
そして降着装置のタイヤが地面、滑走路脇の誘導路に着地してキュッっと音を鳴らし、そして速度を落としつつ誘導路の東端へと近付き―――最後に砂埃を上げて停止した。
MiG-25は誘導路の端を超えてはしまったものの、幸いなことに速度が落ちており、誘導路東端の先が滑走路延長工事の為に地均しされていて、そして後に判明した事だが、MiG-25がソ連では前線飛行場と呼ばれる悪環境な滑走路での離着陸を想定されていた飛行機であった為に機体はまったくの無傷であった。
この奇跡的な着陸を成し遂げたMiG-25に呆けてしまったオンボロ機のパイロットである航空郵便防衛部の防衛部員2人であるが、MiG-25のパイロットがキャノピーを開きコックピットから姿を現すと我に返って走り寄った。
これをMiG-25のパイロットが見て拳銃を空に向け発砲、後に彼が語った所によると民間機(FD-25)の民間人パイロット(防衛部員)が不用意に近付かない為の威嚇だったという、をした為に、防衛部員らも携帯していた拳銃で威嚇発砲。
それに続いて函館空港分室の整備課員や警備課員らのが原付バイクやジープで駆け付けて六四式郵便小銃などを突きつけると、それで彼は初めて、それらが日本の軍事組織であることを始めて理解したのだ。
そして彼は拳銃から弾を抜いて投げ捨て、両手を挙げたついでに顔もふと見上げたのだ。
その目には水平対抗エンジンを積んだひ弱そうな飛行機が、細い機銃とロケット弾で自分に向けて精一杯の威嚇をしてみせているのが映った。その時、どうにも笑いがこみ上げてきて堪らなかったという。
「日本の空軍は、すばらしく、とても羨ましいほどに、平和だ」
日本の大地に降り立って、彼は開口一番にそう言ったという。
もっとも、そのロシア語を理解出来たのは彼、ヴィクトール・イワノヴィッチ・ベレンコ中尉だけであったが。
航空郵便防衛部の話は前後編に分けます。
前編―――設立からベレンコ事件まで
後編―――ベレンコ事件を受けての変化




