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『数式ノートに、薔薇の香りが染みる時』

 西暦一七八九年、秋。 



 プロイセンの猛将ブルーヘル率いる先遣隊を『大泥沼の檻』へと完全封鎖し、飢えに喘ぐ彼らへジャガイモの苗とマリー王妃の手紙を渡して「開墾部隊」へと統合した最初の防衛戦から、わずか数週間。


 最前線から凱旋したフランス軍を迎え入れたヴェルサイユ宮殿は、未曾有の熱気と輝きに満ち溢れていた。 


 初代聖女ジャネット・パテーが遺した「黄金の麦」、そして二代目聖女マリー・アントワネットが泥にまみれて普及させた「大地の恵み(ジャガイモ)」


 この二つの命の塊に、最新の蒸気機関がもたらした産業革命が火をつけた。


 今のフランスは、自国だけで食糧も経済も完璧に自己完結した、歴史上類を見ない「自給率三百パーセント」の超好景気を迎えていた。


 宮廷の夜会に並ぶのは、天才料理人カレームが焼き上げる、見たこともないほど白く美しい極上の砂糖菓子や、アツアツのポテトケーキ。


 血を流して王の首をはねる古い革命ではない。 飯の速度と豊かさで世界をひっくり返す、真の『物流のフランス革命』が、この国ではすでに完成しつつあった。


 だが、その華やかな祝宴の喧騒から完全に孤立した壁際で、農業士官の外套を深く羽織った男が一人、不機嫌そうに手帳を睨みつけていた。 


 ナポレオン・ボナパルトである。


「……閣下。おめでたい凱旋パーティーの最中ですが、笑えない数字が入りました」 


 人混みを掻き分けてナポレオンの隣に滑り込んできたのは、参謀長のベルティエだった。


 書類管理の天才である彼の指先は、前線の死闘で裂けた傷が未だ癒えていない。


 それ以上に、好景気の宮廷で贅沢な高級馬車に乗せられ続けたせいで、酷い乗り物酔いと、パリの片思い相手から一通も返信が来ない精神的飢餓から、幽霊のように青白い顔をしていた。


「報告しろ、ベルティエ。お前のその不毛な恋愛感情の死因以外なら、どんな数字でも聞いてやる」


「イギリスです。ネルソン提督率いる大洋の艦隊が、我が国の港を完全に封鎖しました。彼らはフランスの『ジャガイモの利権』を妬み、鉄と硝煙で我が国を海から孤立させる『全欧州大同盟』の包囲網を確実に縮めつつあります。さらに、王妃様の実家であるオーストリア宮殿も、イギリスからの莫大な資金援助に屈し、十万の軍勢をアルプス越えでこちらへ向かわせているとのことです」


 全方位からの侵攻。周辺諸国の「底なしの嫉妬」が、ついに巨大な濁流となってフランスへ牙を剥き始めたのだ。


 だが、ナポレオンは眉一つ動かさず、手帳のページを冷徹にめくった。


「想定の範囲内だ。盤上の駒が全て動き出したということは、俺がポケットに伏せた『盤外の手札』が確実に奴らの脳髄を撃ち抜く証拠。 ……だが、ロシアはどうした? 奴らはこの包囲網に加わっていないのか」


「ロシアの動きは沈黙しています。……物理的に、外へ動けないようです」


「当然だな。算術の計算ができない無能の妄言に惑わされるな」 ナポレオンは冷たく鼻で笑った。


「ロシアには融雪泥濘期ラスプーティツァという底なしの沼の季節がある。さらにフランスからモスクワへ至る二千五百キロの空白地帯。あの国は貧しすぎて、外へ大軍を遠征させるための『飯(兵站)』を組む体力がそもそも存在しない。他者を拒絶するが、自らも外へは一歩も出られない『神が作った物理の檻』だ。こちらから攻める理由もなければ、向こうから来る心配ももない。……俺たちが警戒すべきは、海の死神、ネルソンの胃袋だけだ」




「へえ、大きく出ましたね、閣下。相変わらずひねくれた数式ノートだ」


 いつの間にか、ナポレオンの背後で大皿の干し肉を貪っていたのは、突撃隊長のランヌだった。


 泥沼離婚の決着をつけるために「絶対に死ねない」と豪語するサレ夫は、宮廷の美女たちには目もくれず、生真面目な防衛隊長ダヴーから「お母さん」のように勧められた干し肉を咀嚼している。


「お前たちのその、女の機嫌を取るという不毛な脳細胞の浪費は、私の手帳には一行も存在しないと言ったはずだ。そもそも、私のような数字しか見ない男を気に入る奇特な女性など、この世にいるわけがない」


「それが、いるんですよ。パリの社交界で最近とびきり妖艶だと噂の未亡人がね。確か、ジョゼフィーヌとかいう……」


 ランヌがニヤニヤと笑いながら言いかけた、その瞬間だった。


「あら、ボナパルト。こんな暗い隅っこで、また難しいお顔をして数字のお勉強かしら?」


 鈴の鳴るような、しかし凛とした優しい声が響いた。


 ナポレオンが顔を上げると、そこにはドレスを脱ぎ捨てて泥にまみれたはずの二代目聖女、マリー・アントワネット王妃が、眩いばかりの微笑みを浮かべて立っていた。


 そして、そのマリーのすぐ後ろに、一人の女性を伴っていた。


「あなたにぜひ紹介したい女性がいるの。最近、パリの社交界で大人気の、ジョゼフィーヌよ」 


 一歩前へ出たのは、南部カリブの薔薇と称される、圧倒的な気品と妖艶さを纏った子連れの未亡人、ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネであった。


「お初にお目にかかります、フランスの若き英雄殿。あなたの『胃袋の包囲網』のお話、社交界でも大変な噂になっておりますわ」


 彼女が艶やかに微笑み、ナポレオンの手を取って軽く挨拶を交わした、


 その刹那。 彼女の身のこなしとともに、狂おしいほどに甘く優美な「薔薇の香水」の匂いが、ナポレオンの鼻腔を真っ直ぐに突き抜けた。


 数万の行軍計算をこなす天才ナポレオンの脳細胞が、人生で初めて、完全に「フリーズ」した。


(……っ!? この香りはなんだ。植物性の有機化合物か? 待て、ランヌの奴が馬車の中で言っていた、男を狂わせる南部カリブの薔薇――ジョゼフィーヌだと!?)


 いつもなら冷徹なはずのナポレオンの視線が、目に見えて泳ぐ。手帳を握る指先が微かに強張った。


 沈黙に耐えかねたナポレオンは、自身の動揺を隠すように、人生で最も不器用な第一声を、手帳の数字を見つめたまま吐き捨てた。


「……ジョゼフィーヌ、殿。貴女のそのドレスのシルクの織り目、および夜会の維持費、現在の債務の推移を計算するに……。貴女の家計は、あと四十七日で確実に破産します。効率的な金策の兵站数式なら、今すぐこの手帳に書き殴れますが」


 初対面の女性、それも社交界の女王に対して、いきなり「破産します」という冷酷な現実。 


 背後にいたベルティエは完全に白目を剥き、ダヴーは生真面目に首を傾げた。誰もが「終わった」と凍りついた、その時。


 酸いも甘いも噛み分けた大人の女性、ジョゼフィーヌは、怒るどころか、その豊潤な唇をフッと面白そうに歪めて微笑んだ。


「あら、流石は算術の天才。私の隠し借金の額まで正確に言い当てるなんて、最高に格好いいプロフェッショナルですこと。……でも英雄殿。女性の家計をそこまで心配してくださるなら、そんな冷たい数字の羅列ではなく、もう少し『優しい言葉の補給』をいただきたいものですわ?」


「ぐ、……っ! 女の機嫌を取る数式など、私の手帳には一行もない……!」


 真っ赤になって視線を逸らすナポレオン。 その様子を遠くから見つめていたランヌが、ダヴーの肩を激しく叩きながら、宮廷中に響き渡るような大爆笑をあげた。


「おいダヴー、見たかよ閣下のあの顔! っしゃあ、俺の勝ちだ! 給与半分、しっかりもらうぜ!」


 マリー王妃もまた、その凸凹な二人の様子を嬉しそうにニヤニヤと見守っている。


 イギリスとオーストリアの全欧州包囲網という巨大な絶望が迫る中、天才ナポレオンの数式ノートに、生涯消えることのない「薔薇の香り」が、確かに染み付いた瞬間であった。



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