第18話 市場の小さな影
午前の市場は、思っていたよりも、ずっと、賑やかだった。
街道沿いの広場から、東のほうへ、すうっと、伸びる通りに、布の天蓋を張った露店が、ぎっしりと、並んでいる。
野菜、塩漬けの肉、香辛料、革紐、靴の修理屋。
そのあいだを、子どもが、ばたばたと走り、女たちが、籠を抱えて、値段を交渉している。
「カゲトさん、はぐれそうです」
「ぼくの、左の袖、軽く、つまんでてください」
「あ、はい」
ステラが、カゲトの左の袖を、指先で、ちょん、と、つまんだ。
ふたりは、人の流れに、すこしずつ押されながら、東のほう、武具屋の看板が見える方向へ、ゆっくりと歩いた。
通りの中ほどで、
ふいに、
カゲトの腰のあたりに、
ふっ、と、
ごく軽い、しかし、不自然な、触れ方が、あった。
それは、人混みのなかでぶつかる、ふつうの肩の触れ方では、なかった。
もっと、そっと、
何かを、引き抜くような、
そういう、触れ方だった。
カゲトの身体は、考えるより、先に、動いていた。
腰のあたりに、すっ、と、左手を、回しながら、
すれ違いざまに、自分の右の腰の、紐の財布があるべき位置を、てのひらで、確かめた。
ない。
「あっ」
カゲトの目が、すぐ、自分の半歩、斜め後ろを、すり抜けていく、小さな、茶色い背中を、捉えた。
子どもだった。
頭のてっぺんが、ステラの胸のあたりにも、届かないくらいの、小柄な、子ども。
茶色の、ぼさぼさの短髪。
ぱっと見ても、ぱっと見すぎないように、人混みに紛れる、慣れた走り方だった。
「ステラさん、すみません、ちょっと」
「あっ、はい」
カゲトは、ステラの指先から、自分の袖を、そっと外して、
すうっ、と、その茶色の背中の、後ろを、追った。
走っては、いなかった。
ただ、人混みのなかで、いちばん、開いた隙を、選んで、選んで、半歩ずつ、距離を詰めた。
子どもは、自分が追われていることに、まだ、気づいていなかった。
ふつうに、人混みを抜けて、通りの脇の、細い路地に、ふっ、と、入った。
カゲトは、そのすぐ、後ろから、
路地に、入った。
路地のなかは、急に、声が、薄くなった。
子どもは、ようやく、ふっ、と、後ろを、振り返って、
カゲトと、目が、合った。
その瞬間、子どもの目つきが、ぱっと、変わった。
街の音から、隔離された、捕食側に追われた、小さな獣の目だった。
子どもが、走り出そうとした、そのほんの半歩、前に。
カゲトの右手が、すうっと、子どもの細い手首を、軽く、掴んだ。
強くは、握らなかった。
ただ、逃げられない、その方向にだけ、力を、置いた。
「あ、ちょっと、ちょっと」
子どもは、ばたばた、と、両足で、地面を、軽く、蹴った。
ぐ、と、引いても、抜けないことが、すぐに、分かったらしい。
「離せってば。離せって」
「ごめんなさい、離せないです」
カゲトの声は、ふだんの、ふっとした低さのままだった。
「君、いま、ぼくの財布、持ってますよね」
「し、知らねえよ、財布なんて」
「ポケットの、ちょうど、お腹のほう、ふくらんでます」
「……」
子どもは、口を、ぐ、と、噛んだ。
「カゲトさん、見つけました?」
ステラの声が、路地の入口から、聞こえた。
ぱた、ぱた、と、軽い足音が近づいてきて、彼女は、カゲトと、子どもの脇に、ふっ、と、立った。
子どもの目線が、ステラを、見上げた、その瞬間、
子どもの動きが、
ぴたっ、と、止まった。
「……」
子どもの口が、ぽかんと、半分、開いた。
子どもは、もう、暴れなかった。
ステラを、ぽかんと、見上げたまま、
何度か、ぱちぱち、と、瞬きをした。
ステラは、その様子を見て、ふっ、と、すこし、眉を寄せた。
責めるような寄せ方では、なかった。
困った、ような、寄せ方だった。
そして、彼女は、
すうっ、と、
その場で、膝を、軽く、折った。
子どもの目線の高さに、自分の目線を、合わせるための、屈み方だった。
ステラの背丈は、子どもより、頭、ふたつ分は、高かった。
膝を折ると、ちょうど、子どもの顔と、ステラの顔が、近くで、向かい合わせに、なった。
「ねえ、君」
「……」
「お名前、聞いてもいい?」
「……」
「言いたく、なかったら、いいよ。わたしは、ステラ」
「……ス、ステラ」
「うん」
子どもの目が、すこしだけ、揺れた。
それから、子どもは、ぐっ、と、視線を、地面のほうに、ずらした。
ステラの服の、胸元のあたりが、屈んだ姿勢だと、子どもの目線の、ちょうど、すこし下に、あった、ことに、子どもは、いま、初めて、気づいたらしかった。
子どもの頬が、ぼっ、と、薄く、赤くなった。
ぱっ、と目を、足元のほうへ、逸らした。
ステラは、それに、気づかなかったか、気づいた上で、何も言わないでいてくれたか、
どちらにしろ、表情を、変えなかった。
ただ、声の調子だけ、ほんの少し、柔らかくして、
「君、お腹、空いてた?」
子どもは、何も、言わなかった。
「お金、必要だった?」
「……うるせえ」
子どもは、低く、唸るように、言った。
「うるせえよ、姉ちゃん」
「うん」
「同情なら、いらねえ」
「うん」
「俺、孤児だからって、優しくされんの、うぜえんだよ」
「うん」
ステラは、すべて、否定しないで、聞いていた。
「うん」「うん」と、頷くだけだった。
それは、何かを諭す、ような、強い顔では、なかった。
ただ、子どもが、自分の口から、自分のことを、言い終わるまで、
ちゃんと、
待つ、
という顔だった。
子どもの口が、ふいに、止まった。
ぐ、と、上唇を、噛んだ。
それから、
子どもの目の、いちばん端のあたりに、
ぽつ、と、
なにか、湿ったものが、
うっすらと、滲んだ。
「……」
ステラは、それでも、何も、言わなかった。
ただ、自分の右の手のひらを、
そっ、と、
子どもの、握っていない側の、肩の、すぐ近くに、
置きそうで、置かない、
くらいの、ところに、
止めた。
触らないで、いてくれた。
子どもは、しばらく、地面を、見ていた。
それから、
掠れた、ちいさな声で、
「……リオ」
「うん」
「リオ、フィンチ」
「リオ、フィンチ」
ステラが、繰り返した。
「いい名前」
リオの肩が、
ほんの、すこしだけ、
ふっ、と、
下がった。
カゲトは、ステラの隣で、
リオの手首を、まだ、持ったままだった。
ただ、その握り方は、もう、
逃がさないため、ではなく、
ただ、リオが、急に、また走り出さないように、
静かに、添えてあるだけ、の、
くらいの、強さに、
なっていた。
午前の市場の、ざわめきが、
路地の入口の向こうから、
ふっ、ふっ、と、
ふたりと、ひとりの背中の方向に、
流れてきていた。




