第四話 禁断の扉
ウェルターが国から独立して十数日――。その間に街の体制も変わり、国からの圧力にも屈しないようにと結束を固めたが、予想に反して国からの偵察も襲撃も兵士がやってくることもなかった。“初の反逆団”に恐れをなしたのだろうとそれを喜ぶ人もいたが、内心、不安を感じる街人が大半だ。
今までが今までだった。油断は大敵だ、と。
「不気味なほどに静かだな……」
傷跡は残ってはいるものの動けるまでに回復したカーシュは、手の甲で汗を拭いながら呟き、「……ふう」と一息吐いた。
昼下がりの青空の下。街の中心部にある広場でピートとスコットに剣術を教わっている。カーシュだけではなく他にも若い男達が大勢。我が身を護る為、家族を護る為に強くならなくてはいけないと、意志を固めたのだ。彼らのやる気に応えるように、ピートとスコットも手を抜くことなく厳しく指導に当たっている。
錆びた剣を降ろしたカーシュの隣り、素振りをしていた若者はその手を止め、息を切らしつつ肩をすくめた。
「作戦でも練ってるんだろ、きっと」
「……そんなところだろうけど……」
平和なのは嬉しい。何も起こらないほうがいい。けれどそれが“嵐の前の静けさ”に感じてしまう。
どこか不安げに言葉を切らして遠くを見つめる姿に、若者は苦笑した。
「気にしてても仕方ない。俺達は出来ることをやっていかなくちゃ」
な? と相槌を問われ、カーシュは気丈に笑って頷いた。
その頃――
「また眠ってる」
街の中にある遊戯場では、解放された子ども達が楽しげな声を上げながら井戸端会議をしている老人達の間を走り抜けている。その片隅にある大木の下、ナナはキョロキョロと探しやって来ると、ジョージの膝枕で眠るクレアに苦笑しながら腰を下ろした。ユラユラと風に揺れる雑草だらけのここも、晴天の下では立派な寝床になる。気持ちよさそうな寝顔に微笑むと、ただ大人しく、クレアの頭を撫でているだけのジョージを窺った。
「ロバートさんが、そろそろ、と。……どうですか?」
「……それでは、後程お伺いしますと伝えておいてくれますか?」
「わかりました」
小声で言葉を交わして頷いたナナは、ジョージの膝枕で寝息を立てているクレアに和みながらも「……ふふっ」と愉快げに笑った。
「ホント気持ちよさそう」
「……ゆっくり出来る時に休養を取っておいた方がいいですから」
「そうですね……」
微笑み頷いて、クレアの柔らかい髪を撫でるジョージへと目を向けた。
「ジョージさんも、少し休んだ方がいいんじゃありませんか?」
「……こうしているだけで充分な休養になっていますから。……お気遣いなく」
「それならいいんですけど……。クレアちゃんが病気になったら心配だけど、ジョージさんが倒れても心配だから」
不安を交えて呟いた後で、「……あっ」と顔を赤くして慌てて首を振る。
「そのっ……クレアちゃんも心配するし……力不足になっちゃいますからね」
焦って弁解する彼女を見ることなくジョージは少し微笑んでクレアの頬にかかる髪をそっと除けただけ。
ナナは、「はは……」と視線を泳がせて引きつった笑みを浮かべると、「そ、それじゃ戻ります」と、そそくさとそこから退散した。
……私ったら何を言ってるのかしら。
「ふぅ」と、ナナは大通りを歩きながら胸を撫で下ろした。
振り返ることなく、家の方に向かいながら思い出すのは、あの、クレアに対して優しい目をするジョージの姿。
……ジョージさんがクレアちゃんに優しいのはどうしてかしら。クレアちゃんはジョージさんと結婚するって言ってたけど……、そ、そんなの“子ども”の憧れよね、きっと。
見た目から、クレアが「十七才だ」と告げたことなど頭からすっかり消えていた。いや、消し去っているとも言える。しかし、どんなに何かを否定しても、あの光景が目の奥から消えない――。
……ジョージさんは誰に対しても優しい。けど、クレアちゃんはやっぱり特別。……忠誠心? それとも……。
歩き保ってボンヤリと視線を落としたあと、ハッとして拳を握りしめ、ブンブンッと首を振った。
や、やめよう、考えるのはっ。……。クレアちゃん、気持ちよさそうだったな……。
段々と寂しくなってくる。そしてまたブンブンッと首を振って、よからぬ想像を吹き飛ばそうとした。
――女性より男性の数の方が圧倒的に多い。しかも若い女性の数は限られている。独身となるとそれこそ手の指で足りる数だ。そんな環境で男性達が大人しくできるわけはない。
この時代、十五、十六歳で結婚するのが普通だ。そんな適齢期を越えてしまった若者達は焦りに焦っている。
男性は、出来るだけ女性に振り返ってもらおうと男らしさをアピールしてくる。ナナもその例外ではない。“ナナにはカーシュがいる”というレッテルはあるが、ナナもカーシュも「ただの友達」と言いふらしているので誰にでもチャンスはあるのだ。
男性からチヤホヤされるようになり、女性達は嬉し恥ずかしの生活を送っているのだけれど、彼女達にだって相手を選ぶ権利はある。
カーシュは“いい子”だけど……。でも、な……。
頭から離れない、クレアに対して優しい目をするジョージの姿。常に一緒にいて、“護る”という雰囲気をそのまま醸し出してはいるが、けど、ピートみたいに攻撃的ではないし、スコットのように教育的ではない。本当に、包み込むような優しさを感じる。
……クレアちゃんになりたい――
「……はぁ……」
何度目かわからないため息を吐いた。
自分でもどうしようもないくらい、物思いに耽っていた。何も目に映らなかった。だから、声をかけてきたカーシュにも気付かなかった。
カーシュは声をかけたと同時に挙げた手を下ろすことも出来ず、無視して横を通り過ぎるナナを振り返ってキョトンとした。周りには他の街人達も歩いている。そのまま立っていたらなんだか間抜けだ。
「……なんで無視されるんだ?」と、多少不愉快になりつつ、そのままトボトボと歩いていく背中を訝しげに追いかけた。
「おい、ナナ」
「……」
「……ナナ?」
「……」
「ナナっ?」
グイッと肩を掴んで引っ張ると、ナナは驚いて「キャァ!」大きな悲鳴を上げた。カーシュもビックリしたが、周りにいた街人達もビックリ。
ナナは胸をドキドキ言わせながら、身を引いて訝しげに注目しているみんなを見回して顔を赤くした。
「な、なんでもないの。ち、ちょっと考え事してて……。お、驚かせてごめんなさい」
恥ずかしさを押し隠してペコペコと頭を下げると、街人達は苦笑気味に再び足を進め出す。深く息を吐いて肩の力を抜くナナに、カーシュは眉間にしわを寄せて首を傾げた。
「どうしたんだよ。らしくないぞ。ボーっとしてるなんて」
平和になったおかげと言えばそうだが……。
ナナは不可解そうなカーシュに引きつった笑みを見せて首を振った。
「な、なんでもないの。……今晩のご飯、なんにしようかなー、なんて……」
思いついたまま声に出してみたが、それで「そうなんだ」という答えが返ってくるわけはない。冷めた眼差しを向けられたナナは焦り、「そ、そういえば」と話題を切り替えた。
「お稽古は? 終わったの?」
「ああ、終わったよ」
「ちゃんと汗を拭いて着替えなくちゃ駄目よ? 風邪をひいちゃうから」
「……子ども扱いはやめろ」
たった二つ三つ年が離れているだけで母親面だ。
ムッと口を尖らせるがナナは苦笑して再び歩き出し、カーシュはその後を追って横に並んだ。
「で、考え事って? 何かあったのか?」
「何もないってば。スコットさんに夜食の相談しなくちゃいけないだけよ」
「……なんか隠してるっぽいよな」
疑い深く横目を向けると、ナナは「はは……」と繕うように笑いながら軽く顔を背け、しばらく考え込み、足を止めることなく「……そういえば」と話しを切り出してきた。
「クレアちゃんって……かわいいわよね」
唐突さにカーシュは「はぁ?」と顔をしかめた。ナナも心の中で「何言ってるのよ私わぁ……」と情けなくなってくる。
「かわいいって……あんな男勝りなヤツが?」
「か、かわいいわよ。……ほら、だからジョージさんも……一緒にいるんじゃない?」
「ジョージさんはそれが役目だから仕方ないだろ」
「そ、それだけかしら?」
「それだけに決まってる」
「……けど、ひょっとしたらクレアちゃんのことが……好きなのかも」
「まぁ、そうかもしれないけどさ」
あっさりと認められて心の中でズーンと沈み込むが、
「けど、ジョージさん言ってたぜ、クレアのことは愛してるけど、それは女としてじゃなくて我が子のようにだって」
そう続いた言葉にすぐに目を見開いて顔を上げ、歩きながら肩を回して解すカーシュを覗き込んだ。
「そ、そうなの?」
「そりゃそうだろ。大体、ジョージさんとクレアって不釣り合いだよ。年も離れてるし。ジョージさんはクレアを護ってるだけだろ」
「そ、そう思う?」
「ああ、そう思うよ。ジョージさんには、もっと相応しい人がきっといる」
「ど、どんな?」
歩き保って身を乗り出し訊く、興味津々なナナに、カーシュは訝しげに首を傾げた。
「なんだよ? なんか、すごく気になってるみたいだな?」
「そ、そんなことはないわよっ」
ナナは身を引いて慌てて首を振った。
「わ、私はただっ……、カ、カーシュがこのままじゃかわいそうだと思ってっ」
咄嗟に口から出てしまった言葉に「……人のせいにしてる。私ってなんて人なの……」と自己嫌悪に陥るが、その空気を読み取ることなくカーシュは「はぁっ?」と更に顔をしかめた。
「俺がかわいそうって……なんだよ、それ」
「ほ、ほら、……クレアちゃんがジョージさんに取られちゃったら」
「だから、なんで俺がかわいそうなんだよ?」
「……。クレアちゃんに振られたら」
「ちょっと待った」
カーシュは足を止めると、同じく足を止めて目を泳がせるナナを横から覗き込んで睨んだ。
「つまり、俺がクレアを好きだって言いたいのか?」
「……そ、そうかも」
目線を上に向けてとぼけた様子で答えるナナに、カーシュは見透かそうと目を細めた、
「……そういう風に見える?」
「み、見える、かな」
「……」
「……」
「ホントに?」
「う、うん。すごく……好きそう……」
「……」
「……」
「……何か隠してるだろ?」
ナナは「うっ……」と息を詰まらせるが、目を細めるカーシュの後ろに回ると、背中を押し、歩き出した。
「さ、さあっ、戻らなくちゃっ」
「おい、教えろよっ」
「ほらっ、早く洋服を着替えて着替えてっ」
グイグイと背中を押されるだけで何も答えない――。
有耶無耶にされたまま、カーシュは渋々自宅に戻って汗を流して着替え、ロバート宅へと赴いた。
時間があれば、彼の家を伺って話しをしている。それは以前から続いていたことだ。主は学問についてだが、たまに彼の口から漏れる昔話を聞くのも楽しかった。幼い頃に母を亡くし、また、親戚も別の街で暮らしているカーシュにとって、ロバートは本当の祖父のような存在だ。
今日はいろいろと話をするだろうということを前以て聞いていた。先に訪れて椅子の用意や飲み物の用意をしていると、遅れてナナが現れ、「こんにちわーっ」と元気のいいクレアを先頭にジョージ達三人もやって来てそれぞれ笑みをこぼし、それを挨拶代わりにした。
ロバートは大きなテーブルに山積みされた書籍を片付けながら、クレアとジョージ、ピートとスコットを見て微笑んだ。
「すまないな、こんなに散らかしていて。久し振りにたくさんの本を見つけて、つい、読み耽ってな」
「ボク、本を読むのは嫌いだけど、お話し聞くのは好きだよ」
笑顔で椅子に座るクレアにロバートは少し笑った。
「それじゃ、今度おもしろい話しでも聞かせてやろうかな」
「聞かせて聞かせてっ。おとぎ話がいいなーっ!」
ワクワク顔で足をパタパタと揺らすと、「お行儀が悪いっ」と、スコットが足を叩く。
彼らの他にウェルターの治安部隊隊長のティモ、そしてウェルターの長となったカートウッド、オリバーと、その他数名が集まって壁際から笑顔で挨拶を交わす。
クレアは、ナナと一緒に片隅に立つカーシュを手招きして、空いている椅子を指差した。
「ねえねえこっちにおいで」
「俺はここでいいよ」
苦笑気味に断るが、クレアは「なんで?」と言わんばかりに口を尖らした。
「おいでったら。ねえ」
「いいって。俺は大した話しなんか出来ないし」
「いいじゃんそんなのー」
「ン俺のことなんか気にすることないって」
拗ねるクレアにため息を吐くが、「こっちに来い」とピートに睨まれ、さすがにそれには反抗できず、大人しくジョージの横の空いている席に座った。情けないその姿にナナは顔を背けて小さく笑い、クレアはジョージを挟んでカーシュを睨み付けた。
「ボクの言うことは聞かないで、なんでピートの言うことは聞くんだ?」
「男言葉」と、即座にナナに注意され目を据わらせるクレアに、カーシュはため息を吐いて横目を向けた。
「お前よりピートさんの方が強いから」
確かにその通り。反論できずにクレアは更に目を据わらせる。
ロバートは苦笑すると、自分の椅子に座ってそれぞれの顔色を窺った。
「それじゃ……始めるとするかな」
みんなが「いつでも」と躊躇なく頷くと、丸眼鏡をかけ、テーブルの上で手を組みクレア達を見回した。
「まず、そちらの事情を聞かせてもらえるかね。……クレアちゃんがブラッド王子とはどういう事か。王子は死んだはずだが……さっぱり理解できんのだ」
彼の言葉に、他のみんなも同意見のような眼差しを向ける。
ピートはジョージを見て、彼が頷いたのを確認してから事情を話した。
三人はクレアに仕えていたこと、クレアは国王によって殺されかけたこと。自分達は国王を元に戻そうとしていること。クレアがなぜ男の子として公表され育ったかは、未だ謎だということ……。
「国王を元のお姿に戻す為の情報を手に入れようと、ずっと旅をしてきたんです。そしてつい最近、迷いの森にいる呪い士がなんらかの情報を持っていると聞き、会いに行きました。しかし、本人に会うことは出来ず」
「意地悪ババァだったんだよ」
クレアが口を挟むと、「静かに」とスコットが注意する。
ピートは気にすることなく再び口を開いた。
「森に住んでいる方に会い、話しを聞くことが出来ました。その人は、呪い士と、国王のことについて話しをしていたようなんです」
「救世主をね、ボクが捜すの」
また口を挟まれて、ピートは一旦間を置いて話しを続けた。
「国王は、心を闇に食われた、と」
「……食われた?」
と、ロバートが訝しげに繰り返し、ピートは頷いた。
「国王を救えるのは王子だと。……ただ、救世主となる者を捜さなくてはならないんです」
「王子では?」
「いいえ。王子は救世主を見つけ出すことの出来る者のようです。救世主と共に、国を救うらしく」
「ボク、救世主を見つけて国王を元に戻すんだ」
クレアはまた口を挟んで、用意されていたスープを飲み、壁際に立つナナを笑顔で振り返った。
「このスープ、おいしい! おかわり欲しい!」
ナナは苦笑し、スコットがじっとりと目を据わらせる。
ピートは、笑顔で自分のスープを差し出すロバートに「……すみません」と軽く礼を言ってから続けた。
「救世主が何者なのか、全く情報がありません。どうして国王は変貌されたのか、どうしてクレア様を殺そうとするのか、……国王の心を食ったとされる闇とはなんなのか。呪い士を見つけたいのですが、どうやらわたし達には姿が見えないようなんです」
「……見えない?」
「はい。話しをすることは出来たのですが、全く姿が見えないんです。呪い士の方はわたし達の姿が見えたようですが……。なので、話しを聞きたくても、あちらからなんらかのアクションがない限り、見つけることも、話しを聞くことも出来ず。……ただ、救世主を見つけなければいけないということはわかりましたから、その情報だけでもと思い、あなたを訪ねたんです。カーシュがあなたならきっと何かを知っていると、協力してくれると言っていたので。彼を信じて来ました」
カーシュは少し目を見開いてピートを見て、顔を戻すと嬉しそうな笑みを浮かべた。
ロバートは、「ふむ……」と顎を触り、二杯目のスープを飲むクレアに目を向けた。
「……ブラッド王子は男の子ではなく女の子で、……そこにいるクレアちゃんがそう、か。……国王は心を闇に食われて……クレアちゃんを手にかけようとした。……なんとも不思議な、恐ろしい話しじゃな」
「命を取り留めて、本当によかったですね」
ティモが安堵のため息を漏らしながら口を挟むと、ピートは「はい……」と頷き、スコットを挟んでスープを空にして満足そうなクレアを見つめた。
「あの時、助かっていなかったらと思うと……」
クレアは「ん?」とピートを見上げ、にっこり笑っただけ。
ピートは苦笑してロバートに目を戻した。
「救世主に対してなんらかの知識はありませんか? 国を救うためには出会わなければならないんです」
ロバートは視線を斜め下に向け、沈黙する。
カーシュはすがるように、目を閉じて考え込みだしたロバートを窺った。みんなも同じように目を向ける、そんな中、クレアは胸の前で腕を組んでただ話しに耳を傾けているだけのジョージを見上げた。
「ボク、外で遊んできてもいい?」
みんなが「……え、うそ、本気で?」と、半ば呆れるような、焦るような戸惑いを浮かべた。まだなんの話も進んでいないのに……。
カーシュは「こいつ……」と目を据わらせ、ジョージは首を傾げるクレアに微笑んだ。
「……大事なお話しですから、クレア様もお聞きになってください」
「はーい」
愛想よく返事をするが、この返事の時はちゃんと飲み込めていないことを知っている人は知っている。
クレアはテーブルに腕を置いて指先でカツカツ板を叩き、パタパタと足を揺らしながらロバートに笑いかけた。
「救世主ってどんな人だろうね。ボク、早く会ってみたいなぁ」
無邪気な様子を感じ、ロバートは苦笑気味に目を開けてピートに目を戻した。
「……昔ですがな、ほんの数年、王宮の書物を管理していたことがありまして」
「そうなんですか?」
「管理とは言っても、誰も来なかったので、ほとんど一日を読書で潰しておりました。……王宮にある書物は一般に出回っている書物とは違う、初版のものも多数存在して、中には見たことのない論文や訳語があり、間違った知識を覚えていたことに辱められました。……夢中になって読み漁ったものです」
懐かしそうに語った後、一息吐き、再び口を開いた。
「……さて。わたしにも国王が何故変貌されたのか、その事情はわからぬし、クレアちゃんを殺そうとする理由も見当が付かぬ。……心優しき王だった。妃様も大事になさり、わたし達庶民も大事にしてきたあのお方が何故にこのような時代を作ってしまったのか。それは、ご本人にしかわからぬ事かもしれん。ただ……心を闇に食われた、と言ったな? ……その事についてならば……少々助言出来るかもしれん」
「本当ですか?」
「間違った知識でないことを祈るが」
「お聞かせください。是非」
真顔で身を乗り出すピートに、ロバートは間を置いて続けた。
「……。この世は一つ」
「……はい」
「我々が住むこの世界は一つのみ。それが現実であり、それ以外のものなどは存在しない。目に見えず、触れることの出来ないものは証明することが出来ないのだ。証明出来ないことを真に説明するのは不可能。それらを信じるということは、もはや空想家としか言いようがない」
「……」
「しかし、お前さんは言ったな? 姿の見えない呪い士がいた、と」
「……はい。出会ったのはわたしだけではありません。クレア様もジョージも、カーシュも、森に住む女性も話しをしていますから」
「つまり、お前さんが言っているのはこういう事だ。……別の世界が存在する、とな」
「……」
「わたしは学者ではないからその現象についての詳しい話しは出来ぬ。だが、人によって意見は食い違うだろう。幻覚草を用いたのだと言う者もいるだろうし、お前さん方の見えないところに隠れていたのだと言う者もいるだろう。……お前さんは、その呪い士がこの世の者ではなかったと断言出来るかね?」
ピートは真っ直ぐな視線を向けるロバートを見て言葉を詰まらせた。
確かに老婆の声はしたのに姿は見えなかった。けれど、彼女を懸命に捜さなかった。本当にいなかったのかどうか、それは……。
「そんなの、どうでもいいと思うけどな」
クレアがケロッとした表情で言うと、みんなが彼女に注目した。
「意地悪ババァがいたかどうかなんて、どうでもいいよ。ボク、いても会いたくないし。ただ、ピートの言うことは本当の話しなんだから。ピートを疑うなら、ボク、許さないぞ」
「……男言葉はやめなさい」と、スコットが冷静に注意し、ピートは、ロバートを睨むクレアをじっと見つめた。
その言葉に続くように、カーシュは少し身を乗り出した。
「あの場に呪い士がいなかったのは確かだよ」
ロバートは真顔で言い切るカーシュに目を移した。
「あの森のことは俺がよく知ってる。あの時、俺が一番冷静だったはずだよ。周りにはお婆さんが一人隠れるほどの木はなかった。それは間違いない。それに、お婆さんも言っていたんだ、俺達には姿は見えないって。……けど、いつか見えるようになるって。だから、ピートさんの話しは本当だよ。……こことは別の世界があって、お婆さんがそこにいる人なら……別世界は必ず存在する」
「って事はひょっとして……」
少し視線を上に向けて考え込んだ後、クレアはジョージを挟んでカーシュを窺った。
「救世主もそこにいるのかな?」
「その可能性はあるかもな」
「だったらさ、あの意地悪ババァをなんとか捕まえて人質にしようか?」
「見えないのにどうやって捕まえるんだよ?」
「エサを置いて、網を張っておくんだ」
「獣じゃないんだぞ。それにエサって……何を食べるかもわからないだろ」
「言ってたろ、不要だと思うヤツを生け贄にするって。意地悪ババァが食べちゃうんだよ。よかったなカーシュ、出番だ」
「俺に食われろって言いたいのかっ?」
「仕方ないだろ」
「散々助けておいてっ」
「死ぬ時期じゃなかったから」
「……なんだと?」
ジョージを間に睨み合い、勝手に話しを盛り上げる二人に少し笑ったピートは、窺っているだけのロバートへ目を向けた。
「呪い士が存在していたか、その証拠はありません。なので説明のしようがありません。……わたし達を信じることが出来るかどうか、それはあなた次第でしょう?」
ロバートはピートを見て、しばらく間を置き苦笑し、口を開いた。
「……世の中には常識で計ることの出来ない物事も多く存在する。……この世は一つ。その説に異論を唱える者もおる」
ロバートの静かな語りに、みんなが彼を注視し、耳を傾けた。
「この世には相対して別世界が存在している。この現世界と対して存在する別世界も同じように時が進み、同じように生活が行われている。しかし、全てが同じとは限らないだろう。ものの見方、身近にあるもの、その形や色や匂い、呼び方、触れるもの、感じるものは同じではないかもしれん。……そこになんらかのズレが生じる。そのズレを起こした瞬間に異変が起こり、現世界と別世界を隔てる壁が歪んでしまう。そのせいで、決して繋がることのない二つの世界に異変が生じ、あり得ないことが起こってしまう。……繋がることのない世界の扉が開いてしまう」
「……何故ズレが?」
「ふむ……、その原因は様々だろう。憶測で語ることの出来る範囲を超えている。……だが、こう考えてみるかね。……国王の心を食ったとされる闇――。それが、別世界との扉が開いてしまったことで現れた闇かもしれんな。……その扉が開いてしまったがために、存在するはずのない呪い士とのコンタクトも可能になった、と」
ピートはポカンと口を開ける。頭の中が一杯になってきたっぽい彼を見て、スコットが代わりに問いかけた。
「しかし、繋がることのない世界なら、その扉というものはなんなんですか? 王宮にあるということなんでしょう? そんなものが存在するのはおかしいのでは? 見たことも聞いたこともありませんでしたが」
「我々が普段から見る扉だと思うかね? 日常的常識に捕らわれていては先に進めませんぞ?」
「……すみません」
と、素直に頭を下げるスコットに、ロバートは苦笑しつつ続けた。
「扉と言っても、我々が普段から使用するものばかりとは限らぬ。……扉にはそれこそ色々な種類があるのだ。家についているもの、絵に描かれたものもあるな、そして何より、人が心の中に忍ばせる扉もある。……人に見せることのない扉。自分でも開けていいのかわからぬ扉がな。……国王の心を食った闇が、彼自身の心の扉から現れたものならば……そのまま心を支配されたとておかしくもないだろう。ただ、それが国王自らが招いたものなのか、それとも招かざるものだったのか……、そこも問題だ」
スコットは何も言えなかった。確かに非現実的な事が起こってはいるが、踏み込めない領域の話しに呆気に捕らわれた。
ピートも唖然としていたが、不意に何かに気付き、口を開いた。
「国王の魂を浄化……。つまり……心を癒す、……心の扉を閉める、と言うことか?」
訝しげに呟いた言葉に、ロバートは「ふむ……」と視線を落として顎を触った。
「救世主と呼ばれる者がどんな役目を担っているかはわからぬが……、王子が救世主を捜し、その者が国王の開け放たれた扉を閉めて心を浄化するとも考えられるな」
「……そうですね」
「しかし、なぜ救世主を見つけられるのはクレア様のみなのか……」
頷くピートの隣、スコットが呟き腕を組んで考え込むと、ティモが顔を上げた。
「別世界があるなら……そこにいる王子ではないんですか?」
みんなが彼を見て頷き、口々に考えを発する。
「そうか、だから王子にしか探せないのかも」
「それならわかる。王子同志しか繋がらないんだ」
「……ちょっと待て。となると……国王を変貌させた闇というのは別世界にいる国王だと?」
「いや、それは扉を開けてしまった事による歪みのせいかも」
「とにかく、向こうの王子をお連れすればいいのか?」
みんなの視線がクレアに向く、――が、クレアは浮かない表情でテーブルを見ているだけ。
「……どうしました?」
ピートが軽く身を乗り出して不安げに訊くと、クレアは顔を上げ、「う、ううん」と首を振った。
「な、なんでもないよ」
「……何かありそうな顔をしていますよ?」
「……、おトイレに行きたい」
みんなは「はぁ……」とため息を吐いた。緊張感も何もあったものじゃない。
ロバートは少し笑って頷いた。
「続きはまた今度でもいいだろう。わたしも救世主について調べたいしな」
ジョージは苦笑してゆっくりと立ち上がり、口を尖らせるクレアの背中に手を当てた。
「……我慢はよくないですからね。……失礼します」
ジョージはクレアを連れて席を離れ、トイレまで付き添う。カーシュはその背中を見送って、少し首を傾げた――。
ロバートの家を出て野外のトイレまでトボトボ歩きながら、クレアは俯いた。
そろそろ日も沈み掛ける頃……。街人たちの楽しげな声が聞こえてきて、どこからか肉料理の良い香りも漂ってくる。
家を出てから一言も言葉を発することのない彼女の横を歩き保って、ジョージはそっと見下ろした。
「……どうしました? ……寂しそうですね」
「……ボク……」
「……はい?」
「……ボクじゃ……国王は癒されないのかな……」
ジョージは、か細い声のクレアをじっと見下ろした。
「……ボクじゃ駄目なんだね……。ボク……やっぱりいらない子だったんだ……。あっちの世界にいる、もう一人のボクの方が……」
「……そんなことはありませんよ」
歩きながら、ジョージは俯く頭を撫でた。
「……今の国王は心が荒んでいます。その荒んだ心を解き放つのが救世主の役目だとすれば、その後は、クレア様が国王のお傍にいて差し上げなければならないんですから」
「……そうかな……」
「……そうですよ。……救世主に国王を癒すことは出来ないんです、親子ではありませんから。出来るのはクレア様だけですよ。……国王にかわいがられていたあなただけなんです」
クレアはしばらく間を置いてジョージを見上げ、微笑んだ。
「国王にいらないって言われても、ボクにはジョージがいるモンね。ピートもスコットもいるモンね」
「……そうですね」
「うんっ。……よし! 考えるのはやめよう!」
クレアは笑顔で頷いて、グッと拳を握った。
「ボクは救世主を捜せばいいんだから! そんなの、きっと簡単だよ!」
「……、クレア様」
「んっ?」
笑顔で見上げると、ジョージは優しく微笑んだ。
「……わたしはいつも傍にいますから」
クレアは彼を見上げたまま、嬉しそうに、とびきりの笑顔で大きく頷き、手を繋いだ。
――日が暮れて、街の一角に人々が集まってくる。
空き地の中心で火を焚き、みんなが一緒に夜食を取るのが習わしになりそうだ。……とは言っても、街人達が全員参加をしているわけではない。中にはまだ、家族や知人を失ったショックから立ち直れずに家に閉じこもっている人たちもいる。そんな彼らには、街人達が交代で窺い、出来るだけ話しを聞いて、早く立ち直れるようにと協力をし合っている。
女達がスコットと一緒にせっせと準備に追われる中、男達はまた富豪の家から酒を持ってきてそれを飲む。その中にはピートの姿、そしてオリバー達の姿も。彼らとの関係はぎこちなかったが、それも少しずつ和らぎ、今ではこうして酒を酌み交わせるようになった。それはそれで喜ばしいことだ。
「おいカーシュ! お前も飲め!」
ピートに手招き誘われるが、カーシュは「え、遠慮しますっ」と慌てて逃げた。……昨夜初めて付き合わされたが、それはもう酷い有様だった。お酒を口にするのは富豪育ちの彼には苦にならなかったが、“豪快に飲む”というものに対しての免疫はまだない。
……捕まったら最後。朝まで逃げられない。
それだけ飲んでもケロッとしているのが不思議なくらいだ。
カーシュは出来るだけピート達に見つからないように暗いところを歩き、時々女達の手伝いで料理を運ぶ。
「あと食べてない人は」と、食器を持っていない人を捜していると、遠くから歩いてきたロバートを見つけ、夜食を手に駆け寄った。
「ロバート、はい、これ」
食事を差し出すと、「悪いな、ありがとう」と、ロバートは笑顔で受け取った。
「礼を言うのは俺の方だよ。話しをしてくれてありがとう」
「まだまだ、あれくらいで満足してはいかんぞ」
「そうなの?」
「ああ」
二人で肩を並べて歩き、空いている場所を見つけて地べた座りする。
カーシュは、「いただきます」と皿に添えられていたフォークを取るロバートの隣で首を傾げた。
「話しの続き、また明日にでもする?」
「いやいや、そう急ぐ事じゃない。よく煮詰めてからの話しでないとな、……迂闊には言えんこともあるんだ」
「なに、その……言えない事って」
「ふむ……」
一口食事を口に入れ、噛みながらカーシュを見ると、飲み込み様に切り出す。
「クレアちゃんは何者だ?」
真っ直ぐな目で突然問われてカーシュは思わず息を飲み、戸惑うように視線を泳がしてモゴモゴと言葉を濁した。
「何者って……、ブラッド、だよ」
答えた声に力がない。明らかに自信のない返答に、ロバートは鼻から息を吐いた。
「カーシュ、お前は頭のいいヤツだ。……今日の話しを聞いて思うことはないか? または……以前から思うことがあるか、だな」
問い詰めるわけでもなく静かに訊かれ、カーシュは少し視線を斜め下に向けて考え込んだ後、小さく首を振った。
「俺にもハッキリとしたことは全然わからないんだ。……けど、一緒にいてちょっと色々不思議なこととか……」
「……それで、お前の結論は?」
一旦言葉を濁したカーシュは、間を置いて、真顔で切り出した。
「……国王が殺そうとしたのはブラッド王子。けど……助かったのはクレア。……クレアはひょっとしたら別世界の人で、クレアがここに来て、王子は別世界に行ってしまった……。だから……ブラッドじゃなきゃ国王を元に戻せない。……クレアと入れ違いを起こしたブラッドが……救世主、なんだと思う……」
「……そうだな。お前達が別世界が存在すると言うのなら、その考えが妥当か」
「けど、じゃあクレアってなんなんだろう?」
少し俯き加減に頷いたロバートにカーシュは不安さを滲ませ、背中を丸めて覗き込んだ。
「別世界にいた人だったとして……、どうしてクレアが王子と入れ替わったのか。そうなると、また全てが振り出しに戻ってしまう気がするんだ。……ゴチャゴチャになって」
戸惑い目を泳がせて俯くカーシュに、ロバートはひと口ふた口、食事を進めてから続けた。
「国王はクレアちゃんのことを知っているのだろう? ……その上であの子を狙ってくるということは、あの子が何者かを知っているということかもな。殺そうとしているのなら、ブラッド王子がこちらへ戻れないようにしたいのか。……それとも別の意味があるのか」
カーシュはピクッと目蓋を動かして訝しげに顔を上げた。
「……別の意味?」
「憶測で話しを進めるものではないが……。国王の心を食った闇というのが、別世界から来た者だとしよう。そしてクレアちゃんも同じく、別世界から来た者だとしよう。……この二人が出会った時、何が起こるだろうな?」
「……なに、って」
「たとえばの話しだ。味方のいない土地で同人種が出会えばどうなる? 互いを敵視すると思うか?」
「……、それは……」
「わたしが心配なのはそこだな。……まぁ、あの子には常に誰かが傍におるから、余計な心配だろうが」
カーシュは深刻そうに眉間にしわを寄せて、そっと食事を続けるロバートを窺った。
「……クレアは……やっぱりブラッドじゃないのかな?」
声を潜めて問い掛けられ、ロバートは間を置いて軽く首を振った。
「何が真実かは、わたしにもわからん。別世界のことも、実際は良くわからん話しだ。……ただ、わたしの記憶にある限り……、幼子であった王子にはある特徴があった。……右目の下に、涙ぼくろがな」
カーシュは顔をしかめ、脳裏でクレアの顔を思い出した。
涙ぼくろ。――彼女にはない。
困惑げに目を泳がせるだけで何も言えないカーシュに、ロバートは食事を進めながら軽く息を吐いた。
「今は深入りせん方がいいだろう。……護衛として常に傍らにいた彼らがいの一番に気付いていたはず。それを敢えて伏せておるのにはなんかの理由があるんだろう」
――確かに、彼らの答えはいつも曖昧だ。「クレアを護る」という意志は強いようだが、それは「彼女がブラッドだから」というわけでもなさそうで。
踏み込んではいけない領域、そこに彼らはいるのかもしれない。
寂しげに目を細めて俯く姿を視界の隅に捉え、ロバートは食事を進めながら鼻から息を吐いた。
「すべてはまだ、闇の中だ。……いずれ明るみに出るだろう。その時に、“次の手”を考えてもそう遅くはない」
考えすぎるな、そう遠回りに伝えられているような気がしてカーシュは情けなく笑った。
「……わかったよ」
「それと、……お前は扉を開けるんじゃないぞ」
食器の上、料理をフォークで掻き集めるロバートに「扉?」と顔をしかめて繰り返す。
「扉って……どこの?」
「心の奥にある、人に見せることのない扉だ」
「んー……。そう言われても、俺、よくわからないよ」
怪訝に首を振ると、「……ならいい」と、ロバートは軽く頷いた。
「だが、もし扉を見つけても、それを開けるでないぞ。扉の先に正しき者が待っているとは限らない。……わたしの所に来て斬られたお前ならわかるだろう」
方眉を上げて試すような笑みを向けるロバートに、カーシュは分の悪さを隠すことなく情けなく笑った。
「ああ、ホントだ。誰が出てくるかわからないね」
「そう。扉を開けるのは一か八かの賭だ。……人生の全てを賭けるには、あまりにも扉は軽すぎる」
「……わかったよ。忠告は守る」
強く頷いて立ち上がると、一つ深呼吸をしてロバートを見下ろした。
「また、色々わかってきたら話しを聞かせてよ」
「ああ、……ほら、若いんだから働け」
「わかったよ」
顎をしゃくられて笑いながら調理場の方へと走っていく、その背中を見つめ、ロバートは小さく息を吐いた――。
カーシュはやはりピート達に見つからないように調理場に来ると、危なげな手つきで食器を運ぶクレアを見つけ、「おいおいっ」と慌てて駆け寄って手を伸ばした。
「危ない危ないっ。俺が運ぶからっ」
そう声を掛けるなり食器を受け取ろうとするが、さっと腕ごと離された。
「ボクが運ぶの。邪魔するな、落ちるだろ」
拗ねて口を尖らせているが、すでに重なった食器はカタカタと微かな音を立てている。彼女のことだ。少しいい気になって食器をたくさん持ってしまったのだろう。
どう見ても許容範囲を超えている食器の山に、カーシュは呆れてため息を吐きつつ睨んだ。
「お前が持ってる方が落ちるって。グラグラしてるじゃないか。危ないだろ」
「カーシュが邪魔するから。そこ退いて」
「貸せって。お前はジョージさんのトコにいろよ」
「ジョージ、今、お風呂だもん」
食器から目を逸らすことなくそっと足を踏み出そうとするクレアにカーシュは顔をしかめた。
「……お前、風呂は?」
「やだ」
「せめて濡れタオルで拭くくらいしろ」
「それくらいはしてるぞっ。馬鹿にしてっ」
ムスッと不愉快さを露わにするが、食器から目を離すことはない。
カーシュは「ったく」と再度ため息を吐いた。
「とにかく、食器は俺が運ぶって」
「ボクが運ぶんだっ」
「落とすってっ」
「ボクが運ぶのっ」
カーシュに食器の端を掴まれて引っ張り合いになったが、ツルッと油で滑って二人の間の地面に投げ出され、ガシャーンッ! と、皿類が割れる音が響いて街人達が二人を振り返った。
シーンと静まり返ったその中……――
クレアは間を置いてカーシュを睨み付けた。
「……カーシュのせいだぞ」
「……お前のせいだろ」
「カーシュが引っ張るからだ!」
「お前が意地張ったんじゃないか!」
「ボクはちゃんと運べた!!」
「グラついてただろーが!!」
「カーシュが来たからじゃないか!!」
「お前が危なっかしいからだろ!!」
いきなり怒鳴り合いが始まり、片付けをしていたスコットは目を据わらせると、言い合う二人に近寄ってその頭にゴツンッ、ゴツンッと拳を落とした。その痛みに二人は「!?」と息を詰まらせて頭の天辺を押さえる。
「みっともない。早く食器を片付けなさい」
二人は渋々腰を下ろして割れた食器を集める。
クレアは地面にこぼれた食べ残しの野菜を手に取ると、「……えい」とカーシュの頭に投げた。ペタっと頭に野菜を貼り付けられ、カーシュは知らんフリをするクレアを睨み、野菜を掴み落としてから同じようにお肉の切れ端を投げた。コンッとそれが腕に当たり、クレアはムカッとカーシュを振り返って、何かわからない、トロみのついた食べ物を掴んで投げた。カーシュは危うくそれを避けたが、クレアはそんな彼の胸にべっとりと、汚れた手を擦り付ける。
「何すんだお前は!!」
「生意気だ!!」
「お前の方だろ!!」
再びケンカが始まり、傍に立っていたスコットは服を掴み合う二人を見下ろして力一杯拳を振り下ろした。
――その後、目付役でティモが傍に立ち、二人は互いに睨み合いながら片付け。そしてそれが終わると「風呂に行ってこい」とティモに顎をしゃくられて嫌々肩を並べて歩いた。
外灯も少ない道――。肩を並べ歩きながら、カーシュはベトベトになった服を摘み上げ、隣りのクレアを横目で睨んだ。
「……お前のせいだ」
「……カーシュのせい」
「謝れ」
「そっちが謝れ」
ブツブツお互い言いながら、ベトベトに汚れた格好で歩く。目指すはジョージがいる民家のお風呂だ。
クレアは渋々歩きながら、カーシュを見上げて眉を吊り上げた。
「ボク、ちゃんと運んでたんだぞっ」
「だから、グラついてて落としそうになってただろっ」
「落ちなかったかもしれないのに!」
「落ちてたかも知れないだろーが!」
再び言い合うと、遠くから「いい加減にしなさい!!」と、スコットの怒鳴り声が聞こえ、二人は静まった。
クレアは頬を膨らまし、黙々と歩く。カーシュも不愉快そうに黙々と歩く。
一言も口を利くことなく、無口なまま開放されている民家に着くと、クレアは室内を見回しながらお風呂場を目指した。
「ジョージ、いる? カーシュにいじめられて汚れちゃったんだよ」
「いじめられたのは俺の方ですよジョージさんっ」と、すぐに否定する。黙っていたら本当に疑われそうだし、なんとなく、ジョージを怒らせたくはない。
「綺麗にしなさいってスコットに言われたから綺麗にする。ジョージ、手伝って」
その言葉に、カーシュは顔をしかめてクレアの背中を見た。
「……、お前、ホントに一人で風呂とか入れないのか?」
「……水、嫌い」
「……いや、嫌いって言っても……、その……」
クレアは、モゴモゴと言葉を濁し、言い辛そうに視線を反らすカーシュを見て顔をしかめて首を傾げたが、風呂場に着くと、
「ジョージ、もういい?」
と、断りなく脱衣所を開けて中を覗いた。――誰もいない。
クレアはキョロキョロと見回し、磨りガラスのドアの向こう、浴槽の方を窺った。
「ジョージ?」
「もう上がったんじゃないのか?」
カーシュは脱衣所に上がると引き戸のドアを開けた。湯気が立ち込めるそこには、使った跡はあるが、やはり誰もいない。
「入れ違いになったみたいだな……」
そう言ってクレアを振り返ると、いつの間にか離れて、遠くからこちらを窺っている。
カーシュは顔をしかめ、浴槽の方へと目を戻した。
――湯船か……。
ドアをいったん閉め、視線を泳がして落ち着かないクレアに近付いた。
「そんなに水が怖いのか?」
「……、怖い」
「浸からなかったら大丈夫なんだろ?」
「……近付くのも嫌。……たくさん湿気があるのも嫌」
「……ホントに重傷だな」
困惑気味にオロオロと目を泳がして胸の前で指を絡める落ち着きのないクレアに、カーシュはため息を吐いた。
「お前、一人じゃあ何も出来なくなるぞ?」
「……」
「どうする? ジョージさん捜すか?」
「……捜す」
「だったら待ってろよ、俺が呼んでくるから」
そう断って一旦家を出ようと足を踏み出したが、背中の服を掴まれ振り返った。
クレアはしっかりとカーシュの服の裾を掴み、不安そうな顔で首を振った。
「……ボクも行く。……一緒に行く」
小さな声が震えている――。
カーシュはウロウロと視線を動かすクレアに、「……わかった」と頷いた。
「じゃあ、広場の方、戻ってみるか」
クレアがコクンと頷き、カーシュは家を出ようと歩き出すが、背中の服を掴まれたままの感触に、歩き保って軽くクレアを振り返った。
「そんなに怖がらなくても、もう風呂場には近付かないし。ほら、離れただろ?」
「……。うん……」
「大丈夫だって。もう水はないから」
「……うん……」
返事をするものの、俯いて、まだ不安そうだ。背中の服を離そうともしない。
一度たくさんの湿気を受けると恐怖心が収まらないのか。これじゃ、水が怖いどころの問題じゃないな。ホリーのトコで気絶したのも納得だ。これから注意しないと――。そう考えながら、一度、家を出る。
外に出て夜風に当たりながら広場まで歩く間も、クレアは大人しく背中の服を掴んだまま。
服を引っ張られ歩きながら、カーシュはふと思い出した。
そういえば、これに似たことが昔あったな。小さい頃に、ナナが木から落ちてしまって。ケガはなかったけど、ずっと後ろを歩いてて、服を引っ張られて苦しくって。「やめろ」って、怒ろうと振り返った時……
次の場面を思い出し、慌てて振り返った。
――今にも泣き出しそうな位、悲しい顔をしている。外灯も少なくて暗いのに、その表情がすぐに目に飛び込んだ。
カーシュは少しうろたえて足を止め、背中の服を離したクレアをちゃんと真っ正面から窺った。
「ど、どうしたんだよ? どうした? なんか……苦しいのか? ……痛いのか? しんどい?」
腰を低くして顔を覗き込む。焦って訊くカーシュと目を合わすことなく、クレアは「……ううん」と首を振って俯いた。
「な、なんだよ、どうしたんだよ? しんどいならしんどいって言えよ。ここなら水はないし、俺、すぐジョージさんを呼んできてやるから」
「……、ううん、……大丈夫……」
「けどなんか、なんか……泣きそうだぞ」
「……ボク、泣かない」
「ンそれはいいけど。……ホントに大丈夫なのか?」
「……。ボク、……一人でも平気なんだ」
呟くような言葉に、カーシュは「……え?」と表情をなくして言葉を詰まらせた。
クレアはゆっくりと視線を地面に落とした。
「……ボク……一人でも大丈夫なんだ……」
「……ああ、わかった。さっきは邪魔して悪かったよ」
「……」
「ほら、ジョージさんのトコに行こう。……早く綺麗にしないとスコットさんに怒られるから」
歩き出すが、足を止めているクレアにまた服を引っ張られ、ため息混じりに振り返った。
「……行かないのか?」
「だって、……ホントに水が怖いんだモン……」
「わかったって。水が怖いのはわかったから」
「水には……お化けがいるんだよ……。すごく怖いお化け……」
俯いたまま恐々とした雰囲気で告げられ、カーシュは顔をしかめた。
「……、お化け?」
「……お化けがボクを引っ張るの。……グイグイ引っ張るんだ。すごく、……すごく怖い顔して……ボクを沈めようとするんだ……」
呟きながら悲しげに目を細める。カーシュはそんなクレアを見つめていたが、小さく息を吐いて彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だって」
呆れるような声色にクレアが「……、なんで?」と拗ねて見上げると、カーシュは頭から手を下ろして苦笑した。
「ジョージさんもピートさんもスコットさんもいる。お前には頼りになる人達が付いてるんだぞ? きっと……この世界で一番の護衛だ」
カーシュは答えながら微笑んだ。
「今まで助けてもらったんだろ? だったらこれからもそうだよ。だから大丈夫なんだ」
クレアは彼を見つめ、その視線をゆっくり落としながらも小さく笑った。
「……じゃあボク……、ジョージ達がいなかったらダメダメだね」
「ダメダメだな」
「……。カーシュよりかは強いぞ」
と、不愉快そうに顔を上げると、カーシュは肩をすくめた。
「今のところはな」
「これからもっ」
「わかったわかった。……ん、とにかく、そんなに怯えることはないって。みんな付いてんだからさ」
「……。ずっと……そうかな……」
視線を落として呟くように言う、そんなクレアに軽く目を見開いて言葉を切らした。ドンッ……、と、心臓に何か重いモノがのしかかったような気がした――。
乾いた空気を感じてか、クレアは間を置いて「……へへっ」と笑った。
「そうだねっ。ジョージにも言われたっ。一緒にいるってっ。ボクは一人じゃないっ」
強がった笑みに、カーシュもぎこちなく笑って頷いた。
「……ああ、……そうだよ」
「あーあ、いつか水を好きになれないかなぁ……」
不快さ混じりに口を尖らせて、今度は一人で広場に向かう。
カーシュはその背中を振り返った。
――もし、もし別の世界の人間だったら……。もし、ブラッドが戻ってきたらどうなってしまうんだろう。……こいつの居場所って……。
『……どうもしなくていい。今のままでいいだろう。……俺達も今のままでいる』
本当に可能なのかな。今のままでいることは……――
なんとなく寂しくなるが、そんな感情はそこに残し、顔を上げてクレアの後を追った。
「ボク、水を好きになりたいなぁ」
「……、誰だって怖いものとか嫌いなものはあるだろ? お前の場合はたまたま水ってだけでさ、別に特別じゃないよ」
クレアはキョトンとした顔で隣りに並んだカーシュを見上げた。
「そうなの?」
「そうだろ」
「じゃあ……カーシュの怖いモノって、何?」
「俺? 俺は……そうだなぁ」
夜空を見上げて考える。
「今回の事で思ったのは……死ぬのは怖いと思った。みんなに恨まれるのも怖いな。……護りたいものを護れないのも怖い」
「カーシュって恐がりだね」
苦笑気味に突っ込まれ、カーシュは不愉快げに口を尖らせた。
「これくらい、お前だってそうだろ」
クレアは「んー……」と視線を上に向けて考え込み、「……そうかもね」と笑った。
「ボクも死ぬのは怖い。恨まれるのは嫌だね。護りたい人護れないのは、辛いね」
「だろ?」
「その中でも一番怖い事って、何?」
「一番? 一番怖いこと……」
不意に脳裏に思い浮かんだ映像。……クレアが泣きながら消えてしまう瞬間――
「何? 何が怖いの?」
首を傾げて覗き込むクレアに、カーシュは一瞬戸惑い、ぎこちなく笑って見せた。
「……、わかんないな、……たくさんあって……」
「カーシュは弱弱だねー」
「やれやれ」と、呆れ気味に笑う。
「ボクが鍛えてあげるよ。ジョージみたいに強くしてあげるから」
「……なれたらかっこいいな……」
「なれたらかっこいいよ。ジョージには負けるけど」
歩き保ってにっこりと笑われ、カーシュは少し間を置いて躊躇い、そっと窺った。
「……なぁ?」
「ん? なに?」
「お前さ、その……ジョージさんとは……どうなってんだ?」
小さな問いかけに、クレアは足を止めることなくキョトンとした顔で瞬きを繰り返した。
「どうって?」
「ジョージさんはただの……護衛? ……好きなのか?」
「うんっ。ボク、ジョージが好きなんだよ。ジョージもボクを好きなんだって」
「……。その、好きってのは……、どういう意味?」
「意味?」
どこか戸惑うような質問に顔をしかめつつ、首を傾げた。
「意味って何?」
「つまりその……、ジョージさんのどこが好きなんだ?」
「強い。大きい。優しい。かっこいい。膝枕が気持ちいい。傍にいてくれる。剣を二本持ってる。賢い」
指折り数えながら答え続けられ、「も、もういいよ」とそれを止めた。
「……すごく好きなんだな」
「うん!」
「……、けど、年が離れてるだろ?」
「そんなの関係あるの?」
「……ないかも知れないけど」
「ボク、ジョージが好きだからジョージの傍にいるんだよ。ピートとスコットも好き。ピートの好きなところはね、強いし、デカいし、肩車が得意だし、おもしろいし、遊んでくれるし」
「わ、わかったわかった」
「スコットはね、お料理がおいしいし、髪の毛ちゃんとまとめてくれるし、お勉強教えてくれるし、駄目なことは駄目って言ってくれるし、あと拗ねたところがかわいいし」
「……お前、みんなのことが好きなのか?」
「好きだよ」
「その中で一番なのが……ジョージさん?」
「そうだよ」
「それってさ、……」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
「?」
「……じゃあ、嫌いな奴は?」
「意地悪ババァ」
「そ、そうだな」
「カーシュが好きなのはナナだろ?」
「だから違うって」
「ナナも違うって言ってた。なんでだろう? 何が駄目なんだろう? ナナのどこが嫌い?」
「嫌いじゃないけど、でも、それとこれとは話しが違うだろ」
「んー、よくわかんないよ」
「つまり、ナナは友達として……好きだって事だよ」
「ボクがジョージを好きなのと何が違うの?」
「……一緒だろ」
「へ?」
「なんでもない」
「?」
フイッとそっぽ向かれてクレアは首を傾げていたが、広場が見えるとキョロキョロして、「……あ!」と走り出した。
「ジョージー!!」
青草の上に座って一人で食事をしているジョージに駆け寄り、断りもなくいきなり抱き付く。
ジョージは気配を感じてすぐに食器を脇に置いたが、強烈なタックルに一瞬背中を仰け反らせ、クレアの汚れた姿を見下ろしてしばらく身動きせず、間を置いて「……どこにいたんです?」と問いかけた。
「ジョージを捜してたんだよっ。お風呂行ったのにいなかったっ」
「……、酷く汚れてますね」
「カーシュにいじめられた」
「いじめてないだろっ」
と、近寄ってきたカーシュは睨み、申し訳なさそうにジョージを窺った。
「クレアに残飯投げられて、つい……。風呂に入って綺麗にしてこいってスコットさんに怒られたんですけど、クレア、一人じゃ駄目だから」
ジョージは、カピカピに固まってきた髪の毛を爪で引っ掻き解すクレアを見て苦笑した。
「……綺麗にしますか?」
「うん。綺麗にする」
頷くと、ジョージは「……行きましょう」と食器をそのままに立ち上がり、クレアと並んで歩きだす。笑顔で手を繋ぐその背中を見送り、カーシュはドッと肩の力を抜いた。
……なんか、疲れたなぁ……――




