第26話 鐘楼の主は、勇者を待っていた
門の向こうに広がっていた城下町は、現代日本の地下に存在する景色とは到底思えなかった。
頭上には青白い満月が浮かび、夜空には雲も星もなく、ひび割れた石畳の両脇には異世界の建築様式に酷似した家屋が並んでいる。木と石を組み合わせた古い建物はどれも長い年月を放置されたように崩れ、窓から覗く室内には生活用品らしきものが残されているにもかかわらず、人間の姿だけが綺麗に消えていた。
空気には土や血の臭いよりも、冷たく澄んだ魔力の気配が満ちている。
俺が十年間を過ごしたアステリオンのものに近く、それでいて完全には一致しない。記憶を元に再現された偽物の街を歩いているような違和感があり、目に映る一つ一つの景色が懐かしさと警戒心を同時に刺激していた。
『これ本当にダンジョンの中?』
『空があるんだけど』
『異世界に繋がった?』
『配信の映像加工じゃないよな?』
『門を越えた瞬間、位置情報が消えたらしい』
浮遊カメラを通して流れるコメントは、すでに国内の探索者配信としては異例の速さになっていた。同時接続者数は門を開いた時点で百五十万人を越え、国外からの視聴者が流れ込んだことで、自動翻訳された複数言語の文字まで画面を埋め始めている。
もっとも、俺は視聴者の数よりも、城下町全体に薄く張り巡らされた魔力の糸へ意識を向けていた。
建物。
石畳。
街灯。
遠くに見える城壁。
すべてが独立して存在しているように見えて、その実、同じ一つの魔力核から供給を受けている。巨大な結界術の内部へ街一つを作り上げているのだとすれば、術者の魔力と技術は、この世界で確認されているS級探索者の水準を大きく上回るだろう。
「湊。この場所、《黒天》がずっと反応してる」
朱音は俺のすぐ後ろを歩きながら、携帯型計測器の画面へ険しい視線を落としていた。剣から発せられている共鳴は敵意や警戒というより、何か近しい存在を探している時の反応に似ているらしい。
「黒竜の素材が、この空間の魔力を知っているんでしょうか」
「分からない。でも、この街の魔力構造と《黒天》の心臓核には、部分的に同じ波長がある。偶然とは思えないわ」
黒竜種は現代のダンジョンで世界に一体だけ確認された魔物だと聞いている。その素材が異世界に似た空間へ反応するのなら、現代ダンジョンとアステリオンの繋がりは、俺が帰還して以降に始まったものではない可能性もあった。
俺たちは崩れた城下町を抜け、中央に伸びる大通りを進んだ。
途中で複数の魔物の気配を感じたものの、襲撃はなかった。黒い外套を纏ったゴブリンや、槍を持つ骸骨兵が路地や屋上から俺たちを見つめており、その全員が俺の顔を確認すると、武器を下げて静かに道を譲った。
彼らの瞳に浮かんでいるものは、忠誠ではない。
畏怖。
憎悪。
期待。
そして、長い間待ち続けた者をようやく見つけたような安堵。
魔物によって抱く感情は異なっていたが、俺を知っているという一点だけは共通していた。
「皆、天城さんを見ています」
「はい。ただ、以前会った魔物たちとは少し違います。あいつらは記憶を与えられたばかりでしたが、ここの魔物は自分たちの意思で俺を認識している」
ユナが杖を構え直しながら周囲を警戒する。俺が戦闘へ介入しないという当初の配信方針は、迷宮がS級へ変質した時点ですでに意味を失っていた。今の二人はコラボ相手でも鍛冶師でもなく、未知の領域へ同行した仲間として、自分にできる役割を果たそうとしている。
城へ近づくにつれ、鐘の音が大きくなっていった。
最初は遠くから聞こえる低い音だったものが、今では空気そのものを押し潰すような圧力を伴い、鳴るたびに街の建物や地面へ刻まれた魔法陣を青く発光させる。鐘楼は城の中央ではなく、最上部の尖塔からさらに突き出した場所に建っており、その下には巨大な人影が立っていた。
正門に門番はいなかった。
城内にも兵士の姿はなく、俺たちが近づくと扉は独りでに開いた。
内部は王城というより、巨大な墓所に近かった。
壁には無数の武器が飾られ、床には青白い花びらが敷き詰められている。長い回廊の両側には顔を削り取られた石像が並び、台座にはアステリオンの文字で、王、賢者、聖女、騎士といった称号だけが刻まれていた。
どれも個人名がない。
まるで、誰かが記憶の中から役割だけを抜き取り、それを模倣して作ったようだった。
「気をつけてください。ここから先は、すべて見られています」
俺が告げた直後、回廊の壁面へ一斉に青い炎が灯った。
『ようやく来たか』
聞こえてきた声は、これまで迷宮の奥から響いていたものと同じだった。しかし今回は空間全体からではなく、鐘楼の上から明確な方向を伴って届いている。
『聖剣を失い、加護を失い、名もなき剣を携えながら、それでも勇者を名乗る者よ』
「俺は自分から名乗った覚えはありません。そちらが勝手に呼んでいるだけです」
『では否定するか。貴様がアステリオンの魔王を討ち、その心臓を砕いた者であることを』
俺たちの足が止まった。
その事実を知っている者は、異世界でも限られていた。
魔王を倒したことは広く知られていたが、最後の一撃が心臓核を砕いたものだと知るのは、決戦の場にいた仲間と魔王軍の最高幹部だけだったからだ。
『嘘じゃなかった』
『相手、魔王討伐の詳細を知ってる?』
『本当に異世界から来た奴なのか』
『鐘の主って何者なんだよ』
コメント欄が激しく流れる中、俺は《黒天》を鞘から抜いた。青白い紋様が強く輝き、城全体に満ちていた魔力とぶつかり合うように低い唸りを上げる。
「姿を見せてください」
『よかろう』
鐘が鳴った。
直後、城内の重力が変化した。
壁も床も天井も関係なくなり、回廊そのものが巨大な塔の内部へ組み替わっていく。俺たちの体が落下する感覚に襲われたものの、実際には床が垂直に立ち上がり、鐘楼へ向かう螺旋階段へ変形していた。
俺は朱音とユナの腕を掴み、姿勢を崩した二人を引き寄せると、魔力を足元へ流して新たな床へ着地した。
見上げた先には、巨大な鐘が吊るされていた。
その前に、一人の騎士が立っている。
背丈は二メートルを越え、全身を古びた漆黒の鎧で覆い、背中には幅広の大剣を背負っていた。兜の顔部分には縦一文字の亀裂が走り、その奥から紫色の炎が静かに揺れている。
俺はその鎧を知っていた。
形状も、肩へ刻まれた狼の紋章も、大剣の柄に巻かれた赤い布も見間違えるはずがない。
「黒狼騎士団……」
『やはり覚えていたか』
漆黒の騎士は兜へ手を掛け、ゆっくりと持ち上げた。
鎧の中に、人間の顔はなかった。
空洞。
ただし、その中央には人間の心臓に似た紫色の結晶が浮かび、周囲を黒い煙が満たしている。
『我が名は、もはや存在しない。かつて黒狼騎士団を率い、魔王城東門にて勇者と剣を交えた者の記憶を継ぐ器だ』
東門。
その言葉だけで、俺の脳裏へ数年前の光景が蘇った。
炎に包まれた城壁。
崩れ落ちる兵士たち。
そして一人で東門を守り続け、俺たち勇者一行を半日近く足止めした、魔王軍最強の騎士。
黒狼将ガレス。
最後まで魔王への忠誠を捨てず、俺の剣を受けて死んだ男だった。
「あなたは、ガレス本人ではないんですね」
『その通り。我は彼の記憶、技、憎悪、そして最後の願いを迷宮より与えられた存在。されど、我が貴様を勇者と認識していることに偽りはない』
「では、鐘を鳴らし、迷宮をS級へ変えたのもあなたですか?」
『我に与えられた役割は、勇者の再来を確認し、その力を測ること。貴様が弱き者へ成り果てていたなら、この街ごと呑み込み、新たな王の糧となるはずだった』
新たな王。
初めて出てきた言葉だった。
だが、問い詰めても簡単に答えるとは思えない。黒狼将ガレスの記憶を持つのなら、忠誠心も頑固さも本人と同様だろう。
「魔物たちを操り、無理やり強化したのも試験ですか?」
『弱者に意思は不要。主の力を受け入れ、役割を果たせばよい』
その言葉を聞いた瞬間、俺の中に残っていた躊躇いが消えた。
目の前の存在が本人ではないことは理解している。ガレスの記憶を与えられた器であり、彼が本当に同じ考えを持っていたかどうかも分からない。
それでも、意思を持つ魔物を道具として扱い、自我を奪うことを当然とする存在を放置するつもりはなかった。
「話し合いは、ここまでですね」
俺が《黒天》を正面へ構えると、漆黒の騎士も背中の大剣を引き抜いた。
剣が抜かれただけで、鐘楼を満たしていた空気が悲鳴のように震える。黒い魔力が騎士の足元から噴き上がり、その背後に巨大な狼の姿を形作ると、探索者端末に表示されていた危険度判定が何度も更新された。
『測定不能』
『推定S級上位』
『危険度再計算――災害級』
『やばい、ミノタウロスの時より上だ』
『湊の異世界時代の敵ってこと?』
『初めて本気の相手が来たぞ!』
『同接三百万人突破!』
『世界中が見てる!』
コメントの奔流が視界を埋め尽くす中、朱音とユナは俺の背後へ距離を取った。二人とも怯えていないわけではない。それでも逃げ道のない場所で取り乱さず、俺の戦いを妨げない位置へ移動した判断は正しかった。
「湊。《黒天》は問題ない。どれだけ魔力を流しても受け止められる」
「天城さん。後ろは私が守ります」
二人の声を背に受け、俺は静かに呼吸を整えた。
黒狼将ガレス。
かつての俺は、仲間四人と力を合わせ、半日を費やしてようやく彼を倒した。
だが、あれから数年が経っている。
数え切れないほどの戦場を越え、魔王を倒し、さらにその力を持ったまま現代へ帰還した。
『来い、勇者』
鐘楼の主が大剣を振り上げる。
黒い魔力が嵐となり、城下町全体を震わせた。
『我を越えられぬ者に、王へ至る資格はない!』
床が爆ぜた。
漆黒の騎士が一歩を踏み込んだ瞬間、鐘楼から彼の姿が消え、次の瞬間には俺の頭上から大剣が振り下ろされていた。
速い。
現代へ帰還してから戦ったどの魔物よりも。
強い。
あの頃の黒狼将を遥かに上回るほどに。
それでも俺は、一歩も退かなかった。
《黒天》を振り上げ、漆黒の大剣を正面から迎え撃つ。
二本の剣が衝突した瞬間、音が消えた。
遅れて生じた衝撃が鐘楼を中心に円状へ広がり、青い月に照らされた雲を吹き飛ばし、眼下の城下町を囲む城壁へ巨大な亀裂を走らせる。吊るされていた鐘が激しく揺れ、誰も触れていないにもかかわらず、耳を潰すほどの音を連続して響かせた。
『うおおおおお!』
『画面が揺れすぎて何も見えない!』
『剣を合わせただけだよな!?』
『街が崩れてるぞ!』
『これが災害級同士の戦闘……?』
鐘楼の主は大剣へさらに魔力を注ぎ込み、俺を床ごと押し潰そうとする。黒い狼の幻影が背後で牙を剥き、その咆哮が精神を直接砕く呪いとなって襲いかかってきたが、俺は《黒天》を握る腕へ僅かに力を込め、相手の剣を押し返した。
『何……?』
「確かに、以前のガレスより強い」
一歩。
俺が前へ出た瞬間、鐘楼の主の巨体が後方へ押し戻された。
「ですが、俺もあの頃のままじゃありません」
さらに一歩を踏み込む。
大剣を受け止めたまま腕を振り抜くと、漆黒の騎士は空中へ弾き飛ばされ、巨大な鐘を突き破って夜空へ放り出された。砕けた鐘の破片が青い月の下へ舞い散る中、鐘楼の主は空中で体勢を立て直し、背後の黒狼を鎧へ吸収しながら、さらに巨大な姿へ変貌していく。
鎧の隙間から紫色の炎が噴き上がり、大剣の刀身が城の尖塔ほどの長さまで伸びていく。
『素晴らしい』
低い笑い声が、城下町全体へ響いた。
『それでこそ、我らが待ち続けた勇者だ』
俺は崩れかけた鐘楼の縁へ立ち、《黒天》を肩へ担いだ。
相手はまだ本当の力を見せていない。
そして俺も、今の一撃ではほとんど力を使っていなかった。
青い月の下。
異世界の記憶を持つ鐘楼の主と、現代へ帰還した勇者。
二人の戦いは、世界中が見守る配信の中で、ようやく始まったばかりだった。
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