第28話 迷宮崩壊――現代へ這い出した黒龍
足元へ集めた魔力を爆発させた瞬間、崩壊しつつあった城下町の景色は、色と形を保てないほどの速度で後方へ流れ去った。
左右の腕には朱音とユナを抱えている。二人の肉体をただ持ち運ぶだけなら難しくはないが、人間の身体には耐えられる加速度の限界があり、俺だけが全速力で走るわけにはいかなかった。そこで二人の周囲へ薄い魔力障壁を幾重にも展開し、風圧、振動、急激な方向転換による負担を外側へ逃がしながら、砕け落ちる城下町を一直線に駆け抜けていく。
背後からは、大地が崩壊する轟音が追いかけてきた。
青い月に照らされていた偽りの空はすでに大半が砕け、剥がれ落ちた夜空の向こうには、現代日本の灰色がかった空と、多摩第五ダンジョンを包囲していた協会施設が断片的に見えている。異なる二つの空間が互いへ食い込み、崩れた建物や石畳が現実世界へ吸い出されていく光景は、ダンジョンが消滅するというより、一つの世界がもう一つの世界へ無理やり吐き出されているようだった。
「湊、右! 大きな亀裂が来る!」
朱音の声とほぼ同時に、前方の地面が縦に裂けた。底の見えない亀裂から赤黒い魔力が噴き上がり、その中には迷宮の崩壊へ巻き込まれた無数の魔物の影が見える。俺は速度を落とさず、崩れかけた鐘楼の破片を足場として踏み抜き、数百メートルに及ぶ裂け目を跳び越えた。
『速すぎる!』
『カメラが追いついてるのがおかしい』
『二人抱えたまま飛んだぞ!?』
『地上では龍が半分以上出てる!』
『自衛隊の攻撃が効いてない!』
浮遊カメラの映像は激しく揺れていたものの、コメント欄は途切れずに流れ続けている。普段なら一つ一つを読む余裕などなかったが、今は地上の状況を知るための唯一の情報源であり、視界の端へ表示された文字を走りながら拾っていった。
龍種はすでに頭部と両腕を地上へ露出させ、協会の封鎖線を押し潰しながら這い出ようとしている。周辺にはA級を中心とした探索者部隊が展開しているものの、鱗へ攻撃を集中させても傷一つ付けられず、吐き出された炎によって防衛線が後退を余儀なくされているらしい。
「ユナ、地上の映像を表示できますか?」
「やってみます!」
ユナは俺に抱えられたまま端末を操作し、配信画面の一部へ外部から送られてきた映像を重ねた。
そこに映っていた龍は、俺が想像していた以上に巨大だった。
地上へ出ている上半身だけでも三十メートル近くあり、全身を覆う黒紫色の鱗は、光を反射するというより周囲の明るさそのものを吸い込んでいるように見える。頭部から伸びた四本の角には赤黒い魔力が絡みつき、翼はまだ迷宮内部に埋まっているにもかかわらず、周囲の空気を震わせるほどの圧力を放っていた。
アステリオンで戦った竜種と比較しても、間違いなく上位に位置する。
ただし、俺が知る個体と完全に同じではない。
通常の黒竜は高い知性を持ち、敵の力量を見極めるまで無闇に攻撃しない。ところが地上へ現れた龍は、近づくものすべてへ無差別に爪と炎を振るい、逃げ惑う人間と建造物の区別さえついていないようだった。
暴走している。
あるいは、迷宮崩壊によって自我を失っている。
「このままだと、地上へ出た瞬間に翼を広げます」
飛翔を許せば被害範囲は一気に拡大する。山間部だけでは済まず、短時間で市街地へ到達する可能性もある。何より、あれだけの巨体が空から炎を吐けば、現在展開している探索者だけでは民間人を守り切れない。
「あとどれくらいで出られるの?」
「三十秒です」
「三十秒……?」
朱音が息を呑んだのは、距離の短さではなく、俺が見えない出口までの距離と到達時間を即座に割り出したことに対してだろう。だが説明している余裕はなかった。
崩壊する街の外縁へ到達すると、前方には現実空間へ繋がる巨大な亀裂が広がっていた。しかし、その直前には鐘楼の主が配置したと思われる黒い障壁が残り、逃げ場を失った魔物たちが出口へ殺到している。コボルト、オーガ、骸骨兵、そして赤黒く核を染めた異常個体。数百体もの群れが互いを押し潰しながら、現実へ通じる裂け目へ群がっていた。
すべてを相手にしている時間はない。
「二人とも、目を閉じていてください」
俺は二人を抱えたまま空中へ跳び上がり、《黒天》を右手だけで抜いた。魔物そのものではなく、出口を塞ぐ障壁と、そこへ繋がる術式だけを狙うため、刃へ流す魔力を極限まで細く圧縮していく。
「剣技――穿界」
突き出した《黒天》の切っ先から、一本の青白い光が放たれた。
斬撃というより、空間に穴を開けるためだけに研ぎ澄まされた刺突。その光は魔物の群れの頭上を通過し、黒い障壁の中心を正確に貫くと、背後にある現実世界との境界まで一直線に穿ち抜いた。
丸く開いた穴の向こうから、現代の陽光と爆発音が流れ込んでくる。
俺は空中で《黒天》を鞘へ戻し、開いた出口へ向かってさらに加速した。
障壁を通過した瞬間、視界を満たしていた青い月と崩壊する城下町は消え、代わりに火災と粉塵に覆われた現代の山林が広がった。
地上へ帰還した。
そう理解するより早く、耳を劈く咆哮が周囲の空気を押し潰した。
「グオオオオオオオオオオオオッ!」
巨大な黒龍が、ちょうど後ろ脚までダンジョンから引き抜こうとしているところだった。
地面へ突き立てられた前脚だけで大型建造物ほどの大きさがあり、その爪が僅かに動くたびに協会施設の壁や車両が紙細工のように押し潰されていく。口元から漏れる炎は赤ではなく、中心部が黒く染まった紫色をしており、吐息へ触れた木々は燃えるより先に灰へ変わっていた。
周囲では探索者たちが必死に応戦していた。
複数の魔法使いが巨大な氷槍や雷撃を浴びせ、近接戦闘を得意とする者たちが脚部へ攻撃を集中させている。しかし黒龍の鱗には薄い魔力の膜が張られ、攻撃が触れる寸前に力を逸らしていた。単純な防御力だけではなく、敵の魔力を感知して表面の性質を変えているらしい。
A級探索者たちによる連携攻撃を受けながらも、龍はほとんど傷ついていなかった。
それどころか、彼らの攻撃方法を学習している。
氷魔法を受ければ鱗の温度を上げ、雷撃が来れば地面へ魔力を逃がし、剣士が接近すれば尾を地面へ叩きつけて周囲ごと吹き飛ばす。知性を失ったように暴れている一方で、戦闘本能だけは異常なほど発達していた。
「天城さん!」
黒瀬さんの声が聞こえた。
規制線の向こうで、負傷した探索者たちの誘導を行っている。俺たちの無事を確認した瞬間、一瞬だけ安堵を見せたものの、その表情はすぐに焦燥へ戻った。
「その龍は、現在の測定で災害級に指定されました! 周辺住民の避難が終わるまで、最低でも二十分必要です!」
二十分。
あの龍を相手にすれば、長すぎる時間だった。
完全にダンジョンから抜け出した龍は、背中に折り畳んでいた翼をゆっくりと広げ始めている。片翼だけでも五十メートル近くあり、羽ばたく前から周囲へ暴風が生じ、車両や瓦礫が宙へ巻き上げられていた。
「湊、私たちを下ろして」
朱音の声に従い、俺は安全が確保されている協会の防衛線付近へ着地した。二人を腕から下ろすと、朱音はすぐに《黒天》へ手を伸ばし、鞘越しに内部の魔力経路を確認する。
「鐘楼の主との戦闘と、さっきの空間穿孔で多少熱が溜まってる。でも破損はない。まだ全力で使えるわ」
「分かりました」
「……また一人で行くんですか?」
ユナの言葉には不安が滲んでいたが、俺を止めようとはしなかった。目の前の龍に対して、自分が同行すれば足手まといになると理解しているのだろう。
「ここで負傷者を守ってください。上空へ逃がさなければ、すぐに終わらせます」
俺は二人へ背を向け、《黒天》を抜いた。
その瞬間。
飛び立とうとしていた黒龍の動きが止まった。
周囲にいた数百人の探索者でも、戦車に匹敵する攻撃魔法でもなく、龍の赤い瞳は一直線に俺だけを捉えている。動物的な本能によって、自分へ近づく存在の中で誰が最も危険なのかを理解したらしい。
龍は広げかけていた翼を畳み、巨大な体を低く沈めた。
先ほどまで無差別に暴れていた姿が嘘のように、慎重な構えを取っている。
「グルルルルル……」
喉の奥から漏れた声には、明確な警戒が宿っていた。
『湊が出た瞬間、龍が止まった』
『こいつ、相手の強さが分かるのか?』
『さっきまで攻撃全部無視してたぞ』
『逃げる気じゃないか?』
『天城湊対災害級黒龍』
『同接五百万人突破!』
『世界記録更新してる!』
浮遊カメラが俺の背後へ回り込み、黒龍と向かい合う姿を映し出す。コメント欄はすでに文字を読むことが困難なほど加速していたが、俺の意識は目の前の敵へ集中していた。
黒龍は弱くない。
鐘楼の主よりも膨大な生命力と魔力を持ち、現代の探索者たちによる攻撃へ瞬時に適応する知性もある。さらに、完全に翼を広げれば空中戦へ持ち込むこともできる。
それでも。
「空へ行かせるわけにはいかない」
俺が一歩を踏み出すと、黒龍は本能的に後脚を引いた。
自分より遥かに小さな人間を前にして、災害級と認定された龍種が初めて後退した。
その事実に最も驚いていたのは、周囲の探索者でも配信を見守る視聴者でもない。
赤い瞳を見開き、信じられないものを見るように俺を見下ろす黒龍自身だった。
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