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ミナソコ 序

ミナソコ 序


ミナソコ 序


老婆のそばには、いつも一本の杖があった。


 黒ずんだ木でできた、何の変哲もない古いステッキだった。持ち手だけは長年握られたせいで鈍い艶を帯び、先端の金具には細かな傷が無数に走っている。


 ただ一つ、奇妙なところがあった。杖の柄から少し下がったところに、七つの丸い窪みが並んでいた。そのうち六つには石が嵌まっている。


 白く乾いた石。鈍く金色に光る石。煤のような赤黒い石。深い緑の石。土の塊にも見える褐色の石。そして、夜明け前の空のように淡く輝く石。


 最後の一つだけが、空いていた。


「おばあちゃん」


 暖炉の前に座っていた男の子が、それを指差した。


「そこだけ、石がないよ」


 老婆は安楽椅子に身体を預けたまま、膝の上の杖を見た。


「そうね」

「なくしたの?」

「いいえ」

「じゃあ、割れちゃった?」

「それも違うわ」

「じゃあ、なんで?」


 老婆は少しだけ笑った。


 窓の外では雪が降っていた。暖炉の薪が弾け、部屋いっぱいに橙色の光が揺れた。


 子供たちは四人いた。さっき問いかけた男の子。床に腹這いになっている子。毛布にくるまっている子。老婆の椅子のすぐ脇に座り、石を覗き込んでいる女の子。誰もが答えを待っている。


 老婆は空いた窪みを親指で撫でた。


「まだ、来ていないのよ」

「何が?」

「最後の石」

「いつ来るの?」

「さあねえ」


 老婆は目を細めた。


「ずいぶん長いこと待っているんだけど」


 女の子が杖へ手を伸ばした。


「触っていい?」

「駄目」


 老婆の声は静かだったが、女の子はすぐに手を引っ込めた。


「どうして?」

「これはね」


 老婆は杖を持ち上げた。


「もう一人の私」


 子供たちが顔を見合わせた。


「もう一人のおばあちゃん?」

「そう」

「そんなの嘘だ」

「おばあちゃんのお話なんだから、少しくらい嘘が混じっていた方が面白いでしょう?」


 老婆はそう言って笑った。


 青い瞳だった。老人のものとは思えない、不思議なほど澄んだ青だった。


「じゃあ、話して」


 誰かが言った。


「最初の石の話」


 老婆は、しばらく何も言わなかった。六つの石の一番上、白く、表面に細かな亀裂の走った石に指を置いた。


「これはね――」


 暖炉が弾けた。


「水の石よ」

「水? 白いのに?」

「そうね。私も最初は、そう思ったわ」

「海の石?」

「いいえ」

「川?」


 老婆は窓の向こうを見た。降り続ける雪のさらに向こうに、もう誰にも見えない景色を探すように。


「大きな川だった」


 そして、ゆっくり目を閉じた。


「とても、とても大きな川」


     *


 精歴一八五三年、春。


 ミシシッピ川は、今日も茶色かった。


「だから飲むなって言ってるでしょ!」


 ステラ・メイ・ホロウェイは、妹の手から柄杓をひったくった。


「一口だけ!」

「一口でも駄目!」

「父さん昨日飲んでたよ」

「父さんのお腹とあんたのお腹を一緒にしないの」

「同じ家族なのに?」

「そういう意味じゃない!」


 九歳のルーシーは頬を膨らませた。井戸水を汲んだ大桶の横で、メイは腰に手を当てる。


「ちゃんと煮たのを飲みなさい」

「冷たいのがいい」

「だったら我慢しなさい」

「メイ姉ちゃんの意地悪」

「はいはい」


 洗濯籠を持ち上げると、後ろから笑い声がした。


「お前、母さんに似てきたな」


 振り返ると、兄のトーマスが馬小屋の柵にもたれていた。


「嫌なこと言わないで」

「褒めたんだよ」

「母さんに聞かせてあげようか?」

「やめろ」


 トーマスは真顔になった。それを見てルーシーが笑う。


 ホロウェイ家の朝は、だいたいいつもこんなものだった。


 河岸通りから一本入った泥道沿いに、ホロウェイ・ボーディングハウスは建っている。二階建ての小さな宿屋だ。一階には食堂と共同室、それから家族の居間。二階には六つの客室。裏手には馬小屋と荷馬車置き場。


 決して上等な宿ではない。雨が降れば屋根の二箇所から水が漏れるし、冬になれば二階の一番奥の部屋には隙間風が吹く。


 それでも母エレンは、『ベッドと飯だけは、金持ちの宿に負けるな』と言っていた。だからシーツは毎日洗った。床も磨いた。食事には、少なくとも温かいスープを一品つけた。


 西へ向かう人間たちが、一晩だけ眠る家だった。


「メイ!」


 玄関から母の声が飛んできた。


「三号室のシーツは!」

「今やってる!」

「昨日も聞いた!」

「昨日からやってる!」

「口動かす暇があったら手を動かしな!」


 メイは顔をしかめた。トーマスがまた笑う。


「そっくりだ」

「うるさい」

「そのうち宿を継ぐの、お前なんじゃないか?」

「冗談じゃないわよ」


 言ってから、メイは洗濯籠を抱え直した。


「じゃあ兄さんが継げば?」

「俺?」


 トーマスは自分の胸を指差した。


「俺は西へ行く」


 またその話だ。メイは呆れた顔をした。


「はいはい」

「信じてないな?」

「あと何年それ言うつもり?」

「もうすぐだ」

「去年も聞いた」

「今年は本当だ」


 トーマスは上着の内側から、小さな革袋を取り出した。ちゃり、と硬貨の音がする。彼が何年も貯めている金だった。


「あと少し」


 そう言った兄の顔だけは、冗談を言うときとは違った。メイはその顔が嫌いではなかった。


 宿に泊まる旅人たちは、皆、西の話をした。地平線まで続く草原。黄金の眠る山。誰のものでもない土地。馬で何日走っても辿り着かない場所。


 父はそんな話を聞くたび、『馬鹿の夢だ』と言った。


 けれどメイは知っている。父だって昔、海を渡ってここへ来た。だからトーマスが西を見ている時、父は決まって目を逸らすのだ。


「メイは?」

「何が?」

「西へ行ってみたいと思わないのか?」

「別に」


 即答した。


「一度も?」

「ない」

「嘘つけ」

「嘘じゃない」


 メイは洗濯籠を持って歩き出した。背中から兄の声が追いかけてくる。


「昨日、旅人の地図ずっと見てただろ!」

「宿の備品に落書きされてないか確認してただけ!」

「二時間も?」

「暇だったの!」


 トーマスが笑った。メイは振り返らなかった。


 行きたいと思ったことがない。それは本当だ。少なくとも、メイはそう思っていた。


 知らない土地の話を聞くのは好きだった。知らない町の名前も、知らない川も。夜、誰もいなくなった食堂で、客が置いていった新聞や地図を読むのも好きだった。


 けれど、自分がそこへ行く姿だけは想像したことがない。


 ホロウェイ宿には、毎日たくさんの人間がやって来る。そして翌朝には、いなくなる。


 メイはずっと、見送る側だった。


 この朝も、そうなるはずだった。


 少なくとも――そのときの彼女は、そう思っていた。


     *


 昼前になると、ホロウェイ宿の食堂は急に騒がしくなった。


 焼いたパンの匂いと、玉ねぎを煮込んだスープの匂い。それに濡れた上着と馬の汗と、泥の匂い。


 メイは盆を両手に抱えたまま、客の間を縫うように歩いていた。


「スープ二つ、豆煮込み一つ!」

「パンが足りないよ!」

「今持ってく!」

「メイ、三番卓の男、また酒頼んでる!」

「昼から?」

「昨日からよ!」


 厨房から顔だけ出して、母エレンが怒鳴った。


「だったら水飲ませときな!」

「それ言ったら殴られるの私なんだけど!」

「避けな!」

「親の言うことじゃない!」


 食堂の隅で笑い声が上がった。いつものことだった。


 ホロウェイ宿には、上品な客はあまり来ない。荷運び人。行商人。河を下る船乗り。西へ向かう家族。仕事を探して町へ来た男。仕事に失敗して町を出る男。


 大抵は一晩か二晩泊まり、名前も残さず消えていく。だからメイは、客の名前より顔で覚えていた。髭の長い男。左手の指が一本ない男。食事の前に必ず祈る女。靴を脱がずにベッドへ上がる最低な男。


「メイ」


 背後から呼ばれた。振り向くと、食堂の入口にアビゲイル・ウォーカーが立っていた。淡い青のワンピースに、小さな包みを抱えている。


「アビー」

「忙しそう」

「見れば分かるでしょ」

「じゃあ帰ろうかな」

「待って待って待って」


 メイは盆を近くの卓へ置いた。


「何?」

「昨日頼まれてたの」


 アビーは包みを開いた。中から出てきたのは、小さな布の袋だった。生成りの生地に、赤い糸で不器用な星が縫ってある。


「何これ」

「薬入れ」

「薬なんて持ってないけど」

「旅に出る時に使うの」


 メイは眉をひそめた。


「誰が?」

「あなた」

「出ないって言ってるでしょ」

「でも地図好きじゃない」

「見るだけ」

「それを旅に出たいって言うの」

「言わない」


 アビーは笑った。


 彼女はメイと同い年だった。近所の仕立屋の娘で、幼い頃から顔を合わせている。アビーの父親は、娘にはなるべく泥仕事をさせない主義らしく、アビーの手はいつ見ても綺麗だった。メイはときどき、その手が羨ましかった。


「そういえば」


 アビーが声を潜めた。


「西通りのヘンダーソンさんとこの娘、婚約したって」

「へえ」

「それだけ?」

「それ以外に何て言えばいいの」

「十九よ?」

「知ってる」

「十九で結婚よ?」

「だから?」

「私たちもあと二年よ」

「何が?」

「十九になるまで」

「それは知ってる」


 アビーは溜息をついた。


「本当にそういう話に興味ないのね」

「あるよ」

「どんな?」

「相手が金持ちかどうか」

「最低」

「大事でしょ」

「もっとこう、顔とか、優しいとか」

「金があって優しくて顔が良ければ最高ね」

「欲張り」

「欲張らない理由ある?」


 アビーが笑う。その笑い方を見ていると、メイもつられて笑った。


 その時だった。


 食堂の扉が勢いよく開いた。


「エレン!」


 大きな声と一緒に入ってきたのは、サイラス・ブーンだった。肩幅の広い五十前後の男で、いつも河の泥と油の匂いをまとっている。


「飯!」

「金!」


 厨房から母の声が返ってきた。


「あとで払う!」

「昨日も聞いた!」

「今日は本当だ!」


 メイは思わず吹き出した。どこかで聞いたような会話だった。


 サイラスは空いている椅子へどかりと座ると、帽子を卓に置いた。


「嬢ちゃん、スープ」

「先に金」

「お前まで母親みたいなこと言うな」

「似てるらしいから」

「誰が言った」

「兄さん」

「見る目あるな」


 メイは睨んだ。


「パン抜きにするよ」

「悪かった」


 サイラスはすぐに両手を上げた。


 そこへ裏口からトーマスが入ってきた。


「サイラス」

「おう、坊主」

「昨日の話」

「ああ?」

「荷揚げの仕事」


 サイラスの顔から笑いが消えた。メイは盆を持つ手を止めた。


「本気か」

「本気だよ」

「きついぞ」

「知ってる」

「知ってるやつは、そんな顔しねえ」

「どんな顔?」

「夢見てる顔だ」


 トーマスは笑った。


「金になるんだろ?」

「なる。身体が壊れなきゃな」


 メイは二人の卓へ近づいた。


「何の話?」

「仕事」

「聞いてない」

「今言った」

「そうじゃなくて」


 サイラスはメイとトーマスを交互に見て、鼻を鳴らした。


「西へ行く金だろ」


 メイは兄を見る。トーマスは否定しなかった。


「まだ足りないの?」

「あと少しって言ったろ」

「宿の手伝いは?」

「するよ」

「いつ?」

「朝」

「朝は馬小屋あるでしょ」

「夜」

「夜は客の荷物運んでるでしょ」

「寝る時間削る」

「馬鹿じゃないの」

「西へ行けば寝放題だ」

「どういう理屈よ」

「空が広いから」


 意味が分からない。けれどトーマスは本気で言っているらしかった。


 サイラスが笑った。


「やめとけ、嬢ちゃん」

「何を?」

「男が馬鹿やる時に止めるのをだ」

「何でよ」

「止めてもやるから」

「じゃあ怪我しても知らない」

「それでいい」


 トーマスが言った。


 メイは少し腹が立った。


「兄さんって、勝手だね」

「そうか?」

「家のこと全部放って西に行くんでしょ」

「全部じゃない」

「何が違うの」


 トーマスは少し考えた。


「戻ってくる」


 メイは笑った。


「いつ?」

「金持ちになったら」

「じゃあ一生帰ってこないかもね」

「ひどいな」

「現実的なの」


 トーマスはまた笑った。


 でも、その笑顔の奥にあるものを、メイはまだ知らなかった。


     *


 その日の午後、裏庭で洗濯物を干していると、ルーシーが出てきた。


「メイ姉ちゃん」

「なに」

「寒い」

「なら中にいなさい」

「母さんが邪魔だって」

「何したの」

「何もしてない」


 何もしていない子供が、一番邪魔なのだ。


 メイは濡れたシーツを竿に掛けた。


「ほら、ここ持って」

「冷たい」

「文句言わない」


 ルーシーはしぶしぶ布の端を持った。


「兄さん、本当に西に行くの?」

「らしいよ」

「いつ帰ってくる?」

「金持ちになったらだって」

「じゃあ、すぐ?」


 メイは笑った。


「どうだろうね」

「お土産頼んでいい?」

「何が欲しいの?」


 ルーシーは少し考えてから、


「金」


 と言った。


 メイは吹き出した。


「兄さんより現実的じゃない」

「いっぱいあるんでしょ、西には」

「話ではね」

「じゃあ金の石」

「石?」

「うん。金でできた石」

「そんなの持って帰ってきたら、父さん卒倒するね」


 ルーシーは嬉しそうに笑った。


 その直後だった。


 手にしていたシーツが、するりと地面へ落ちた。


「ちょっと!」


 メイは慌てて拾う。


「泥ついたじゃない!」


 返事がない。


「ルーシー?」


 妹はぼんやり立っていた。頬が、妙に赤かった。


 メイは何となく嫌な感じがして、妹の額に手を当てた。


 熱かった。


 思わず手を離すほどに。


「ルーシー」


 今度は妹の肩を掴んだ。


「いつから?」

「何が?」

「熱」

「分かんない」

「寒いって、いつから言ってた?」

「さっき」

「本当に?」


 ルーシーは少し考えた。


「朝から、ちょっと」


 メイの胸の奥で、何かが小さく沈んだ。


「母さん!」


 気がつけば、大声で呼んでいた。


「母さん!」


 宿の中から、椅子を倒す音がした。


     *


 ベル医師が来たのは、それから一時間ほど後だった。


 玄関の扉が開く音に、メイは二階から駆け下りた。


「先生!」

「走るな。こっちまで転ぶ」


 ジョナサン・ベルは、濡れた帽子を脱ぎながら言った。


 三十代の終わりくらい。痩せた男だった。黒い外套の裾には泥が跳ね、革鞄の角は擦り切れている。


 メイは昔から、この男が少し苦手だった。笑わない。子供相手にも声色を変えない。誰かが痛がっていても、必要なら平気で傷口を押す。


 母は、『あの人は医者だから、優しい顔より正しい手を持ってりゃいい』と言う。メイには、それでももう少し愛想くらいあっていいと思えた。


「上?」

「二階です」

「吐いたか」

「まだ」

「咳は」

「少し」

「下痢」

「ないです」

「水は?」

「朝に少し。たぶん」

「たぶん?」

「私が見てない時に飲んでたかもしれなくて」


 ベルは足を止めた。


「川の水を?」

「井戸です」

「煮た?」

「……たぶん」


 ベルは何も言わなかった。その無言が、責められているように感じた。


「私、飲むなって言いました」

「責めてない」

「でも今」

「聞いただけだ」


 そう言って、ベルは階段を上がった。


 二階の一番奥。普段は客に使わせている部屋に、ルーシーは寝かされていた。


 母エレンがベッド脇に座り、濡らした布を額に当てている。父パトリックは窓際に立ち、トーマスは壁にもたれ、腕を組んでいる。


 全員が同じ部屋にいるのに、誰も喋っていなかった。


 ベルは挨拶もそこそこに革鞄を開いた。ルーシーの瞼を持ち上げ、口を開けさせ、胸に耳を当てる。腹を押し、脈を取る。


「痛い?」

「少し」

「ここは」

「そこも」

「ここ」

「痛い」

「どれくらい」

「分かんない」

「我慢できる?」

「うん」

「できなくても、できるって言う年だな」


 ベルはそう言って、ルーシーの手を布団の中へ戻した。


「先生」


 母が言った。


「どうなんです」


 ベルは答えず、もう一度脈を取った。メイには、その沈黙が長く感じられた。


「熱は高い」

「それは見れば分かる」


 父が低い声で言った。


「パトリック」


 母が制した。


 ベルは気にした様子もない。


「腹の痛みもある。まだ断定はしないが、熱病の類だろう」

「治るんですか」


 メイが聞いた。


「治る子もいる」

「治らない子も?」


 誰もメイを見なかった。


 それが答えだった。


「今夜がどうこうという話ではない。だが、このまま熱が続けば体力が持たない。水分を取らせろ。必ず煮た水だ。食べられるなら薄いスープ。身体を冷やしすぎるな」

「薬は?」


 母が聞いた。


「ある」


 ベルはそこで言葉を切った。


 父が窓際から振り返る。


「いくらだ」


 ベルは金額を言った。


 部屋の空気が変わった。


 メイには、数字の意味が分かった。宿屋の一日の売上。食料の仕入れ。馬の飼料。薪代。壊れた屋根。支払いを待ってもらっている酒屋。


 全部が頭に浮かんだ。


「高すぎる」

「知ってる」

「子供一人に払える額じゃない」

「薬を作る側に言ってくれ」

「お前は医者だろ」

「だから薬の値段まで決められると?」

「パトリック!」


 母の声が鋭くなる。父は黙った。


 ルーシーが目を開けた。


「父さん?」

「何でもない」


 さっきまで怒鳴っていた男が、急に小さな声になる。


「寝てろ」


 ルーシーはまた目を閉じた。


 ベルは鞄から小さな瓶を一本取り出した。


「これは置いていく」

「でも」

「いい」

「お金は」

「あとでいい」


 父が顔を上げた。


「さっき金額を言っただろ」

「それは必要な治療を続けた場合の話だ」

「払えないなら?」

「できることをする」

「できること?」


 父の声に棘が混じった。


「娘が死ぬのを見ながらか」


 ベルの手が止まった。


 メイは、初めてその男の顔に感情らしいものを見た。怒りではない。疲れだった。


「私は昨夜、五歳の子を診た。その家には、この瓶一本を買う金もなかった」


 父は何も言わない。


「その前の日には、母親が自分の薬を子供に使ってくれと言った。使えない薬だった」


 ベルは瓶を卓上に置いた。


「私は医者だ。魔法使いじゃない」


 その言葉だけ残して、ルーシーへ視線を戻した。


「明日の朝また来る。それまでに熱が上がったら呼べ」


 部屋を出ていくベルを、メイは追った。階段を下り、玄関まで行く。


「先生」


 ベルは外套を着ながら振り返った。


「何だ」

「もし」


 口にした瞬間、怖くなった。


「もし、お金があったら」


 ベルは待った。


「助かるんですか」

「分からない」


 即答だった。


 メイは腹が立った。


「分からない?」

「ああ」

「じゃあ、何のために払うの」

「助かる可能性を上げるためだ」

「それだけ?」

「それだけだ」


 メイは拳を握った。


「そんなの……」

「納得できないか」

「できるわけない」

「私もだ」


 ベルは帽子を被った。


「だから金を払えば助かるなんて、一度も言ってない」


 扉が開く。冷たい風が入ってくる。


「ただ」


 ベルは外へ出る前に言った。


「何もしなかったことは、あとで長く残る」


 扉が閉じた。


 メイはしばらく、その場から動けなかった。


     *


 その晩、食堂は早く閉めた。宿泊客には事情を話し、簡単な食事だけ出した。


 家族四人は、誰も食べなかった。


 ルーシーは二階で眠っている。時折、咳の音がする。


 父は帳簿を開き、数字を書いては消す。母は台所の椅子に座り、両手を組んでいる。メイは壁にもたれていた。


 トーマスだけが立っていた。


「いくら足りない?」


 父は答えない。


「父さん」

「お前には関係ない」

「家族だろ」

「だからだ」

「意味分からないよ」

「お前の金は、お前のものだ」


 メイは兄を見た。


 トーマスは黙って上着の内側に手を入れた。朝に見せた、小さな革袋。それを卓上へ置く。


 硬貨の音がした。


 父が顔を上げた。


「しまえ」

「使って」

「しまえ」

「ルーシーに」

「聞こえなかったのか!」


 父が拳を卓へ叩きつけた。皿が跳ねた。母が目を閉じる。


 トーマスは動かなかった。


「これはお前が西へ行くために貯めた金だ」

「知ってる」

「何年かかった」

「三年」

「なら、なおさらだ」

「また貯める」

「簡単に言うな!」

「簡単じゃないよ!」


 トーマスも声を上げた。


 メイは息を呑んだ。兄が父に怒鳴るのを、ほとんど見たことがなかった。


「でも、また貯められる!」


 トーマスは革袋を指差した。


「ルーシーは今なんだろ!」


 父の口が動いた。言葉は出なかった。


「西は逃げない」


 トーマスが言った。


「山も、草原も、金も、明日なくなるわけじゃない」


 一度だけ、二階を見上げる。


「でもルーシーは、今しか助けられない」


 静かになった。


 メイは兄の横顔を見ていた。昼間、西へ行くと笑っていた顔。革袋を鳴らして、『あと少し』と言っていた顔。


 それが今は、もうなかった。


 母が立ち上がり、トーマスのところへ歩いていく。そして何も言わず抱きしめた。


「母さん」

「馬鹿な子」

「うん」

「本当に」

「うん」


 父は下を向いたままだった。


 やがて、大きな手が革袋へ伸びた。掴む。しばらく握ったまま離さない。


「……借りる」


 父が言った。


 トーマスは笑った。


「返さなくていいよ」

「借りる」

「分かった」


 メイは、なぜか泣きそうになった。


 まだ誰も死んでいない。妹も生きている。兄もここにいる。


 それなのに、何かがもう、元には戻らないような気がした。


 二階から、小さな咳が聞こえた。


 トーマスが顔を上げる。


「まだ足りないよな」


 父は答えなかった。


 それも答えだった。


「なら」


 兄はメイを見た。


「稼ぐぞ」

「私も?」

「当然」

「何で当然なのよ」

「家族だろ」


 今度はメイが黙る番だった。


 トーマスが笑った。


「俺は河岸で働く」

「私、荷物なんか運べないけど」

「誰もお前に樽運べなんて言ってない」

「じゃあ何するの」


 トーマスは少し考えた。


「それは自分で探せ」

「そこまで考えてから格好つけてよ」


 母が小さく笑った。父も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その夜、メイはまだ知らなかった。


 兄と一緒に稼ぐことになる、ほんの短い日々が、自分にとって生涯忘れることのできない時間になることを。


     *


 翌朝、メイはマーサ・グリムズを探しに河岸へ出た。


 朝靄の向こうで、ミシシッピは鈍い光を返していた。船着場には、すでに何隻もの蒸気船が停まっている。煙突から黒煙が上がり、荷車の車輪が泥を跳ね、男たちの怒鳴り声がそこら中から聞こえた。


「道開けろ!」

「そっちじゃねえ!」

「樽は倉庫だ!」

「誰だ、この箱割ったの!」


 セントルイスの朝は、宿屋よりずっと乱暴だった。


 メイはスカートの裾を持ち上げ、泥を避けながら歩いた。


 いや、避けたつもりだった。


 三歩目で諦めた。


「最悪」

「まだ朝だよ」


 横から声がした。アビーだった。


「なんでいるの」

「見送り」

「誰の?」

「あなたの」

「死ぬみたいに言わないで」


 アビーは小さな籠を差し出した。


「パン」

「いらない」

「朝食べてないでしょ」

「何で分かるの」

「顔」

「どんな顔よ」

「お腹空いてる顔」


 メイは籠から一つ取った。


「ありがとう」

「素直」

「返すよ」

「嘘。食べて」


 メイはパンを齧った。少し硬かった。でも温かかった。


「本当に働くの?」

「働く」

「宿も?」

「もちろん」

「倒れるよ」

「倒れてる暇ない」

「そういう人が倒れるんだけど」


 メイは何も言わなかった。アビーもそれ以上は言わなかった。


 代わりに、


「マーサなら、向こう」


 と指を差した。


 河岸から少し離れた場所。大きな釜が三つ並び、その周りに女たちが集まっている。洗濯物の山。湯気。石鹸。灰汁。


 その中心で、一人の女が腕まくりをしていた。


「マーサ!」


 メイが呼ぶ。


 女は振り向かなかった。


「マーサ・グリムズ!」

「耳は聞こえてるよ!」


 ようやく顔を上げた。


 四十代半ば。背が高く、腕が太い。頭には布を巻き、袖を肘まで捲っている。


「朝から大声出すんじゃないよ」

「マーサも出してるじゃない」

「私は仕事してるからいいんだ」

「私も仕事したい」


 マーサの手が止まった。メイを上から下まで見る。


「宿は?」

「やる」

「その上で?」

「うん」

「馬鹿だね」

「昨日も言われた」

「誰に」

「兄さん」

「なら兄さんが正しい」

「でも働かせて」


 マーサは洗濯板へ目を戻した。


「駄目」

「お願い」

「駄目」

「何で」

「遅いから」

「やってみなきゃ分からない」

「見れば分かる」

「失礼ね」

「手」


 言われて、メイは自分の手を見た。宿の仕事で荒れてはいる。けれどマーサの手とは違った。指の関節は太く、爪の間には石鹸と灰が入り込んでいる。


「その手で一日百枚洗える?」

「百枚?」

「船一隻入ったら、それくらい来る」

「……やる」

「だから馬鹿だって言ってる」


 メイは一歩近づいた。


「妹が病気なの」


 マーサが手を止めた。


「医者に薬がいるって言われた」

「金か」

「うん」

「いくら」


 メイは答えた。


 マーサの眉がわずかに動いた。


「足りない分は?」

「兄さんも働く」

「どこで」

「サイラスのところ」


 マーサは小さく舌打ちした。


「よりによって」

「何?」

「何でもない」


 少し考えてから、顎で洗濯物の山を指した。


「そこ」

「え?」

「ぼさっとしない」

「やっていいの?」

「一日だけ」


 メイの顔が明るくなった。


「ありがとう!」

「まだ礼言うな」


 マーサは濡れたシャツを放った。メイの顔に張り付く。


「働いてから言いな」


     *


 三時間後。


 メイは死んでいた。


「腰が」

「知らない」

「腕取れそう」

「取れてから言いな」

「指が痛い」

「まだ付いてる」

「マーサって人の心ないの?」

「洗濯場に持ってきてないね」


 メイは洗濯板に額をつけた。水が冷たい。石鹸が傷に染みる。こすっても、こすっても汚れが落ちない。


「これ何の染み?」

「血」


 メイは手を止めた。


「……誰の?」

「知らないよ」

「でも」

「知ってどうする」


 マーサは隣で別のシャツを洗っている。


「怪我した人かもしれない」

「そうかもね」

「死んだ人かも」

「そうかもね」

「気にならないの?」


 マーサは初めてメイを見た。


「服は、汚れた理由を喋らないよ」

「だからって」

「だから、勝手に決めない」


 メイは黙った。


 マーサはまた手を動かした。


「酒こぼしただけかもしれない。喧嘩したのかもしれない。誰かを助けた血かもしれない。誰かを殴った血かもしれない」


 赤黒い染みが、水の中へ薄く広がっていく。


「洗う側が物語まで作ってどうする」

「……でも、考えちゃう」

「なら考えな」

「どっちよ」

「考えるのと、決めつけるのは違う」


 マーサは言った。


「人間なんて、見た目ほど分かりやすくないよ」


 メイは返事をしなかった。ただ、もう一度シャツをこすった。


 染みは少しずつ薄くなっていった。


     *


 夕方、宿へ戻る途中で、メイは河岸にトーマスを見つけた。樽を担いでいた。


「兄さん!」


 トーマスが振り向く。顔中汗だらけだった。


「おう」

「死にそう」

「お前もな」


 メイは自分の腕を見せた。赤く腫れている。


「見て」

「何それ」

「働いた証」

「俺の方がすごい」


 トーマスは掌を見せた。皮が剥け、血が滲んでいる。


「馬鹿」

「そっちも」

「私は馬鹿じゃない」

「同じ顔してる」


 二人で笑った。


「今日いくら?」


 トーマスが聞いた。メイは稼いだ額を言った。


「少な」

「初日だから!」

「俺の勝ち」

「何それ」

「競争」

「妹の薬代で競争しないでよ」

「負けそうだから?」

「明日は倍稼ぐ」

「乗った」

「乗らない!」


 そう言いながら、メイは笑っていた。トーマスも笑った。


 疲れていた。泥だらけだった。手も痛かった。


 でもその時だけは、二人とも妹が助かるような気がしていた。


     *


 それから数日。


 メイは朝、宿で働いた。昼からマーサのところで洗い、夜はまた宿へ戻った。


 トーマスは河岸へ出た。帰ってくるたび、少しずつ傷が増えた。


「やめたら?」

「お前が先に」

「私は平気」

「俺も」


 似た者同士だった。


 ベル医師は毎朝ルーシーを診た。熱は下がらない。けれど悪くもならない。


「それって良いの?」

「悪くない」

「良くもない?」

「そうだ」


 相変わらず、嫌な言い方をする男だった。それでもベルは毎日来た。代金を受け取らない日もあった。


 父は何も言わなかった。


 ある夜、マーサが大きな籠をメイの前に置いた。


「追加」

「今から?」

「明日の朝まで」


 中にはシーツとシャツが山ほど詰まっている。


「多すぎない?」

「蒸気船が夜に入った」

「無理」

「なら断る」

「いくら?」


 マーサが金額を言った。


 メイの顔が変わった。


 それだけあれば。


 あと少しで。


「やる」

「言うと思った」

「マーサも手伝って」

「私は別口がある」

「裏切り者」

「仕事だよ」


 メイは籠を抱えた。重かった。


「夜中になるよ」

「分かってる」

「無理するな」


 メイは足を止めた。


「今さら?」

「無理するなとは言ってない」

「今言った」

「死ぬほど無理するなって意味だ」


 メイは少し笑った。


「分かった」


 そして、その夜。


 宿の裏庭で、メイは一人洗い続けた。


 月は雲に隠れていた。釜の火が揺れる。指先はもう感覚がない。


 あと十枚。あと八枚。あと六枚。


 水桶へ手を伸ばす。


 空だった。


「嘘」


 もう一つ。空。


 井戸へ行く。縄を落とす。桶を引き上げる。


 底に濁った水が、ほんの少し。


 これでは足りない。


 明日の朝までに終わらなければ、金はもらえない。


 メイは洗濯物の山を見た。それから二階の窓を見る。そこではルーシーが眠っている。


 裏口の脇に、一本の古い杖が立て掛けてあった。母が嫁入りの時に持ってきたもので、そのまた母から譲られたものだという。黒ずんだ柄には、七つの丸い窪みが並んでいる。どれも空だった。


 普段なら気にも留めない古道具だったが、夜の河岸は足場が悪い。転んで水までぶちまけたら、それこそ笑えない。


 メイは桶を持ち、もう片方の手で杖を掴んだ。


 そして、一人で河へ向かった。


     *


 夜のミシシッピは、昼よりずっと大きく見えた。川面は黒く、対岸の灯りが細く揺れている。


 メイは岸辺に膝をついた。


「ちょっとだけだから」


 誰に言うでもなく呟いた。


 桶を水へ沈める。


 引き上げる。


 軽い。


 中を覗く。


 空だった。


「……は?」


 もう一度。確かに、水の中へ沈める。


 引き上げる。


 空。


「何よ、これ」


 三度目。四度目。


 同じだった。


 目の前には、あれほど大きな川が流れている。


 なのに、メイの桶には一滴も入らない。


 風が止んだ。


 川の音まで、消えたような気がした。


 その時だった。


「なぜ」


 声がした。


 メイは顔を上げる。


 誰もいない。


「なぜ、水を欲しがる?」


 今度は、はっきり聞こえた。


 声は――川の中からしていた。


     *


 メイは立ち上がった。桶を胸の前に抱えたまま、暗い川面を睨む。


 月はなかった。空には星さえほとんど見えず、川岸の葦も、遠くの木々も、黒い切り絵のように沈んでいる。湿った夜気が肌にまとわりつき、濡れた土の匂いと、腐りかけた葉の甘い臭いが鼻の奥に残った。


 桶の縁が、冷えた指に食い込んでいる。洗濯でふやけた手のひらは赤く、爪の間には灰色の泥が入り込んでいた。腕は重く、肩は痛い。それでも、桶を置く気にはなれなかった。


 置いてしまえば、今夜の仕事が終わる。けれど、終わったところで待っているのは、熱の下がらない妹と、明日の朝まで消えない不安だけだった。


 川の水が、暗闇の中で淡く光っていた。


 青い。


 月明かりを映しているわけではない。水そのものが、底の見えない場所からぼんやりと発光している。流れに沿って細い青白い筋が伸び、波が崩れるたび、濡れた絹のような光がほどけては消えた。その光が、メイの頬と桶の縁を冷たく照らしている。


「誰?」


 返事はなかった。水だけが、何食わぬ顔で流れている。


 さらさらという音ではない。もっと低く、重い音だった。川底のどこかで巨大なものが寝返りを打ち、その身体に触れた水が、ゆっくりと岸へ押し寄せているような音。


「誰かいるの?」

「いるよ」


 今度は、すぐ足元から聞こえた。


 メイは反射的に一歩下がった。靴底が泥に沈み、冷たい水が足首まで染み込んでくる。濡れた布が肌に張りつき、背中を細い指で撫でられたような悪寒が走った。


 水面に、自分の顔が映っている。


 月のない夜だった。本来なら、顔など見えるはずがない。


 それなのに、水の中には確かにメイがいた。


 赤褐色の髪。疲れた顔。泥のついた頬。


 ただし、目だけが違った。


 水面の中のメイは、青い瞳をしていた。


 その青は、川の光よりも濃かった。深い水底に沈んだ夜空のようで、見つめていると、自分の顔が少しずつ水の中へ引きずり込まれていく気がする。


「……何よ、それ」

「メイ」

「私の名前を知ってるの?」

「さっきから呼んでたよ」

「呼んでないわよ」

「呼んでた。心の中で」


 水面のメイが、にやりと笑った。その笑い方があまりにも子供っぽくて、メイは眉をひそめる。


 だが、水面の顔は笑っているのに、波紋一つ立っていなかった。


「あなた、誰なの?」

「メルク」

「人間?」

「違うよ」

「じゃあ何?」

「水」

「水が喋るわけないでしょ」

「喋ってるじゃない」


 メルクは楽しそうに言った。


 水面の顔が、ぐにゃりと崩れる。赤褐色の髪が青い流れにほどけ、頬が波に溶け、目だけが水の中に取り残された。


 次の瞬間、川面から小さな女の子が顔を出した。


 肩までの髪も、白い肌も、薄い寝間着のような服も、すべて水でできている。けれど、その青い瞳だけははっきりしていた。


 メルクは川岸に頬杖をつき、じっとメイを見上げている。その腕の下で、水が生き物のようにゆっくりと膨らみ、指の形を作っては崩していた。


「ずっと見てたの」

「何を」

「メイ」

「私を?」

「うん。毎晩、あの家で洗濯してる」

「……覗き見?」

「覗いてないよ。水だから、見えるの」

「川から?」

「水があるところなら」

「それを覗き見って言うのよ」


 メルクはくすくす笑った。


 その笑い声は、耳元ではなく、川の中から聞こえた。水面の下、足元の泥の中、桶の底。どこからともなく響き、メイの胸の内側まで細かく震わせる。


 だが、笑い声はすぐに途切れた。


 小さな顔が、ふいに歪む。


 ぽろり、と青い雫が頬を伝った。


「ちょっと、泣いてるの?」

「泣いてない」

「泣いてるじゃない」

「これは水」

「あなた、水でしょうが」

「だから泣いてないの」


 言い張りながら、メルクの目から次々と雫がこぼれた。雫は川面に落ち、小さな波紋になる。そのたびに青い光が輪になって広がり、メイの足元まで忍び寄ってきた。


「何が悲しいのよ」

「分からない」

「分からないのに泣くの?」

「メイも、分からないのに泣くでしょ」


 メイは黙った。


 ルーシーの熱い額が脳裏に浮かぶ。今夜も、妹は二階で苦しそうに眠っている。薬を買う金は足りない。だから、少しでも多く働かなければならない。


 それは分かっている。分かっているのに、胸の奥には別の感情が沈んでいた。


 もし、明日の朝になっても熱が下がらなかったら。もし、薬を買う前にルーシーの呼吸が止まったら。


 考えてはいけないと思うほど、その想像は鮮明になった。小さな身体が冷たくなり、いつもの声で自分を呼ばなくなる。その未来を追い払うために、メイは毎晩、手が裂けるまで働いていた。


 桶の取っ手が、さらに指へ食い込んだ。冷たいはずなのに、手のひらだけが焼けるように熱い。


「……あなた、何がしたいの?」

「メイを見てたら、悲しくなったの」

「私を見て?」

「うん」

「どうして」

「ずっと同じことをしてるから」


 メルクは、メイの桶を指差した。


「夜になると、あの家で服を洗って、手を真っ赤にして、それでもやめない」

「仕事よ」

「楽しい?」

「楽しいわけないでしょ」

「じゃあ、どうしてするの?」

「お金がいるから」

「お金があれば、楽しい?」

「そういう話じゃないの」

「じゃあ、どういう話?」


 メルクは首を傾げた。その仕草が妙に幼くて、メイは怒る気を少し失った。


 けれど、青く光る水の身体は、子供の形をしているだけだった。水面の下には、どれほど深いものが潜んでいるのか分からない。メイは無意識に、桶を抱く腕へ力を込めた。


「妹が病気なの」

「ルーシー?」

「名前まで知ってるのね」

「メイが何度も呼んでたから」

「……そう」

「ルーシーは死ぬの?」


 メイの手が止まった。


 いつの間にか、空だったはずの桶の底に薄く水が溜まっていた。青い光がその水面を走り、メイの指先を淡く照らした。


「分からない」

「死ぬかもしれない?」

「分からないって言ってるでしょ」

「でも、怖い?」

「怖いわよ」

「どうして?」

「妹だから」

「妹だと、怖いの?」

「そうよ」

「どうして?」

「どうしてって……」


 メイは桶の取っ手を握りしめた。濡れた木が、洗濯で裂けかけた掌に食い込んだ。


「大切だから」

「大切って何?」

「知らないわよ」

「メイも知らないの?」

「知らないけど、分かるの」

「分かるのに、知らないの?」

「そうよ!」


 メイは苛立って声を荒げた。


「人間はそういうものなの!」


 メルクは目を丸くした。


「人間?」

「そう。私たちは人間なの」

「人間って、分からないのに分かるの?」

「……たぶん」

「変なの」

「あなたに言われたくないわよ」


 メルクはまた笑った。けれど、すぐに小さな手で目をこすった。


「メルク、泣いてるの?」

「泣いてない」

「だから泣いてるって」

「メイが変だから」

「私のせい?」

「うん」

「なんでよ」

「メイが、ずっと頑張ってるから」


 その言葉に、メイは何も返せなかった。


 頑張っている。


 そう言われると、胸の奥に隠していたものを見つけられた気がした。


 誰かに褒められたいわけではない。感謝されたいわけでもない。ただ、ルーシーを死なせたくない。そのためなら、手が裂けても、眠れなくても、嫌な客に頭を下げても構わないと思っていた。


 けれど本当は、構わなくなどなかった。


 痛かったし、疲れていた。怖かった。逃げ出したい夜もあった。それでも、弱音を吐けば何かが壊れる気がして、メイはずっと黙っていた。


 川の中のこの奇妙な存在に、たった一言そう言われただけで、張りつめていた糸がわずかに緩んだ。


「……水を汲ませて。洗濯しないといけないの」

「うん」

「ルーシーの薬を買うために」

「うん」

「だから、邪魔しないで」

「邪魔してないよ」

「話しかけてるじゃない」

「だって、メイのことを知りたいんだもん」

「知ってどうするのよ」

「人間を知りたいの」

「人間を?」

「うん」


 メルクは川岸に顎を乗せた。


「川には魚もいるし、鳥も来るし、鹿も水を飲みに来る。でも、人間は変なの」

「悪かったわね」

「怒ったり、笑ったり、泣いたりする。嫌いな人のためにも働くし、死にそうな人のために眠らない」

「……」

「どうして?」

「だから、妹だからよ」

「それが分からないの」

「分からなくてもいいの」

「よくないよ」


 メルクは、今度は泣きながら笑った。


「分からないから、知りたいの」


 メイはメルクを見つめた。小さな女の子。水でできた身体。泣いているのに、どこか楽しそうな顔。


 その輪郭は青い光の中で揺らぎ、時折、顔の奥に川底の暗闇が透けて見えた。怖いはずなのに、不思議と逃げる気にはなれなかった。


 メルクの問いは、幼くて、しつこくて、ひどく無遠慮だった。けれど、メイが自分自身に問いかけることを避けてきたものでもあった。


 なぜ働くのか。なぜ眠らないのか。なぜ、そこまでしてルーシーを守ろうとするのか。


 答えは一つではない。


 妹だから、という言葉だけでは足りなかった。愛しているから。怖いから。自分だけが助かることを許せないから。もし手を離したら、二度と取り戻せない気がするから。


 そんな感情を、メイは誰にも話したことがなかった。


「……私を見て、何が知りたいの?」

「人間って何か」

「そんなの、私に聞かれても困るわよ」

「でも、メイは人間でしょ?」

「そうだけど」

「じゃあ、教えて」

「どうやって?」

「一緒にいるの」

「一緒に?」

「メイがすることを見せて。メイが思うことを教えて。メイが泣いたら、どうして泣いたか教えて」

「ずいぶん勝手ね」

「水だから」

「水なら何でも許されると思わないで」

「じゃあ、お願い」


 メルクは両手を合わせた。


「メイ。人間を教えて」


 メイはため息をついた。


「私にそんなことを教える余裕なんてないの」

「ルーシーを助けたいんでしょ?」


 メイの顔から血の気が引いた。


「……何を知ってるの」

「ルーシーの熱」


 メルクは、川面に指先をつけた。


 その瞬間、川の水が淡く青く光った。川底から無数の青い線が浮かび上がり、流れに逆らってメルクの指先へ集まってくる。水面が静かになり、川全体が息を潜めたようだった。


「下げられるよ」

「何を?」

「ルーシーの熱」


 メイは息を呑んだ。


「嘘」

「嘘じゃない」

「本当に?」

「うん。水は、熱を持っていけるから」

「薬の代わりになるの?」

「薬は知らない。でも、熱なら下げられる」


 メルクは少し得意そうに胸を張った。


「メルク、すごいでしょ」

「……本当にできるなら」

「できるよ」

「何をすればいいの?」

「教えて」

「何を」

「人間を」


 メルクは、泣き腫らした目でメイを見上げた。


「メイが人間を教えてくれたら、ルーシーの熱を下げる」

「それだけ?」

「それだけじゃないよ」

「何よ」

「メイが人間を教えてくれる間、メルクはメイの水になるの」

「私の水?」

「洗濯の水。飲み水。冷やす水。必要なら、雨も降らせる」

「そんなことまで?」

「できるよ。メルクは水だから」


 メルクはいたずらっぽく笑った。


「でも、メイがちゃんと教えてくれなかったら、すぐ返してもらうからね」

「返すって、何を?」

「ルーシーの熱」

「あなた……」

「冗談」


 メルクは舌を出した。


「……冗談じゃないかもしれないけど」

「怖がらせないでよ」

「ごめん」


 メルクは素直に謝った。


 この存在は、恐ろしい力を持っているのかもしれない。けれど、嘘をついているようには見えなかった。


 信じていいのかは分からない。


 分からないままでも、信じるしかない。


 ルーシーの熱を下げる方法が、ほかにないのだから。


「契約ってこと?」

「うん」

「私が人間を教える。その代わり、あなたがルーシーの熱を下げる」

「そう」

「どうやって教えるのよ」

「毎日、話して」

「毎日?」

「うん。メイが洗濯してる間」

「洗濯しながら?」

「洗濯しながら」

「私、忙しいのよ」

「知ってる」

「話す余裕なんてないわ」

「じゃあ、歌って」

「歌?」

「人間は歌うんでしょ?」

「誰に聞いたのよ」

「メイが昨日、泣きながら歌ってた」


 メイは顔を赤くした。


「聞いてたの?」

「うん。音痴だった」

「余計なこと言わないで!」


 メルクは声を上げて笑った。


「でも、きれいだったよ」

「どっちなのよ」

「分からない」

「あなたも分からないじゃない」

「だから、教えてほしいの」


 メイはしばらく黙っていた。


 ルーシーの熱。それを下げられるなら。薬を買うまでの時間を稼げるなら。


 何でもする。


 それは、いつもの決意と同じだった。ただ今夜は、その決意を聞いている相手がいる。


 誰かに見られていることが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。


 同時に、ほんの少しだけ心強かった。


「……分かった」

「本当?」

「契約する」


 メルクの顔がぱっと明るくなった。


「やった!」


 小さな身体が水面から跳ね上がる。水しぶきがメイの頬にかかった。


 冷たい。


 冷たいはずなのに、その一滴だけは、かすかな熱を持っていた。生き物の体温のようだった。


「ちょっと!」

「ごめんごめん。嬉しくて」

「濡れたじゃない」

「水だから、乾くよ」

「そういう問題じゃないの!」


 メルクは楽しそうに笑いながら、メイの周りをくるくる回った。


「名前を教えて」

「もう知ってるでしょう」

「ちゃんと聞きたいの」


 メイはためらった。


「ステラ・メイ・ホロウェイ」

「長い」

「正式な名前よ」

「メイでいい?」

「みんなそう呼ぶから」

「じゃあ、メイ」


 メルクが名前を呼ぶ。


 その声は、川のせせらぎに混じっていた。けれど、せせらぎだけではなかった。遠い川上から、何人もの声が同じ名前を呼んだように聞こえた。


 メイ。メイ。メイ。


「メイは、人間を教えてくれる?」

「教えられる範囲でね」

「約束?」

「約束」

「契約?」

「契約」


 メルクは小指を差し出した。水でできた小さな指が、月のない夜に淡く光る。


「指切りしよう」

「子供じゃないんだから」

「メルクは子供だよ」

「水の妖精でしょうが」

「子供の水の妖精」


 メイは呆れながらも、小指を差し出した。


 触れた瞬間、冷たい水が指先から腕へ流れ込んだ。


 今度は、苦しくなかった。


 水は血管の中を進むように肘へ、肩へ、胸の奥へ広がった。心臓の鼓動に合わせて、青い光が一度、二度、脈打つ。


「契約成立!」


 メルクが叫んだ。


「まずはルーシーのところへ行くよ」

「今から?」

「今すぐ」

「どうやって?」

「水はどこにでも行けるの」


 メルクは得意そうに胸を張った。


「でも、メイが案内して」

「私が?」

「うん。人間の家を知らないから」

「あなた、ずっと見てたんでしょう」

「見てたけど、入ったことはないもん」

「勝手に入らないでよ」

「契約したから、もう勝手じゃないよ」

「そういう問題じゃない!」


 メルクはまた笑った。


 水が岸へ這い上がり、メイの足元で細い腕のように分かれた。桶の中の水も、ひとりでに揺れる。青い光が桶の内側を満たし、底の見えない小さな川がそこに生まれたように見えた。


 メイはそれを見つめた。


 冷たい夜の川。病気の妹。足りない薬。そして、泣きながら笑う小さな水の妖精。


 これまでのメイには、選ぶ余地などなかった。働くか、働かないか。薬を買うか、買えないか。ルーシーを守るか、守れないか。


 けれど今、目の前にいる存在は、初めて別の道を差し出している。


 それが救いなのか、罠なのか、メイには判断できなかった。


「……本当に、ルーシーを助けられるのね?」


 メルクは、今度はふざけなかった。


「うん」

「絶対?」

「絶対」

「嘘だったら許さないから」

「嘘じゃないよ」


 メルクは小さな手を胸に当てた。


「メルクは、メイを泣かせたくないの」


 その言葉に、メイの胸が詰まった。


 泣かせたくない。


 そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


 このところ、家族の目はみんなルーシーに向いていた。当たり前だった。病気なのはルーシーなのだから。


 父も、母も、トーマスも、ベル先生も、みんなルーシーを心配している。メイだってそうだ。だから、自分のことを心配してほしいなんて、一度も思わなかった。


 働ける。歩ける。食べられる。なら、自分は大丈夫だ。


 メイ自身も、そう思い込もうとしていた。自分が泣く暇などない。自分が弱るわけにはいかない。自分のことを心配するのは、贅沢だ。


 けれど、目の前の水の子供は、そんな事情を何も知らないまま、ただメイを泣かせたくないと言った。


 その無邪気さが、かえって痛かった。


「……私、泣いてないわよ」

「泣いてるよ」

「泣いてない」

「じゃあ、どうして目が赤いの?」

「寒いの!」

「ふうん」


 メルクは、いたずらっぽく笑った。


「人間って、泣いてても嘘をつくんだね」

「覚えなくていいことを覚えないで!」


 メイの怒鳴り声が、夜のミシシッピに響いた。


 メルクは楽しそうに笑いながら、桶の中へ飛び込んだ。


 水が、淡い青色に光る。


 桶の中で水が一度だけ大きく渦を巻き、メルクの姿がその中心へ沈んだ。消えたはずなのに、青い瞳だけが水面の下からメイを見上げている。


「さあ、メイ。帰ろう」

「あなた、桶に入るの?」

「だって、メイの水になるんでしょ?」

「……本当に、変な子ね」

「メイもね」


 メイは杖を脇に挟み、桶を抱え直した。


 その中の水は、いつもより少しだけ温かかった。けれど、底の方からは、指先を引くような冷たい流れが続いている。


 メイは川を振り返った。


 月のない川辺に、青い光だけが残っている。その光は、彼女が歩き出しても消えなかった。川面の上を細く伸び、家へ向かうメイの背中を、どこまでも追いかけてきた。


 メイはまだ、メルクを信じてはいなかった。


 信じるということは、裏切られる可能性を受け入れることだ。そんな余裕は、今の彼女にはない。


 それでも、桶の中の青い光を見ていると、ほんの少しだけ足取りが軽くなった。


 もし本当にルーシーを助けられるなら。


 もしこの夜が、これまでと違う夜になるなら。


 怖さは消えなかった。不安も、疑いも、胸の奥に残っている。


 けれど、その隣に、かすかな期待が生まれていた。


 そしてその夜から。


 ステラ・メイ・ホロウェイは、一人ではなくなった。

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