*** おまけの小話
ユーレニの前世は虎である。
湿地帯と、そこに隣接する草丈の高い草原地帯を縄張りとしていた。
まだ若かったあの日のことは記憶にある。
水場にいた、ほんのちっぽけな野ウサギを捕まえようとして、もう少しというところで逃げられた。
ほんの一瞬、茶色の瞳と視線がかちあった気がしたが――そもそも草食動物の視野は広い。ほとんど背後までを常にチェックしているその視界は、あまり焦点が合わないはずだ。
肉食動物の、真正面に付いた目、焦点が合って距離まで測れる目とは機能が違う。
その時のことはすぐに虎の脳裏から消え去った。
逃した獲物は惜しいが、もともと狩りの成功率はそれほど高くないから。
それよりも失敗した経験を活かして次の狩りに役立てることのほうが、よっぽど重要だから。
だがこの世界に転生して、どうも女性に食指が動かなくて、焦れた家族に転生者限定のパーティへ行けと、半ば無理矢理に会場へ押し込まれて――そこで出会ったのだ、あの時の小さな野ウサギに。その生まれ変わりのヤヤルに。
その瞬間、あの狩りの一部始終を思い出した。
彼女に近寄って話しかければ、今度こそ視線がしっかりと絡まることに喜びを感じた。
そう、〝喜び〟だ。
その感情のおかげで、彼女に一目惚れしたことに気がついた。
初心な彼女を怖がらせないよう、貴族として身につけていた紳士の仮面をうまく使った。
前世の食欲は、まるっと全てが愛情に変換されていたが、初めて彼女の頬にキスをしたときは危なかった。
(……可愛い。食べてしまいたい)
きっと前世の虎の本能が影響していたのだろうと思う。もちろん今は人間だから、本当の意味での食欲ではないのだが。
姉が自身の子に向かって「あ~カワイイわぁ、んもう食べちゃいたい!」などと言うのがずっと不思議だったが、少し理解できた気がする。
己の前世と、現世の身分を隠していたことは彼女にバレた。
もちろん償いはする。一生をかけるつもりでいる。
それはすなわち、どちらかが死ぬまで側にいるということに他ならない。
「あ、あのぅ……」
ふんわりと抱きしめていると、頬を染めて恥ずかしげなヤヤルが上目遣い。きっと、『そろそろ離してほしい』と言いたいのだろうが……。
「ごめん、もう少しだけ」
ユーレニはやんわりと腕に力を入れた。
前世から続く追いかけっこは、果たしてどちらが勝利したのだろう。
いや、もとより勝ち負けなどでは計れない事柄なのだろう、生きるということは。
「ヤヤル、愛している」
こちらを見上げたヤヤルの、照れて涙の滲む顔。
この婚約者はいつだって愛らしい。
ユーレニはもう一度、柔らかなその頬に優しいキスを落とした。
おまけの小話 <了>