ミナソコ 序
ミナソコ 序
ミナソコ 序
老婆のそばには、いつも一本の杖があった。
黒ずんだ木でできた、何の変哲もない古いステッキだった。持ち手だけは長年握られたせいで鈍い艶を帯び、先端の金具には細かな傷が無数に走っている。
ただ一つ、奇妙なところがあった。杖の柄から少し下がったところに、七つの丸い窪みが並んでいた。そのうち六つには石が嵌まっている。
白く乾いた石。鈍く金色に光る石。煤のような赤黒い石。深い緑の石。土の塊にも見える褐色の石。そして、夜明け前の空のように淡く輝く石。
最後の一つだけが、空いていた。
「おばあちゃん」
暖炉の前に座っていた男の子が、それを指差した。
「そこだけ、石がないよ」
老婆は安楽椅子に身体を預けたまま、膝の上の杖を見た。
「そうね」
「なくしたの?」
「いいえ」
「じゃあ、割れちゃった?」
「それも違うわ」
「じゃあ、なんで?」
老婆は少しだけ笑った。
窓の外では雪が降っていた。暖炉の薪が弾け、部屋いっぱいに橙色の光が揺れた。
子供たちは四人いた。さっき問いかけた男の子。床に腹這いになっている子。毛布にくるまっている子。老婆の椅子のすぐ脇に座り、石を覗き込んでいる女の子。誰もが答えを待っている。
老婆は空いた窪みを親指で撫でた。
「まだ、来ていないのよ」
「何が?」
「最後の石」
「いつ来るの?」
「さあねえ」
老婆は目を細めた。
「ずいぶん長いこと待っているんだけど」
女の子が杖へ手を伸ばした。
「触っていい?」
「駄目」
老婆の声は静かだったが、女の子はすぐに手を引っ込めた。
「どうして?」
「これはね」
老婆は杖を持ち上げた。
「もう一人の私」
子供たちが顔を見合わせた。
「もう一人のおばあちゃん?」
「そう」
「そんなの嘘だ」
「おばあちゃんのお話なんだから、少しくらい嘘が混じっていた方が面白いでしょう?」
老婆はそう言って笑った。
青い瞳だった。老人のものとは思えない、不思議なほど澄んだ青だった。
「じゃあ、話して」
誰かが言った。
「最初の石の話」
老婆は、しばらく何も言わなかった。六つの石の一番上、白く、表面に細かな亀裂の走った石に指を置いた。
「これはね――」
暖炉が弾けた。
「水の石よ」
「水? 白いのに?」
「そうね。私も最初は、そう思ったわ」
「海の石?」
「いいえ」
「川?」
老婆は窓の向こうを見た。降り続ける雪のさらに向こうに、もう誰にも見えない景色を探すように。
「大きな川だった」
そして、ゆっくり目を閉じた。
「とても、とても大きな川」
*
精歴一八五三年、春。
ミシシッピ川は、今日も茶色かった。
「だから飲むなって言ってるでしょ!」
ステラ・メイ・ホロウェイは、妹の手から柄杓をひったくった。
「一口だけ!」
「一口でも駄目!」
「父さん昨日飲んでたよ」
「父さんのお腹とあんたのお腹を一緒にしないの」
「同じ家族なのに?」
「そういう意味じゃない!」
九歳のルーシーは頬を膨らませた。井戸水を汲んだ大桶の横で、メイは腰に手を当てる。
「ちゃんと煮たのを飲みなさい」
「冷たいのがいい」
「だったら我慢しなさい」
「メイ姉ちゃんの意地悪」
「はいはい」
洗濯籠を持ち上げると、後ろから笑い声がした。
「お前、母さんに似てきたな」
振り返ると、兄のトーマスが馬小屋の柵にもたれていた。
「嫌なこと言わないで」
「褒めたんだよ」
「母さんに聞かせてあげようか?」
「やめろ」
トーマスは真顔になった。それを見てルーシーが笑う。
ホロウェイ家の朝は、だいたいいつもこんなものだった。
河岸通りから一本入った泥道沿いに、ホロウェイ・ボーディングハウスは建っている。二階建ての小さな宿屋だ。一階には食堂と共同室、それから家族の居間。二階には六つの客室。裏手には馬小屋と荷馬車置き場。
決して上等な宿ではない。雨が降れば屋根の二箇所から水が漏れるし、冬になれば二階の一番奥の部屋には隙間風が吹く。
それでも母エレンは、『ベッドと飯だけは、金持ちの宿に負けるな』と言っていた。だからシーツは毎日洗った。床も磨いた。食事には、少なくとも温かいスープを一品つけた。
西へ向かう人間たちが、一晩だけ眠る家だった。
「メイ!」
玄関から母の声が飛んできた。
「三号室のシーツは!」
「今やってる!」
「昨日も聞いた!」
「昨日からやってる!」
「口動かす暇があったら手を動かしな!」
メイは顔をしかめた。トーマスがまた笑う。
「そっくりだ」
「うるさい」
「そのうち宿を継ぐの、お前なんじゃないか?」
「冗談じゃないわよ」
言ってから、メイは洗濯籠を抱え直した。
「じゃあ兄さんが継げば?」
「俺?」
トーマスは自分の胸を指差した。
「俺は西へ行く」
またその話だ。メイは呆れた顔をした。
「はいはい」
「信じてないな?」
「あと何年それ言うつもり?」
「もうすぐだ」
「去年も聞いた」
「今年は本当だ」
トーマスは上着の内側から、小さな革袋を取り出した。ちゃり、と硬貨の音がする。彼が何年も貯めている金だった。
「あと少し」
そう言った兄の顔だけは、冗談を言うときとは違った。メイはその顔が嫌いではなかった。
宿に泊まる旅人たちは、皆、西の話をした。地平線まで続く草原。黄金の眠る山。誰のものでもない土地。馬で何日走っても辿り着かない場所。
父はそんな話を聞くたび、『馬鹿の夢だ』と言った。
けれどメイは知っている。父だって昔、海を渡ってここへ来た。だからトーマスが西を見ている時、父は決まって目を逸らすのだ。
「メイは?」
「何が?」
「西へ行ってみたいと思わないのか?」
「別に」
即答した。
「一度も?」
「ない」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
メイは洗濯籠を持って歩き出した。背中から兄の声が追いかけてくる。
「昨日、旅人の地図ずっと見てただろ!」
「宿の備品に落書きされてないか確認してただけ!」
「二時間も?」
「暇だったの!」
トーマスが笑った。メイは振り返らなかった。
行きたいと思ったことがない。それは本当だ。少なくとも、メイはそう思っていた。
知らない土地の話を聞くのは好きだった。知らない町の名前も、知らない川も。夜、誰もいなくなった食堂で、客が置いていった新聞や地図を読むのも好きだった。
けれど、自分がそこへ行く姿だけは想像したことがない。
ホロウェイ宿には、毎日たくさんの人間がやって来る。そして翌朝には、いなくなる。
メイはずっと、見送る側だった。
この朝も、そうなるはずだった。
少なくとも――そのときの彼女は、そう思っていた。
*
昼前になると、ホロウェイ宿の食堂は急に騒がしくなった。
焼いたパンの匂いと、玉ねぎを煮込んだスープの匂い。それに濡れた上着と馬の汗と、泥の匂い。
メイは盆を両手に抱えたまま、客の間を縫うように歩いていた。
「スープ二つ、豆煮込み一つ!」
「パンが足りないよ!」
「今持ってく!」
「メイ、三番卓の男、また酒頼んでる!」
「昼から?」
「昨日からよ!」
厨房から顔だけ出して、母エレンが怒鳴った。
「だったら水飲ませときな!」
「それ言ったら殴られるの私なんだけど!」
「避けな!」
「親の言うことじゃない!」
食堂の隅で笑い声が上がった。いつものことだった。
ホロウェイ宿には、上品な客はあまり来ない。荷運び人。行商人。河を下る船乗り。西へ向かう家族。仕事を探して町へ来た男。仕事に失敗して町を出る男。
大抵は一晩か二晩泊まり、名前も残さず消えていく。だからメイは、客の名前より顔で覚えていた。髭の長い男。左手の指が一本ない男。食事の前に必ず祈る女。靴を脱がずにベッドへ上がる最低な男。
「メイ」
背後から呼ばれた。振り向くと、食堂の入口にアビゲイル・ウォーカーが立っていた。淡い青のワンピースに、小さな包みを抱えている。
「アビー」
「忙しそう」
「見れば分かるでしょ」
「じゃあ帰ろうかな」
「待って待って待って」
メイは盆を近くの卓へ置いた。
「何?」
「昨日頼まれてたの」
アビーは包みを開いた。中から出てきたのは、小さな布の袋だった。生成りの生地に、赤い糸で不器用な星が縫ってある。
「何これ」
「薬入れ」
「薬なんて持ってないけど」
「旅に出る時に使うの」
メイは眉をひそめた。
「誰が?」
「あなた」
「出ないって言ってるでしょ」
「でも地図好きじゃない」
「見るだけ」
「それを旅に出たいって言うの」
「言わない」
アビーは笑った。
彼女はメイと同い年だった。近所の仕立屋の娘で、幼い頃から顔を合わせている。アビーの父親は、娘にはなるべく泥仕事をさせない主義らしく、アビーの手はいつ見ても綺麗だった。メイはときどき、その手が羨ましかった。
「そういえば」
アビーが声を潜めた。
「西通りのヘンダーソンさんとこの娘、婚約したって」
「へえ」
「それだけ?」
「それ以外に何て言えばいいの」
「十九よ?」
「知ってる」
「十九で結婚よ?」
「だから?」
「私たちもあと二年よ」
「何が?」
「十九になるまで」
「それは知ってる」
アビーは溜息をついた。
「本当にそういう話に興味ないのね」
「あるよ」
「どんな?」
「相手が金持ちかどうか」
「最低」
「大事でしょ」
「もっとこう、顔とか、優しいとか」
「金があって優しくて顔が良ければ最高ね」
「欲張り」
「欲張らない理由ある?」
アビーが笑う。その笑い方を見ていると、メイもつられて笑った。
その時だった。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「エレン!」
大きな声と一緒に入ってきたのは、サイラス・ブーンだった。肩幅の広い五十前後の男で、いつも河の泥と油の匂いをまとっている。
「飯!」
「金!」
厨房から母の声が返ってきた。
「あとで払う!」
「昨日も聞いた!」
「今日は本当だ!」
メイは思わず吹き出した。どこかで聞いたような会話だった。
サイラスは空いている椅子へどかりと座ると、帽子を卓に置いた。
「嬢ちゃん、スープ」
「先に金」
「お前まで母親みたいなこと言うな」
「似てるらしいから」
「誰が言った」
「兄さん」
「見る目あるな」
メイは睨んだ。
「パン抜きにするよ」
「悪かった」
サイラスはすぐに両手を上げた。
そこへ裏口からトーマスが入ってきた。
「サイラス」
「おう、坊主」
「昨日の話」
「ああ?」
「荷揚げの仕事」
サイラスの顔から笑いが消えた。メイは盆を持つ手を止めた。
「本気か」
「本気だよ」
「きついぞ」
「知ってる」
「知ってるやつは、そんな顔しねえ」
「どんな顔?」
「夢見てる顔だ」
トーマスは笑った。
「金になるんだろ?」
「なる。身体が壊れなきゃな」
メイは二人の卓へ近づいた。
「何の話?」
「仕事」
「聞いてない」
「今言った」
「そうじゃなくて」
サイラスはメイとトーマスを交互に見て、鼻を鳴らした。
「西へ行く金だろ」
メイは兄を見る。トーマスは否定しなかった。
「まだ足りないの?」
「あと少しって言ったろ」
「宿の手伝いは?」
「するよ」
「いつ?」
「朝」
「朝は馬小屋あるでしょ」
「夜」
「夜は客の荷物運んでるでしょ」
「寝る時間削る」
「馬鹿じゃないの」
「西へ行けば寝放題だ」
「どういう理屈よ」
「空が広いから」
意味が分からない。けれどトーマスは本気で言っているらしかった。
サイラスが笑った。
「やめとけ、嬢ちゃん」
「何を?」
「男が馬鹿やる時に止めるのをだ」
「何でよ」
「止めてもやるから」
「じゃあ怪我しても知らない」
「それでいい」
トーマスが言った。
メイは少し腹が立った。
「兄さんって、勝手だね」
「そうか?」
「家のこと全部放って西に行くんでしょ」
「全部じゃない」
「何が違うの」
トーマスは少し考えた。
「戻ってくる」
メイは笑った。
「いつ?」
「金持ちになったら」
「じゃあ一生帰ってこないかもね」
「ひどいな」
「現実的なの」
トーマスはまた笑った。
でも、その笑顔の奥にあるものを、メイはまだ知らなかった。
*
その日の午後、裏庭で洗濯物を干していると、ルーシーが出てきた。
「メイ姉ちゃん」
「なに」
「寒い」
「なら中にいなさい」
「母さんが邪魔だって」
「何したの」
「何もしてない」
何もしていない子供が、一番邪魔なのだ。
メイは濡れたシーツを竿に掛けた。
「ほら、ここ持って」
「冷たい」
「文句言わない」
ルーシーはしぶしぶ布の端を持った。
「兄さん、本当に西に行くの?」
「らしいよ」
「いつ帰ってくる?」
「金持ちになったらだって」
「じゃあ、すぐ?」
メイは笑った。
「どうだろうね」
「お土産頼んでいい?」
「何が欲しいの?」
ルーシーは少し考えてから、
「金」
と言った。
メイは吹き出した。
「兄さんより現実的じゃない」
「いっぱいあるんでしょ、西には」
「話ではね」
「じゃあ金の石」
「石?」
「うん。金でできた石」
「そんなの持って帰ってきたら、父さん卒倒するね」
ルーシーは嬉しそうに笑った。
その直後だった。
手にしていたシーツが、するりと地面へ落ちた。
「ちょっと!」
メイは慌てて拾う。
「泥ついたじゃない!」
返事がない。
「ルーシー?」
妹はぼんやり立っていた。頬が、妙に赤かった。
メイは何となく嫌な感じがして、妹の額に手を当てた。
熱かった。
思わず手を離すほどに。
「ルーシー」
今度は妹の肩を掴んだ。
「いつから?」
「何が?」
「熱」
「分かんない」
「寒いって、いつから言ってた?」
「さっき」
「本当に?」
ルーシーは少し考えた。
「朝から、ちょっと」
メイの胸の奥で、何かが小さく沈んだ。
「母さん!」
気がつけば、大声で呼んでいた。
「母さん!」
宿の中から、椅子を倒す音がした。
*
ベル医師が来たのは、それから一時間ほど後だった。
玄関の扉が開く音に、メイは二階から駆け下りた。
「先生!」
「走るな。こっちまで転ぶ」
ジョナサン・ベルは、濡れた帽子を脱ぎながら言った。
三十代の終わりくらい。痩せた男だった。黒い外套の裾には泥が跳ね、革鞄の角は擦り切れている。
メイは昔から、この男が少し苦手だった。笑わない。子供相手にも声色を変えない。誰かが痛がっていても、必要なら平気で傷口を押す。
母は、『あの人は医者だから、優しい顔より正しい手を持ってりゃいい』と言う。メイには、それでももう少し愛想くらいあっていいと思えた。
「上?」
「二階です」
「吐いたか」
「まだ」
「咳は」
「少し」
「下痢」
「ないです」
「水は?」
「朝に少し。たぶん」
「たぶん?」
「私が見てない時に飲んでたかもしれなくて」
ベルは足を止めた。
「川の水を?」
「井戸です」
「煮た?」
「……たぶん」
ベルは何も言わなかった。その無言が、責められているように感じた。
「私、飲むなって言いました」
「責めてない」
「でも今」
「聞いただけだ」
そう言って、ベルは階段を上がった。
二階の一番奥。普段は客に使わせている部屋に、ルーシーは寝かされていた。
母エレンがベッド脇に座り、濡らした布を額に当てている。父パトリックは窓際に立ち、トーマスは壁にもたれ、腕を組んでいる。
全員が同じ部屋にいるのに、誰も喋っていなかった。
ベルは挨拶もそこそこに革鞄を開いた。ルーシーの瞼を持ち上げ、口を開けさせ、胸に耳を当てる。腹を押し、脈を取る。
「痛い?」
「少し」
「ここは」
「そこも」
「ここ」
「痛い」
「どれくらい」
「分かんない」
「我慢できる?」
「うん」
「できなくても、できるって言う年だな」
ベルはそう言って、ルーシーの手を布団の中へ戻した。
「先生」
母が言った。
「どうなんです」
ベルは答えず、もう一度脈を取った。メイには、その沈黙が長く感じられた。
「熱は高い」
「それは見れば分かる」
父が低い声で言った。
「パトリック」
母が制した。
ベルは気にした様子もない。
「腹の痛みもある。まだ断定はしないが、熱病の類だろう」
「治るんですか」
メイが聞いた。
「治る子もいる」
「治らない子も?」
誰もメイを見なかった。
それが答えだった。
「今夜がどうこうという話ではない。だが、このまま熱が続けば体力が持たない。水分を取らせろ。必ず煮た水だ。食べられるなら薄いスープ。身体を冷やしすぎるな」
「薬は?」
母が聞いた。
「ある」
ベルはそこで言葉を切った。
父が窓際から振り返る。
「いくらだ」
ベルは金額を言った。
部屋の空気が変わった。
メイには、数字の意味が分かった。宿屋の一日の売上。食料の仕入れ。馬の飼料。薪代。壊れた屋根。支払いを待ってもらっている酒屋。
全部が頭に浮かんだ。
「高すぎる」
「知ってる」
「子供一人に払える額じゃない」
「薬を作る側に言ってくれ」
「お前は医者だろ」
「だから薬の値段まで決められると?」
「パトリック!」
母の声が鋭くなる。父は黙った。
ルーシーが目を開けた。
「父さん?」
「何でもない」
さっきまで怒鳴っていた男が、急に小さな声になる。
「寝てろ」
ルーシーはまた目を閉じた。
ベルは鞄から小さな瓶を一本取り出した。
「これは置いていく」
「でも」
「いい」
「お金は」
「あとでいい」
父が顔を上げた。
「さっき金額を言っただろ」
「それは必要な治療を続けた場合の話だ」
「払えないなら?」
「できることをする」
「できること?」
父の声に棘が混じった。
「娘が死ぬのを見ながらか」
ベルの手が止まった。
メイは、初めてその男の顔に感情らしいものを見た。怒りではない。疲れだった。
「私は昨夜、五歳の子を診た。その家には、この瓶一本を買う金もなかった」
父は何も言わない。
「その前の日には、母親が自分の薬を子供に使ってくれと言った。使えない薬だった」
ベルは瓶を卓上に置いた。
「私は医者だ。魔法使いじゃない」
その言葉だけ残して、ルーシーへ視線を戻した。
「明日の朝また来る。それまでに熱が上がったら呼べ」
部屋を出ていくベルを、メイは追った。階段を下り、玄関まで行く。
「先生」
ベルは外套を着ながら振り返った。
「何だ」
「もし」
口にした瞬間、怖くなった。
「もし、お金があったら」
ベルは待った。
「助かるんですか」
「分からない」
即答だった。
メイは腹が立った。
「分からない?」
「ああ」
「じゃあ、何のために払うの」
「助かる可能性を上げるためだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
メイは拳を握った。
「そんなの……」
「納得できないか」
「できるわけない」
「私もだ」
ベルは帽子を被った。
「だから金を払えば助かるなんて、一度も言ってない」
扉が開く。冷たい風が入ってくる。
「ただ」
ベルは外へ出る前に言った。
「何もしなかったことは、あとで長く残る」
扉が閉じた。
メイはしばらく、その場から動けなかった。
*
その晩、食堂は早く閉めた。宿泊客には事情を話し、簡単な食事だけ出した。
家族四人は、誰も食べなかった。
ルーシーは二階で眠っている。時折、咳の音がする。
父は帳簿を開き、数字を書いては消す。母は台所の椅子に座り、両手を組んでいる。メイは壁にもたれていた。
トーマスだけが立っていた。
「いくら足りない?」
父は答えない。
「父さん」
「お前には関係ない」
「家族だろ」
「だからだ」
「意味分からないよ」
「お前の金は、お前のものだ」
メイは兄を見た。
トーマスは黙って上着の内側に手を入れた。朝に見せた、小さな革袋。それを卓上へ置く。
硬貨の音がした。
父が顔を上げた。
「しまえ」
「使って」
「しまえ」
「ルーシーに」
「聞こえなかったのか!」
父が拳を卓へ叩きつけた。皿が跳ねた。母が目を閉じる。
トーマスは動かなかった。
「これはお前が西へ行くために貯めた金だ」
「知ってる」
「何年かかった」
「三年」
「なら、なおさらだ」
「また貯める」
「簡単に言うな!」
「簡単じゃないよ!」
トーマスも声を上げた。
メイは息を呑んだ。兄が父に怒鳴るのを、ほとんど見たことがなかった。
「でも、また貯められる!」
トーマスは革袋を指差した。
「ルーシーは今なんだろ!」
父の口が動いた。言葉は出なかった。
「西は逃げない」
トーマスが言った。
「山も、草原も、金も、明日なくなるわけじゃない」
一度だけ、二階を見上げる。
「でもルーシーは、今しか助けられない」
静かになった。
メイは兄の横顔を見ていた。昼間、西へ行くと笑っていた顔。革袋を鳴らして、『あと少し』と言っていた顔。
それが今は、もうなかった。
母が立ち上がり、トーマスのところへ歩いていく。そして何も言わず抱きしめた。
「母さん」
「馬鹿な子」
「うん」
「本当に」
「うん」
父は下を向いたままだった。
やがて、大きな手が革袋へ伸びた。掴む。しばらく握ったまま離さない。
「……借りる」
父が言った。
トーマスは笑った。
「返さなくていいよ」
「借りる」
「分かった」
メイは、なぜか泣きそうになった。
まだ誰も死んでいない。妹も生きている。兄もここにいる。
それなのに、何かがもう、元には戻らないような気がした。
二階から、小さな咳が聞こえた。
トーマスが顔を上げる。
「まだ足りないよな」
父は答えなかった。
それも答えだった。
「なら」
兄はメイを見た。
「稼ぐぞ」
「私も?」
「当然」
「何で当然なのよ」
「家族だろ」
今度はメイが黙る番だった。
トーマスが笑った。
「俺は河岸で働く」
「私、荷物なんか運べないけど」
「誰もお前に樽運べなんて言ってない」
「じゃあ何するの」
トーマスは少し考えた。
「それは自分で探せ」
「そこまで考えてから格好つけてよ」
母が小さく笑った。父も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その夜、メイはまだ知らなかった。
兄と一緒に稼ぐことになる、ほんの短い日々が、自分にとって生涯忘れることのできない時間になることを。
*
翌朝、メイはマーサ・グリムズを探しに河岸へ出た。
朝靄の向こうで、ミシシッピは鈍い光を返していた。船着場には、すでに何隻もの蒸気船が停まっている。煙突から黒煙が上がり、荷車の車輪が泥を跳ね、男たちの怒鳴り声がそこら中から聞こえた。
「道開けろ!」
「そっちじゃねえ!」
「樽は倉庫だ!」
「誰だ、この箱割ったの!」
セントルイスの朝は、宿屋よりずっと乱暴だった。
メイはスカートの裾を持ち上げ、泥を避けながら歩いた。
いや、避けたつもりだった。
三歩目で諦めた。
「最悪」
「まだ朝だよ」
横から声がした。アビーだった。
「なんでいるの」
「見送り」
「誰の?」
「あなたの」
「死ぬみたいに言わないで」
アビーは小さな籠を差し出した。
「パン」
「いらない」
「朝食べてないでしょ」
「何で分かるの」
「顔」
「どんな顔よ」
「お腹空いてる顔」
メイは籠から一つ取った。
「ありがとう」
「素直」
「返すよ」
「嘘。食べて」
メイはパンを齧った。少し硬かった。でも温かかった。
「本当に働くの?」
「働く」
「宿も?」
「もちろん」
「倒れるよ」
「倒れてる暇ない」
「そういう人が倒れるんだけど」
メイは何も言わなかった。アビーもそれ以上は言わなかった。
代わりに、
「マーサなら、向こう」
と指を差した。
河岸から少し離れた場所。大きな釜が三つ並び、その周りに女たちが集まっている。洗濯物の山。湯気。石鹸。灰汁。
その中心で、一人の女が腕まくりをしていた。
「マーサ!」
メイが呼ぶ。
女は振り向かなかった。
「マーサ・グリムズ!」
「耳は聞こえてるよ!」
ようやく顔を上げた。
四十代半ば。背が高く、腕が太い。頭には布を巻き、袖を肘まで捲っている。
「朝から大声出すんじゃないよ」
「マーサも出してるじゃない」
「私は仕事してるからいいんだ」
「私も仕事したい」
マーサの手が止まった。メイを上から下まで見る。
「宿は?」
「やる」
「その上で?」
「うん」
「馬鹿だね」
「昨日も言われた」
「誰に」
「兄さん」
「なら兄さんが正しい」
「でも働かせて」
マーサは洗濯板へ目を戻した。
「駄目」
「お願い」
「駄目」
「何で」
「遅いから」
「やってみなきゃ分からない」
「見れば分かる」
「失礼ね」
「手」
言われて、メイは自分の手を見た。宿の仕事で荒れてはいる。けれどマーサの手とは違った。指の関節は太く、爪の間には石鹸と灰が入り込んでいる。
「その手で一日百枚洗える?」
「百枚?」
「船一隻入ったら、それくらい来る」
「……やる」
「だから馬鹿だって言ってる」
メイは一歩近づいた。
「妹が病気なの」
マーサが手を止めた。
「医者に薬がいるって言われた」
「金か」
「うん」
「いくら」
メイは答えた。
マーサの眉がわずかに動いた。
「足りない分は?」
「兄さんも働く」
「どこで」
「サイラスのところ」
マーサは小さく舌打ちした。
「よりによって」
「何?」
「何でもない」
少し考えてから、顎で洗濯物の山を指した。
「そこ」
「え?」
「ぼさっとしない」
「やっていいの?」
「一日だけ」
メイの顔が明るくなった。
「ありがとう!」
「まだ礼言うな」
マーサは濡れたシャツを放った。メイの顔に張り付く。
「働いてから言いな」
*
三時間後。
メイは死んでいた。
「腰が」
「知らない」
「腕取れそう」
「取れてから言いな」
「指が痛い」
「まだ付いてる」
「マーサって人の心ないの?」
「洗濯場に持ってきてないね」
メイは洗濯板に額をつけた。水が冷たい。石鹸が傷に染みる。こすっても、こすっても汚れが落ちない。
「これ何の染み?」
「血」
メイは手を止めた。
「……誰の?」
「知らないよ」
「でも」
「知ってどうする」
マーサは隣で別のシャツを洗っている。
「怪我した人かもしれない」
「そうかもね」
「死んだ人かも」
「そうかもね」
「気にならないの?」
マーサは初めてメイを見た。
「服は、汚れた理由を喋らないよ」
「だからって」
「だから、勝手に決めない」
メイは黙った。
マーサはまた手を動かした。
「酒こぼしただけかもしれない。喧嘩したのかもしれない。誰かを助けた血かもしれない。誰かを殴った血かもしれない」
赤黒い染みが、水の中へ薄く広がっていく。
「洗う側が物語まで作ってどうする」
「……でも、考えちゃう」
「なら考えな」
「どっちよ」
「考えるのと、決めつけるのは違う」
マーサは言った。
「人間なんて、見た目ほど分かりやすくないよ」
メイは返事をしなかった。ただ、もう一度シャツをこすった。
染みは少しずつ薄くなっていった。
*
夕方、宿へ戻る途中で、メイは河岸にトーマスを見つけた。樽を担いでいた。
「兄さん!」
トーマスが振り向く。顔中汗だらけだった。
「おう」
「死にそう」
「お前もな」
メイは自分の腕を見せた。赤く腫れている。
「見て」
「何それ」
「働いた証」
「俺の方がすごい」
トーマスは掌を見せた。皮が剥け、血が滲んでいる。
「馬鹿」
「そっちも」
「私は馬鹿じゃない」
「同じ顔してる」
二人で笑った。
「今日いくら?」
トーマスが聞いた。メイは稼いだ額を言った。
「少な」
「初日だから!」
「俺の勝ち」
「何それ」
「競争」
「妹の薬代で競争しないでよ」
「負けそうだから?」
「明日は倍稼ぐ」
「乗った」
「乗らない!」
そう言いながら、メイは笑っていた。トーマスも笑った。
疲れていた。泥だらけだった。手も痛かった。
でもその時だけは、二人とも妹が助かるような気がしていた。
*
それから数日。
メイは朝、宿で働いた。昼からマーサのところで洗い、夜はまた宿へ戻った。
トーマスは河岸へ出た。帰ってくるたび、少しずつ傷が増えた。
「やめたら?」
「お前が先に」
「私は平気」
「俺も」
似た者同士だった。
ベル医師は毎朝ルーシーを診た。熱は下がらない。けれど悪くもならない。
「それって良いの?」
「悪くない」
「良くもない?」
「そうだ」
相変わらず、嫌な言い方をする男だった。それでもベルは毎日来た。代金を受け取らない日もあった。
父は何も言わなかった。
ある夜、マーサが大きな籠をメイの前に置いた。
「追加」
「今から?」
「明日の朝まで」
中にはシーツとシャツが山ほど詰まっている。
「多すぎない?」
「蒸気船が夜に入った」
「無理」
「なら断る」
「いくら?」
マーサが金額を言った。
メイの顔が変わった。
それだけあれば。
あと少しで。
「やる」
「言うと思った」
「マーサも手伝って」
「私は別口がある」
「裏切り者」
「仕事だよ」
メイは籠を抱えた。重かった。
「夜中になるよ」
「分かってる」
「無理するな」
メイは足を止めた。
「今さら?」
「無理するなとは言ってない」
「今言った」
「死ぬほど無理するなって意味だ」
メイは少し笑った。
「分かった」
そして、その夜。
宿の裏庭で、メイは一人洗い続けた。
月は雲に隠れていた。釜の火が揺れる。指先はもう感覚がない。
あと十枚。あと八枚。あと六枚。
水桶へ手を伸ばす。
空だった。
「嘘」
もう一つ。空。
井戸へ行く。縄を落とす。桶を引き上げる。
底に濁った水が、ほんの少し。
これでは足りない。
明日の朝までに終わらなければ、金はもらえない。
メイは洗濯物の山を見た。それから二階の窓を見る。そこではルーシーが眠っている。
裏口の脇に、一本の古い杖が立て掛けてあった。母が嫁入りの時に持ってきたもので、そのまた母から譲られたものだという。黒ずんだ柄には、七つの丸い窪みが並んでいる。どれも空だった。
普段なら気にも留めない古道具だったが、夜の河岸は足場が悪い。転んで水までぶちまけたら、それこそ笑えない。
メイは桶を持ち、もう片方の手で杖を掴んだ。
そして、一人で河へ向かった。
*
夜のミシシッピは、昼よりずっと大きく見えた。川面は黒く、対岸の灯りが細く揺れている。
メイは岸辺に膝をついた。
「ちょっとだけだから」
誰に言うでもなく呟いた。
桶を水へ沈める。
引き上げる。
軽い。
中を覗く。
空だった。
「……は?」
もう一度。確かに、水の中へ沈める。
引き上げる。
空。
「何よ、これ」
三度目。四度目。
同じだった。
目の前には、あれほど大きな川が流れている。
なのに、メイの桶には一滴も入らない。
風が止んだ。
川の音まで、消えたような気がした。
その時だった。
「なぜ」
声がした。
メイは顔を上げる。
誰もいない。
「なぜ、水を欲しがる?」
今度は、はっきり聞こえた。
声は――川の中からしていた。
*
メイは立ち上がった。桶を胸の前に抱えたまま、暗い川面を睨む。
月はなかった。空には星さえほとんど見えず、川岸の葦も、遠くの木々も、黒い切り絵のように沈んでいる。湿った夜気が肌にまとわりつき、濡れた土の匂いと、腐りかけた葉の甘い臭いが鼻の奥に残った。
桶の縁が、冷えた指に食い込んでいる。洗濯でふやけた手のひらは赤く、爪の間には灰色の泥が入り込んでいた。腕は重く、肩は痛い。それでも、桶を置く気にはなれなかった。
置いてしまえば、今夜の仕事が終わる。けれど、終わったところで待っているのは、熱の下がらない妹と、明日の朝まで消えない不安だけだった。
川の水が、暗闇の中で淡く光っていた。
青い。
月明かりを映しているわけではない。水そのものが、底の見えない場所からぼんやりと発光している。流れに沿って細い青白い筋が伸び、波が崩れるたび、濡れた絹のような光がほどけては消えた。その光が、メイの頬と桶の縁を冷たく照らしている。
「誰?」
返事はなかった。水だけが、何食わぬ顔で流れている。
さらさらという音ではない。もっと低く、重い音だった。川底のどこかで巨大なものが寝返りを打ち、その身体に触れた水が、ゆっくりと岸へ押し寄せているような音。
「誰かいるの?」
「いるよ」
今度は、すぐ足元から聞こえた。
メイは反射的に一歩下がった。靴底が泥に沈み、冷たい水が足首まで染み込んでくる。濡れた布が肌に張りつき、背中を細い指で撫でられたような悪寒が走った。
水面に、自分の顔が映っている。
月のない夜だった。本来なら、顔など見えるはずがない。
それなのに、水の中には確かにメイがいた。
赤褐色の髪。疲れた顔。泥のついた頬。
ただし、目だけが違った。
水面の中のメイは、青い瞳をしていた。
その青は、川の光よりも濃かった。深い水底に沈んだ夜空のようで、見つめていると、自分の顔が少しずつ水の中へ引きずり込まれていく気がする。
「……何よ、それ」
「メイ」
「私の名前を知ってるの?」
「さっきから呼んでたよ」
「呼んでないわよ」
「呼んでた。心の中で」
水面のメイが、にやりと笑った。その笑い方があまりにも子供っぽくて、メイは眉をひそめる。
だが、水面の顔は笑っているのに、波紋一つ立っていなかった。
「あなた、誰なの?」
「メルク」
「人間?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
「水」
「水が喋るわけないでしょ」
「喋ってるじゃない」
メルクは楽しそうに言った。
水面の顔が、ぐにゃりと崩れる。赤褐色の髪が青い流れにほどけ、頬が波に溶け、目だけが水の中に取り残された。
次の瞬間、川面から小さな女の子が顔を出した。
肩までの髪も、白い肌も、薄い寝間着のような服も、すべて水でできている。けれど、その青い瞳だけははっきりしていた。
メルクは川岸に頬杖をつき、じっとメイを見上げている。その腕の下で、水が生き物のようにゆっくりと膨らみ、指の形を作っては崩していた。
「ずっと見てたの」
「何を」
「メイ」
「私を?」
「うん。毎晩、あの家で洗濯してる」
「……覗き見?」
「覗いてないよ。水だから、見えるの」
「川から?」
「水があるところなら」
「それを覗き見って言うのよ」
メルクはくすくす笑った。
その笑い声は、耳元ではなく、川の中から聞こえた。水面の下、足元の泥の中、桶の底。どこからともなく響き、メイの胸の内側まで細かく震わせる。
だが、笑い声はすぐに途切れた。
小さな顔が、ふいに歪む。
ぽろり、と青い雫が頬を伝った。
「ちょっと、泣いてるの?」
「泣いてない」
「泣いてるじゃない」
「これは水」
「あなた、水でしょうが」
「だから泣いてないの」
言い張りながら、メルクの目から次々と雫がこぼれた。雫は川面に落ち、小さな波紋になる。そのたびに青い光が輪になって広がり、メイの足元まで忍び寄ってきた。
「何が悲しいのよ」
「分からない」
「分からないのに泣くの?」
「メイも、分からないのに泣くでしょ」
メイは黙った。
ルーシーの熱い額が脳裏に浮かぶ。今夜も、妹は二階で苦しそうに眠っている。薬を買う金は足りない。だから、少しでも多く働かなければならない。
それは分かっている。分かっているのに、胸の奥には別の感情が沈んでいた。
もし、明日の朝になっても熱が下がらなかったら。もし、薬を買う前にルーシーの呼吸が止まったら。
考えてはいけないと思うほど、その想像は鮮明になった。小さな身体が冷たくなり、いつもの声で自分を呼ばなくなる。その未来を追い払うために、メイは毎晩、手が裂けるまで働いていた。
桶の取っ手が、さらに指へ食い込んだ。冷たいはずなのに、手のひらだけが焼けるように熱い。
「……あなた、何がしたいの?」
「メイを見てたら、悲しくなったの」
「私を見て?」
「うん」
「どうして」
「ずっと同じことをしてるから」
メルクは、メイの桶を指差した。
「夜になると、あの家で服を洗って、手を真っ赤にして、それでもやめない」
「仕事よ」
「楽しい?」
「楽しいわけないでしょ」
「じゃあ、どうしてするの?」
「お金がいるから」
「お金があれば、楽しい?」
「そういう話じゃないの」
「じゃあ、どういう話?」
メルクは首を傾げた。その仕草が妙に幼くて、メイは怒る気を少し失った。
けれど、青く光る水の身体は、子供の形をしているだけだった。水面の下には、どれほど深いものが潜んでいるのか分からない。メイは無意識に、桶を抱く腕へ力を込めた。
「妹が病気なの」
「ルーシー?」
「名前まで知ってるのね」
「メイが何度も呼んでたから」
「……そう」
「ルーシーは死ぬの?」
メイの手が止まった。
いつの間にか、空だったはずの桶の底に薄く水が溜まっていた。青い光がその水面を走り、メイの指先を淡く照らした。
「分からない」
「死ぬかもしれない?」
「分からないって言ってるでしょ」
「でも、怖い?」
「怖いわよ」
「どうして?」
「妹だから」
「妹だと、怖いの?」
「そうよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
メイは桶の取っ手を握りしめた。濡れた木が、洗濯で裂けかけた掌に食い込んだ。
「大切だから」
「大切って何?」
「知らないわよ」
「メイも知らないの?」
「知らないけど、分かるの」
「分かるのに、知らないの?」
「そうよ!」
メイは苛立って声を荒げた。
「人間はそういうものなの!」
メルクは目を丸くした。
「人間?」
「そう。私たちは人間なの」
「人間って、分からないのに分かるの?」
「……たぶん」
「変なの」
「あなたに言われたくないわよ」
メルクはまた笑った。けれど、すぐに小さな手で目をこすった。
「メルク、泣いてるの?」
「泣いてない」
「だから泣いてるって」
「メイが変だから」
「私のせい?」
「うん」
「なんでよ」
「メイが、ずっと頑張ってるから」
その言葉に、メイは何も返せなかった。
頑張っている。
そう言われると、胸の奥に隠していたものを見つけられた気がした。
誰かに褒められたいわけではない。感謝されたいわけでもない。ただ、ルーシーを死なせたくない。そのためなら、手が裂けても、眠れなくても、嫌な客に頭を下げても構わないと思っていた。
けれど本当は、構わなくなどなかった。
痛かったし、疲れていた。怖かった。逃げ出したい夜もあった。それでも、弱音を吐けば何かが壊れる気がして、メイはずっと黙っていた。
川の中のこの奇妙な存在に、たった一言そう言われただけで、張りつめていた糸がわずかに緩んだ。
「……水を汲ませて。洗濯しないといけないの」
「うん」
「ルーシーの薬を買うために」
「うん」
「だから、邪魔しないで」
「邪魔してないよ」
「話しかけてるじゃない」
「だって、メイのことを知りたいんだもん」
「知ってどうするのよ」
「人間を知りたいの」
「人間を?」
「うん」
メルクは川岸に顎を乗せた。
「川には魚もいるし、鳥も来るし、鹿も水を飲みに来る。でも、人間は変なの」
「悪かったわね」
「怒ったり、笑ったり、泣いたりする。嫌いな人のためにも働くし、死にそうな人のために眠らない」
「……」
「どうして?」
「だから、妹だからよ」
「それが分からないの」
「分からなくてもいいの」
「よくないよ」
メルクは、今度は泣きながら笑った。
「分からないから、知りたいの」
メイはメルクを見つめた。小さな女の子。水でできた身体。泣いているのに、どこか楽しそうな顔。
その輪郭は青い光の中で揺らぎ、時折、顔の奥に川底の暗闇が透けて見えた。怖いはずなのに、不思議と逃げる気にはなれなかった。
メルクの問いは、幼くて、しつこくて、ひどく無遠慮だった。けれど、メイが自分自身に問いかけることを避けてきたものでもあった。
なぜ働くのか。なぜ眠らないのか。なぜ、そこまでしてルーシーを守ろうとするのか。
答えは一つではない。
妹だから、という言葉だけでは足りなかった。愛しているから。怖いから。自分だけが助かることを許せないから。もし手を離したら、二度と取り戻せない気がするから。
そんな感情を、メイは誰にも話したことがなかった。
「……私を見て、何が知りたいの?」
「人間って何か」
「そんなの、私に聞かれても困るわよ」
「でも、メイは人間でしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、教えて」
「どうやって?」
「一緒にいるの」
「一緒に?」
「メイがすることを見せて。メイが思うことを教えて。メイが泣いたら、どうして泣いたか教えて」
「ずいぶん勝手ね」
「水だから」
「水なら何でも許されると思わないで」
「じゃあ、お願い」
メルクは両手を合わせた。
「メイ。人間を教えて」
メイはため息をついた。
「私にそんなことを教える余裕なんてないの」
「ルーシーを助けたいんでしょ?」
メイの顔から血の気が引いた。
「……何を知ってるの」
「ルーシーの熱」
メルクは、川面に指先をつけた。
その瞬間、川の水が淡く青く光った。川底から無数の青い線が浮かび上がり、流れに逆らってメルクの指先へ集まってくる。水面が静かになり、川全体が息を潜めたようだった。
「下げられるよ」
「何を?」
「ルーシーの熱」
メイは息を呑んだ。
「嘘」
「嘘じゃない」
「本当に?」
「うん。水は、熱を持っていけるから」
「薬の代わりになるの?」
「薬は知らない。でも、熱なら下げられる」
メルクは少し得意そうに胸を張った。
「メルク、すごいでしょ」
「……本当にできるなら」
「できるよ」
「何をすればいいの?」
「教えて」
「何を」
「人間を」
メルクは、泣き腫らした目でメイを見上げた。
「メイが人間を教えてくれたら、ルーシーの熱を下げる」
「それだけ?」
「それだけじゃないよ」
「何よ」
「メイが人間を教えてくれる間、メルクはメイの水になるの」
「私の水?」
「洗濯の水。飲み水。冷やす水。必要なら、雨も降らせる」
「そんなことまで?」
「できるよ。メルクは水だから」
メルクはいたずらっぽく笑った。
「でも、メイがちゃんと教えてくれなかったら、すぐ返してもらうからね」
「返すって、何を?」
「ルーシーの熱」
「あなた……」
「冗談」
メルクは舌を出した。
「……冗談じゃないかもしれないけど」
「怖がらせないでよ」
「ごめん」
メルクは素直に謝った。
この存在は、恐ろしい力を持っているのかもしれない。けれど、嘘をついているようには見えなかった。
信じていいのかは分からない。
分からないままでも、信じるしかない。
ルーシーの熱を下げる方法が、ほかにないのだから。
「契約ってこと?」
「うん」
「私が人間を教える。その代わり、あなたがルーシーの熱を下げる」
「そう」
「どうやって教えるのよ」
「毎日、話して」
「毎日?」
「うん。メイが洗濯してる間」
「洗濯しながら?」
「洗濯しながら」
「私、忙しいのよ」
「知ってる」
「話す余裕なんてないわ」
「じゃあ、歌って」
「歌?」
「人間は歌うんでしょ?」
「誰に聞いたのよ」
「メイが昨日、泣きながら歌ってた」
メイは顔を赤くした。
「聞いてたの?」
「うん。音痴だった」
「余計なこと言わないで!」
メルクは声を上げて笑った。
「でも、きれいだったよ」
「どっちなのよ」
「分からない」
「あなたも分からないじゃない」
「だから、教えてほしいの」
メイはしばらく黙っていた。
ルーシーの熱。それを下げられるなら。薬を買うまでの時間を稼げるなら。
何でもする。
それは、いつもの決意と同じだった。ただ今夜は、その決意を聞いている相手がいる。
誰かに見られていることが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
同時に、ほんの少しだけ心強かった。
「……分かった」
「本当?」
「契約する」
メルクの顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
小さな身体が水面から跳ね上がる。水しぶきがメイの頬にかかった。
冷たい。
冷たいはずなのに、その一滴だけは、かすかな熱を持っていた。生き物の体温のようだった。
「ちょっと!」
「ごめんごめん。嬉しくて」
「濡れたじゃない」
「水だから、乾くよ」
「そういう問題じゃないの!」
メルクは楽しそうに笑いながら、メイの周りをくるくる回った。
「名前を教えて」
「もう知ってるでしょう」
「ちゃんと聞きたいの」
メイはためらった。
「ステラ・メイ・ホロウェイ」
「長い」
「正式な名前よ」
「メイでいい?」
「みんなそう呼ぶから」
「じゃあ、メイ」
メルクが名前を呼ぶ。
その声は、川のせせらぎに混じっていた。けれど、せせらぎだけではなかった。遠い川上から、何人もの声が同じ名前を呼んだように聞こえた。
メイ。メイ。メイ。
「メイは、人間を教えてくれる?」
「教えられる範囲でね」
「約束?」
「約束」
「契約?」
「契約」
メルクは小指を差し出した。水でできた小さな指が、月のない夜に淡く光る。
「指切りしよう」
「子供じゃないんだから」
「メルクは子供だよ」
「水の妖精でしょうが」
「子供の水の妖精」
メイは呆れながらも、小指を差し出した。
触れた瞬間、冷たい水が指先から腕へ流れ込んだ。
今度は、苦しくなかった。
水は血管の中を進むように肘へ、肩へ、胸の奥へ広がった。心臓の鼓動に合わせて、青い光が一度、二度、脈打つ。
「契約成立!」
メルクが叫んだ。
「まずはルーシーのところへ行くよ」
「今から?」
「今すぐ」
「どうやって?」
「水はどこにでも行けるの」
メルクは得意そうに胸を張った。
「でも、メイが案内して」
「私が?」
「うん。人間の家を知らないから」
「あなた、ずっと見てたんでしょう」
「見てたけど、入ったことはないもん」
「勝手に入らないでよ」
「契約したから、もう勝手じゃないよ」
「そういう問題じゃない!」
メルクはまた笑った。
水が岸へ這い上がり、メイの足元で細い腕のように分かれた。桶の中の水も、ひとりでに揺れる。青い光が桶の内側を満たし、底の見えない小さな川がそこに生まれたように見えた。
メイはそれを見つめた。
冷たい夜の川。病気の妹。足りない薬。そして、泣きながら笑う小さな水の妖精。
これまでのメイには、選ぶ余地などなかった。働くか、働かないか。薬を買うか、買えないか。ルーシーを守るか、守れないか。
けれど今、目の前にいる存在は、初めて別の道を差し出している。
それが救いなのか、罠なのか、メイには判断できなかった。
「……本当に、ルーシーを助けられるのね?」
メルクは、今度はふざけなかった。
「うん」
「絶対?」
「絶対」
「嘘だったら許さないから」
「嘘じゃないよ」
メルクは小さな手を胸に当てた。
「メルクは、メイを泣かせたくないの」
その言葉に、メイの胸が詰まった。
泣かせたくない。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
このところ、家族の目はみんなルーシーに向いていた。当たり前だった。病気なのはルーシーなのだから。
父も、母も、トーマスも、ベル先生も、みんなルーシーを心配している。メイだってそうだ。だから、自分のことを心配してほしいなんて、一度も思わなかった。
働ける。歩ける。食べられる。なら、自分は大丈夫だ。
メイ自身も、そう思い込もうとしていた。自分が泣く暇などない。自分が弱るわけにはいかない。自分のことを心配するのは、贅沢だ。
けれど、目の前の水の子供は、そんな事情を何も知らないまま、ただメイを泣かせたくないと言った。
その無邪気さが、かえって痛かった。
「……私、泣いてないわよ」
「泣いてるよ」
「泣いてない」
「じゃあ、どうして目が赤いの?」
「寒いの!」
「ふうん」
メルクは、いたずらっぽく笑った。
「人間って、泣いてても嘘をつくんだね」
「覚えなくていいことを覚えないで!」
メイの怒鳴り声が、夜のミシシッピに響いた。
メルクは楽しそうに笑いながら、桶の中へ飛び込んだ。
水が、淡い青色に光る。
桶の中で水が一度だけ大きく渦を巻き、メルクの姿がその中心へ沈んだ。消えたはずなのに、青い瞳だけが水面の下からメイを見上げている。
「さあ、メイ。帰ろう」
「あなた、桶に入るの?」
「だって、メイの水になるんでしょ?」
「……本当に、変な子ね」
「メイもね」
メイは杖を脇に挟み、桶を抱え直した。
その中の水は、いつもより少しだけ温かかった。けれど、底の方からは、指先を引くような冷たい流れが続いている。
メイは川を振り返った。
月のない川辺に、青い光だけが残っている。その光は、彼女が歩き出しても消えなかった。川面の上を細く伸び、家へ向かうメイの背中を、どこまでも追いかけてきた。
メイはまだ、メルクを信じてはいなかった。
信じるということは、裏切られる可能性を受け入れることだ。そんな余裕は、今の彼女にはない。
それでも、桶の中の青い光を見ていると、ほんの少しだけ足取りが軽くなった。
もし本当にルーシーを助けられるなら。
もしこの夜が、これまでと違う夜になるなら。
怖さは消えなかった。不安も、疑いも、胸の奥に残っている。
けれど、その隣に、かすかな期待が生まれていた。
そしてその夜から。
ステラ・メイ・ホロウェイは、一人ではなくなった。




