マリーアントワネットひまわりの旅立ち
――西暦1770年。
「――マリー、私の可愛い、お転婆なひまわり。どうか、この約束だけは忘れないでおくれ」
重厚なバロック様式が美しいオーストリア・ホーフブルク宮殿の片隅で、女帝マリア・テレジアは、翌朝にフランスへの出立を控えた末娘を、壊れ物を扱うように強く抱きしめていた。
その力強い腕の震えと、首筋に落ちてきた一滴の熱い涙に、十五歳のマリー・アントワネットは弾かれたように顔を上げた。
「お母様……? なぜ泣いておいでなのですか? 私は大丈夫です。フランスへ行って、あちらの王太子様と、たくさんの民の皆さまを、私の笑顔でいっぱいにしてみせますわ!」
無邪気に胸を張る娘の輝かしい瞳を見て、女帝はさらに胸を締め付けられる思いだった。
ヨーロッパの頂点に君臨する名門ハプスブルク家の女帝が、いま、一人の母親として、端正な顔を悲痛に歪めながら、飢えに瀕する一国の主としての重い十字架を娘の小さな背中に託そうとしていた。
見上げるマリーの容姿は、オーストリア宮廷の誰もが「至宝」と称えるほどの瑞々しい美少女そのものだった。
ハプスブルク家特有の気品に満ちた、透き通るような白磁の肌。
いたずらっぽく輝く大きな瞳は、晴れ渡った空のように澄んだアクアブルーをたたえている。
そして何より目を引くのは、緩やかに波打つ、輝くようなプラチナブロンドの髪だった。
窓から差し込むかすかな光を浴びて、まるで上質な絹糸のように美しくきらめいている。ただ美しいだけでなく、その佇まいには、見る者の心を一瞬で明るく照らすような、生命力に満ちた愛らしさがあった。
窓の外を見遣れば、美しいウィーンの街並みは薄暗い灰色の雲に覆われ、初夏だというのに凍えるような冷気がガラスを叩いている。
ここ数年、ヨーロッパ全土を襲っている原因不明の記録的な冷害。それはオーストリアの豊かな穀倉地帯を直撃し、いまや国内の小麦の備蓄は限界を迎えつつあった。民の配給を減らし、軍の倉庫を開放してもなお、明日のパンがない。
そんな地獄が、すぐそこまで迫っていた。
「いいえ、マリー。お前が笑顔にすべきは、フランスの民だけではないのです。……これを、見ておくれ」
マリア・テレジアが震える手で差し出したのは、厳重に封印された一通の密書、そしてオーストリアの全農地における食糧枯渇の累積データだった。
数字を読むのが苦手なマリーでさえ、そこに並ぶ赤い文字が「このままでは我が国は冬を越せずに全滅する」という、絶望の宣告であることは容易に理解できた。
「お母様、これは……」
「ヨーロッパで唯一、この冷害の地獄に抗えている国がある。それが、フランス王国なのです」女帝は娘の華奢な肩を掴み、すがるような目で見つめた。
「350年前、かの国の偉大なる初代聖女ジャネット・パテーが遺したという『黄金の麦』。あの奇跡の品種だけは、どんな冷害にも、どんな病にも負けず、フランスの大地に今も満ち足りた実りをもたらしている。マリー……これは単なる政治同盟の結婚ではありません。我が国の飢えた民を、何百万人もの同胞を救うために、お前がフランスの『黄金の麦』をオーストリアへ繋ぐ架け橋となるのです」
それは、史実のような権力闘争の道具としての政略結婚ではなかった。
「飢えから国を救ってほしい」という、血を吐くような母の願い。
そして、命の種を求める悲痛な密命。十五歳の少女の胸に、かつてない激しい衝撃が走った。
だが、マリーは怯えて俯くことはしなかった。
彼女の胸の奥で、持ち前のお転婆な情熱と、驚くほどの純真な義務感がカチリと音を立てて噛み合う。
(私が、お母様を……オーストリアの皆さまを救う。いいえ、フランスの皆さまも、世界中の誰も、私が一人だって飢えさせはしませんわ!)
「分かりました、お母様」マリーは母の涙をその小さな指先で優しく拭うと、この世で最も美しい、満開のひまわりのような笑顔を浮かべた。
「私はフランスへ行きます。税金を贅沢に使うためではなく、ジャネット様の奇跡の小麦をたくさん手に入れて、必ずやお母様のもとへ届けるために。私にお任せくださいな!」
その言葉に嘘偽りはなかった。
ただ、この時のマリーはまだ知らなかったのだ。
350年もの間、その「聖女の奇跡」を守り続けてきたフランス宮廷が、どれほどまでに冷徹で、そして歪んだ「清貧の呪縛」に縛られた異様な空間であるかを。
――翌朝。抜けるような青空とは裏腹に、張り詰めた緊張感の中、マリー・アントワネットを乗せた豪華な馬車は、オーストリア宮廷の門をくぐり抜けた。
国境であるライン川の中州。そこで彼女は、生まれ育ったオーストリアの衣服をすべて脱ぎ捨て、フランス王室が用意した純白のドレスへと着替えさせられる。
「花嫁引渡しの儀式」だ。オーストリアでの過去をすべて現地に置き去りにし、完全にフランスの人間となるための厳格な儀礼。
しかし、手渡されたフランスの最高級ドレスに袖を通した瞬間、マリーは微かな違和感に眉をひそめた。
(……あら? 絹の質は素晴らしいけれど、刺繍も飾りも、驚くほど控えめですのね? まるで、修道女様の衣服のようですわ……)
華やかで豪華絢爛なオーストリア宮廷で育ったマリーにとって、そのドレスは「フランス王室の威厳」を示すものとしては、あまりにも質素で、どこかストイックな気配を漂わせていた。
「さあ、王太子妃殿下。フランス王宮の皆さまがお待ちです」
案内を乞う近衛兵たちの表情もまた、一様に硬く、真面目そのものだった。
馬車がフランス領内へと進むにつれ、車窓から見える景色にマリーは目を見開いた。
母から聞いていた通り、ヨーロッパの他国が寒冷化で枯れ果てているというのに、フランスの広大な大地には、見渡す限りの見事な緑――ジャネットの遺産である「黄金の麦」の苗が、力強く芽吹いていた。
どこまでも続く生命の輝きがそこにはあった。
「まぁ……! なんて素晴らしい大地かしら!」
密命への希望に胸を膨らませながら、ついに馬車はフランス王国の中心、ヴェルサイユ宮殿の巨大な鉄門へと到着する。
だが、馬車の扉が開いた瞬間、マリーを迎え入れたのは、熱狂的な歓声ではなかった。
水を打ったように静まり返った広大な謁見の間。そこに並ぶフランスの大貴族たちは、地味な色合いの衣服に身を包み、まるで厳かな宗教儀式に臨むかのように、一糸乱れぬ動きで深く首を垂れていた。
きらびやかな宝石も、贅沢な夜会の喧騒もそこにはない。
そして、玉座の前で真っ直ぐに背筋を伸ばし、新時代の王妃となる少女を冷徹なまでに見つめている、一人の大柄な少年。彼こそが、マリーの夫となるフランス王太子、後のルイ16世であった。
彼の背後には、350年前に初代聖女が残したとされる「白銀の旗」が、重々しく掲げられている。
その旗の威圧感と、宮廷を支配する異常なまでの静寂に、マリーの背筋に冷たいものが走った。
(ここは……お菓子やダンスで笑い合う、華やかな宮殿ではありませんの? まるで、巨大な『教会』のようですわ……)
お転婆で純真なオーストリアのひまわりが、ついにフランスの冷たい大地へと降り立った。
母との約束を果たすため、そしてこの堅苦しい宮廷の運命をひっくり返すための、マリー・アントワネットのあまりにも過酷で、しかし最高に痛快な戦いが、今ここから始まろうとしていた。




