救済の配給、王妃の伝言
冷え切った大泥沼の戦場に立ち上る、白いスープの湯気。
それは、数時間前まで互いの肉を抉り合っていた地獄の戦場を、あまりにも優しく包み込んでいった。
フランス軍の兵士たちは、泥塗れの体に包帯を巻きながら、大釜から溢れるスープとポテトケーキを、動けなくなったプロイセン兵たちの喉元へと淡々と配給していく。
あまりの濃厚なコクと美味さに、飢えと死の恐怖で狂っていたプロイセン兵たちは、大粒の涙を流して貪り食った。
「……謀ったな、ボナパルト! 大砲も撃たずに我が軍を泥に沈め、挙句に飢えた犬のようにエサで釣るか!」
だが、総大将ブルーヘル将軍だけは、濁った泥水を吐き捨て、抜身の軍刀を握り直してナポレオンを睨みつけていた。
「我らプロイセンの軍人は、お前たちの施しを乞うために国境を越えたのではない!誇りを汚されるくらいならば、今すぐこの場で全軍を斬首しろ!!」
ここで屈辱的な施しを受け入れれば、祖国のプライドが死ぬ。
その最後の意地だけが、餓死寸前の老将を支えていた。
ナポレオンは、高台からゆっくりと泥を踏み締め、ブルーヘルの目の前へと歩み寄った。
声を荒らげることもなく、ただ算術手帳を懐に収め、冷徹な現実の数字を叩きつける。
「誇り、ですか。おめでたい将軍だ。
お前がそのくだらないプライドを盾にしてここで死ねば、プロイセン全土で明日餓死する数万の子供たちはどうなる?……彼らもお前の言う『誇り高き死体』として、土に還るだけだな。死人にプライドは守れないぞ?ブルーヘル将軍」
「ぐ、……う……っ!」
ブルーヘルが息を呑み、絶句する。
ナポレオンの言葉は、彼が最も恐れていた「祖国の全滅」という核心を、正確に、深く突き刺していた。
「勘違いするな。これは貴公らの命を繋ぐための、ただの最初の配給だ。我がフランスではどこでも出てくる、極めて一般的な飯に過ぎない。そしてこの果実は、どこの土地でも育つ。冷害に喘ぐ貴公らの寒冷地だろうが問題はない。むしろ、寒冷地の方が美味く育つらしい」
ナポレオンは一呼吸置き、ベルティエが爆走馬車から降ろさせた「一箱の木箱」をブルーヘルの足元に置いた。
中に入っていたのは、瑞々しい緑の葉をつけた、大量の『ジャガイモの苗』だった。
「我が国の思想の根幹を伝える。三百五十年前に奇跡を起こした初代聖女、ジャネット様から続く教えだ。――『パンは配ればなくなる。必要なのは自立だ』と。我が国が食料を分けてしまえば、いつか尽きて終わりだ。それではお前たちは一生、飢えの恐怖から逃れられない」
ナポレオンは、苗の横の泥に、一本のクワを真っ直ぐに突き立てた。
「だから、その剣を鍬に、大砲を道に捧げよ。貴殿のその『前進』という凄まじい執念を、他国への侵略ではなく、自国の復興に向けられないか?飢えをなくすやり方なら、我がフランスがいくらでも教えてやる。お前たちのその強固な規律で、自国の大地をこの芋で満たしてみせろ」
ナポレオンは手を差し伸べ、冷徹だが圧倒的に巨大な救済の選択肢を突きつけた。
「断るというなら、このまま飢えたまま故郷へ帰れ。我が軍は追撃もしない。しかし……もしその手を取るならば、我がフランスは、決して貴公らを見捨てたりはしない」
「……おお……っ」
ブルーヘルの目から、ついに堪えきれない大粒の涙が溢れ、白髭を濡らして泥へと落ちた。
老将はガタガタと震える手で、地面のクワを、そしてアツアツのスープの器を、両手で愛おしそうに抱きしめた。
ナポレオンはさらに、懐から蝋で厳重に封印された一通の『手紙』をブルーヘルに差し出した。
「これを、貴公の王宮と民へ持ち帰り、伝えてほしい」
「……手紙、だと? これは何だ、ボナパルト」
「我が国の、今の王宮の言葉だ。『パンがなければケーキを食べればいい』。かつて我が国の王妃マリー・アントワネット王妃陛下が叫んだ、あの言葉の真意がここに書かれている」
ブルーヘルは涙を拭い、泥塗れの手でその手紙を恭しく受け取った。
「あの言葉は、贅沢に狂った悪女の戯言などではない。パンを実らせる小麦が死んだのなら、泥にまみれてでも、ケーキの原料となるこの芋を植え、一人残らず飢えから救ってみせるという、我が国の王妃の命懸けの願いだ。その苗と手紙を国へ持ち帰り、我がフランスの思想と、芋の真の価値を伝える布告人となれ。……それが、お前たちが今日、生きて国へ帰るための唯一の条件だ」
「……フランスの、王妃……」
ブルーヘルは手紙と苗を胸に抱きしめ、天を仰いで慟哭した。
プロイセンの五万の大軍が、侵略者から「復興の開墾部隊」へと生まれ変わり、感謝の涙を流しながら国境へと引き返していく。
一発の銃弾も交えず、世界を胃袋から一つの家族へ繋ぎ直す、フランスの真の勝利だった。
プロイセンの軍勢が去ったその夜。
最前線基地の天幕で、ナポレオンは薄暗いランプの光の下、白紙の羊皮紙を一枚広げていた。
ベルティエ、ランヌ、ダヴーたちが次の防衛線の仕込みへと向かい、天幕が静まり返った後。
ナポレオンは、フランス軍のどの部隊編成にも載っていない『一つの極秘の行軍ルート』を、ただ静かに、黙々と書き殴り始めた。
「……閣下、それは?」
戻ってきた参謀長のベルティエが、不気味な白紙の書類に目を留め、微かに眉をひそめる。
ナポレオンは、ベルティエにすらその中身を明かさず、書き終えた羊皮紙を厳重に密印すると、それを懐の最も深いポケットへと滑り込ませた。
「これより始まる全欧州との大戦。盤上の駒の動かし方だけでは、数の暴力には勝てない。
だからこそ、私は盤外に、手札を一枚伏せた」
「手札、ですか」
「ああ。イギリスのネルソンも、ウェリントンも、己の算術が完璧だと盲信している。奴らがフランスを完全に包囲し、勝利を確信して盤上の全ての駒を動かしきったその瞬間――この伏せ札を裏返し、奴らの脳髄を根底から圧倒してやる」
ナポレオンが盤外の暗闇へと伏せた、たった一枚の極秘の手札。
それこそが、のちの戦いにおいて、全ヨーロッパ大同盟の化け物たちを絶叫させ、歴史の地図を丸ごとひっくり返すことになる、最大の逆転の伏線であった。
「さて、甘っちょろい理想主義者の王妃様……。
あなたのドレスを世界最強の防波堤にするための仕込みは、すべて終わりましたよ」
ナポレオンは帽子を深く被り直し、ランプの火を吹き消した。
激しい豪雨の闇の中、天才ナポレオンが全欧州の嫉妬を迎え撃つための大戦記がいよいよ本格的に動き出す。




