第五話
日が落ち、その時が近づいてくるにつれて震えが止まらなくなる。
今夜……伯爵が私に会いたいと、ロイから伝えられた。今夜……今夜か。
もう分かっていた事じゃないか。
いつかこんな日がくる、そんな事はとうの昔に分かっていた。
でもいざその時が来ると……。
「……ロイ……」
ロイの顔が、笑顔が脳裏に浮かんでくる。
今すぐ助けを求めて……あの胸に飛び込んだらどうなるのだろう。
「ロイ……」
子供達に好かれる彼の優しさが、今は憎い。
何故あんなに優しいのか。何故あんな顔で笑うのか。
もっと最初から私に辛く当たってくれたなら、こんな気持ちにならずに済んだのに。
ロイが好きだ。これでもかというくらい、好きになってしまった。
彼と一緒に、ずっと一緒に、ここで子供達と過ごしていたい。一緒にクッキーを作って、玩具を作って遊んで、ロイの似顔絵を描いて……あの地下室で、寝転んで天井のアクアリウムを眺めながら。
あぁ、とても素敵だろうな、そんな生活。
でも許されない。私はラグナル伯爵の伴侶となるべくして……ここに居るのだから。
そのために実家の借金も肩代わりして貰って……もう逃げ場はない。
窓の外が真っ暗になってくる。
私の部屋は蝋燭の灯りも消えていて、暗闇の中へと落ちる。
逃げ場……逃げ場か……。
なんとか今夜さえ凌げれば……伯爵はまた何処かへ行ってしまうのでは?
どうせ私に興味はないだろう。元々、これは偽装結婚なんだ。世間体を守る為だけの物。
ならば今夜だけ……今夜だけ逃げれば……またロイと子供達と過ごせる、平穏な日々が戻ってくるに違いない。
「ロイ、ごめん……」
私は窓を音を立てぬように明け、身を乗り出す。
ここは屋敷の二階。下までは……う、結構ある。落ちたら最悪……死んでしまうかもしれない。
でも大丈夫。私は運動神経は良い方だから。今朝、ロイに難ありなんて言われたけど。
そっと窓から足を出し、体を出し、窓枠にぶら下がるようにして、壁の突起物へと足をかける。
よし、このまま少しずつ降りれる。
「……ロイ、ごめんね……明日の朝になったら……戻ってくるから」
そう呟きながら、次の足場となる突起物を、足を揺らして探す。
よし、見つけた。このままゆっくり……
と、新しい足場へと体重をかけた瞬間、滑り落ちる私の足。
ぁ、やばい
落ち……
「何をしているんですか」
寸での所で腕を掴まれた。
いつの間にそこに居たのか、ロイが私の手を掴んでくれた。
そのまま見た目に反して力のあるロイに引き上げられ、部屋の中へと戻された。
戻された途端、私はそのままロイへと力いっぱい抱き着く。
「……? どうされたんですか。そんなに震えて……」
「……お願い、今夜だけ……今夜だけ、私を連れて逃げて……伯爵がまた留守にするまで私を隠して……」
「……それは、無理な相談です……」
なんで……なんで?
ロイなら……とっくに気付いてるでしょ?
私の気持ち、気付いてくれてるでしょ?
「ロイ……ロイ、私……貴方が好き……貴方とずっと一緒に居たい、貴方とずっと一緒に、子供達と一緒に……ずっと、ずっと、ここで貴方と一緒に……」
「……ありがとう……ございます……」
「だから……お願い、逃げて。今夜だけ、今夜だけでいいから! お願い……! この身も心も、貴方だけに……」
そのまま力強く抱きしめてくれるロイ。
暗闇の中でも分かる、ロイの優しい顔。そのままロイは私を抱きしめたまま、優しく唇を重ねてくる。
柔らかい唇。背中に手を回して、思い切りしがみ付く。もう、離れたくない。
絶対、絶対離さない。このまま、ロイと一緒に……
「……もうしわけ……ありません」
でも唇を離したロイが言い放ったのは、謝罪の言葉。
それが何を意味しているのか。馬鹿な私でも分かる。
「ロイ……嫌、嫌よ。貴方がいい……伯爵は嫌なの!」
「また……子供みたいに……」
「子供でいい……ずっと、ずっとロイがいい」
ロイはそのまま私を慰めるように……また唇を重ねてくる。
どうして……どうして?
なんで、そんなに優しくしてくれるの? どうせ伯爵の元に私を連れていくのなら……そんなに優しくしないで。もう……私の心は貴方の物なのに。
最後に私は……最後の希望を込めて……ロイへと懇願する。
どうか、どうか……
「ロイ……私を伯爵の前に……出さないで……」
「……ごめんなさい、もう、それは叶いません」
でも帰ってきたのは残酷すぎる言葉。
ここまで優しくしておいて……
「やだ、やだよ……嫌だよ! 伯爵なんて嫌い!」
「……さっき散々好きって言ってくれたじゃないですか」
「言ってない! 私が好きって言ったのはロイで……」
月明りが部屋に入ってくる。
そしてそれに照らされたロイの顔。前髪をかきあげ、ロイとは思えない程に男らしくセットされている。
「……ロイ?」
「はい……ロイです」
「……なんだか……とても偉い人みたい」
ロイは伯爵が着る、いかにも貴族らしい服装に身を包んでいた。
「ヒルデ・ヴァルミア」
そして私の名前を呼ぶロイ。
私は思わず、間抜けな声で「はぃ……」と返事をしてしまう。
「貴方を伯爵の前に出さない……というのはもう無理なのです。だって……目の前にもう居るんですから」
「…………」
思わず膝の力が抜けた。
初めてここに来た時みたいに、絨毯の上へと座り込む私。
ロイはそんな私をひょい、と抱き上げると、そのままベッドの上へと腰かける。私を膝の上に乗せ、優しく支えてくれる。
「……ロイが……ラグナル伯爵?」
「……はい」
「心臓止まるかと思った……」
「こっちの台詞ですよ。なんでよりにもよって窓から逃げようとするんですか……あと少し遅かったら……」
今頃全身に震えが。もう少しロイが遅かったら……
「え? 伯爵……いない?」
「居ますって。目の前に」
「そうじゃなくて……え? ロイ……ロイだけ?」
「ええ。この家の当主は……僕だけです」
力が抜けて、これでもかと涙が溢れ出てくる。
安心の涙……? それとも、嬉しくて……?
まだ頭が混乱しているけど……
「なんで……なんでもっと早く言ってくれないのよ……」
「まあ、ロイの方が馴染んでくれると思いまして……」
「はぁー……」
思い切り脱力。そのままロイは私をベッドに寝かせて、窓を閉める。
「どうせなら……窓の無い部屋に案内すべきでしたね」
「……子供達と一緒の地下でいいわ。もう私、あそこに住む……」
「それは……困ります」
寝ている私の手を握ってくるロイ。
手が暖かい。とても安心する。もう……離したくない。
「子供達には……その……見せれない物とか……あるじゃないですか」
「……バカ」
※
数年後
「うへへへへへ、新顔ですねぇ、姉さん。どちらの奴隷をお望みで?」
「全員」
「へえ、かしこまりました、ぜんいん……って、えええ?!」
「文句ある?」
「と、ととととんでもない! で、でもお代の方は……」
私は机の上へと、たんまり金貨が入った袋を思い切り叩きつけた。
その拍子に飛び上がる奴隷商。目を丸くして、その金貨の袋を見つめている。
「た、たしかに……え、これ全額……お支払いで……?」
「勿論……条件付きよ。これから貴方が扱う奴隷、全て私に売りなさい。出来なきゃ騎士団に即通報するわ。私もただじゃ済まないけど、そんなの全然平気だから。伯爵家舐めんじゃないわよ」
「なめてません! 滅相も無い! で、でもそれだけの奴隷……一体何に……」
私はニッコリと満面の笑みを浮かべつつ……
「あら……興味ある? 貴方の想像の範疇を越えて……とても幸せにしてあげるの。貴方も……私の家に来る?」
「め、めめめめめめっそうもありません……! ど、どうぞ!」
奴隷商は牢から全ての奴隷を解放する。
私の傍には、可愛いメイド服に身を包んだ、立派なレディに成長したアンネの姿が。
「……アンネ、馬車の準備しておいて」
「畏まりました、奥様」
解放された奴隷……いや、子供達の前へと膝を付いて、目線を合わせる。
怯え切った表情。これからどんな悍ましい行為をされるのかと……。
そんな子供達へと、私は一言……こう告げる。
「……こんにちは。今日から、私達は家族よ」
全ての奴隷を救えるなんて……私はそこまで傲慢にはなれない。
でも私は決めたのだ。
私の残りの人生は……愛する人と、この子達のために使うと。
そう、決めたのだ。
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