第二話 声
「……ふぁ……、あ?」
クレアは大きく欠伸をしかけてそれを止めた。
翌朝――。
誰よりも一番遅く起きて、目を擦りながら伸びを一つ。その時に気が付いた。ピートとスコットがいるのはもちろんだが、そういえば見慣れない顔もいる。
カーシュは壁際を陣取って目の前を通り過ぎる誰かを窺い、ナナに至っては手際よくスコットと一緒に小さな炊事場で食事の準備中だ。
クレアはボサボサの髪の毛をそのままに、寝ぼけ眼で笑った。
「みんなぁ、おはよぉー」
間の抜けた挨拶にナナは笑って「おはよう」と返事をし、カーシュは苦笑いすることで挨拶にする。
ピートは「いつものことだけど……」と、ため息を吐いて歩み寄って片膝を付いた。
「おはようございます」
「おはよーピートー。今日はいいお天気ー?」
「晴れてますよ。食事が出来ますから、先に顔を洗いましょうか」
「……」
「……、顔を拭きましょうか」
「うん」
頷き、「よいしょ」と立ち上がると、ピートの服を掴んで彼の後を追い、ヨロヨロと外に出て行く。ドアが閉まった後、様子を見ていたカーシュは湯気の立つスープの味見をするスコットを振り返った。
「クレアを護るのが皆さんの役目だっていうことはわかったけど……、少し過保護すぎるんじゃないですか?」
昨夜からのまだ短い付き合いだが、どう見ても三人のクレアに対する構いっぷりは目に余る。未だ彼らの正体に疑問は残ったままでよくわからないが、相手が王子だか姫だか、とにかく、いくら身分の高い子どもだろうと、「そこまで構ってあげなくちゃいけないのか?」と感じたことが多い。クレアが不器用だから、というのもわからないでもないが、コップ一杯の水を飲むのをピートが支え手伝うし、洋服の着替えだってスコットが手伝う。何より驚いたのは、一人じゃ身体も拭えず、ジョージに傍にいてもらう、ということ。いくら子どもでも、女の子だ。生まれた時から一緒にいるとは言ってもそこは一線を引くところではないのか――。さっきのこともそう。顔を洗うくらい、一人でも充分にできるはずだ。
理解できない彼らの関係に訝しげに訊くと、スコットは笑った。
「わたしもそう思います。けど……どうも苦手なんですよね、クレア様のあの、素朴なところが」
「かわいいですもの」
と、ナナは濡れた手を拭きながら笑みをこぼした。
「小さいのに強くて、かと思ったらすごく子どもっぽくて。なんだか……クレアちゃんを見てると和みます」
「それなんですよ、それ。……実はクレア様の作戦なんじゃないかとたまに思うくらいで」
真剣な顔で眉間にしわを寄せる、そんなスコットにナナは吹き出し笑った。
彼らのコソコソ話しが盛り上がる小屋の外、まだうっすらと靄のかかる森に囲まれ、薄い青空の下、少ない小鳥のさえずりがどこからか聞こえてくる。
小屋の脇にある樽の中に、ここから少し距離のある川から汲んできた水が入っている。ピートは綺麗な布を濡らしてきつく絞ると、離れた所で大欠伸をしつつ背伸びをするクレアに近寄り、それを差し出した。受け取ったクレアは「ありがとー」とお礼を言って、大人しくゴシゴシ顔を拭き出す。
……いつまで経ってもおぼつかない手つきだ。
ピートはまだまだ眠そうなクレアの顔拭きを見て、「ほら、左目の下」と、汚れているところを教えながら、最終的には彼女から布を受け取って「ここですってば」と手伝う。こっちの方が早くコトが済む。
クレアはされるがまま、頭を片手で簡単に鷲掴みして固定するピートを窺った。
「……ジョージは? どこ行ったの?」
「見回りですよ」
「ボクも行きたかったなぁ……」
拗ねて呟くと「だったら早起きしてください」と簡単に返され、クレアはムスッと頬を膨らませた。
「早起きは無理。ボク、眠いもん」
「じゃあ、見回りも無理ですね」
あっさりと切り返したピートは、不愉快げに口を尖らせるクレアに寝起きの証拠がなくなった事を確認し、「……よし」と満足げに布を下ろした。
「さ、これでいいですよ」
「ありがとう」
笑顔でお礼を言い「んーっ」と背伸びをする。そのままボンヤリと空を眺め、水樽に歩み寄り布を洗うピートを目で追った。
「今日は森の散策に行くよ。呪い士さんを捜すんだ」
「迷いの森ですよね。……絶対に途中でいなくならないでくださいよ?」
じっと疑い深く横目で窺うと、クレアは無視するようにそっぽ向く。まるでいたずらっ子のような態度だが、遠く、木々の間からジョージの姿が見えると「……あっ!」と無邪気な笑顔で駆け寄って腕を広げた。
「ジョージおはよーっ!」
元気よく隣りに並んで手を繋ぐと、ジョージは一旦足を止めて微笑みクレアを見下ろした。
「……おはようございます。……よく眠れましたか?」
「うんっ」
笑顔で大きく頷き、歩き出す彼に合わせて歩幅を広げた。
「今日は森の散策だよっ、呪い士さんを捜すんだっ!」
「……そうですね、そろそろ見つけなければいけませんからね」
「ジョージも来るっ?」
「……はい、お供します」
「へへへっ」
嬉しそうに笑ってピッタリくっつく。そんなクレアを見て、ピートは「やれやれ」と深くため息を吐いた。
「呪い士だから、きっとおばーちゃんだよ」
みんな揃って朝食を食べ終え、出かける準備をする中、クレアは布で仕切られた隅っこで男物の服へと着替えながら陽気に話す。
「カラスとか飼ってるかも。あと……鼻の頭にイボがあるんだ!」
「童話の見過ぎです」
と、着替えを手伝いながらスコットが口を挟んだ。
「おとぎ話ではないんですから」
「でも、呪い士だからすごい人だよ、きっと」
着替え終わると、スコットが襟元などを手直しする。クレアは大人しくしながら、布の向こう側を見透かすように目を向けた。
「ナナもそう思うだろ?」
「男言葉はやめなさい」
眉を吊り上げ即座に注意するが、「べーっ」と舌を出して反抗され、スコットは目を据わらせた。
「呪い士って……あの噂の?」
「いたたたた! ごめんなさーい!」と、布の向こうでクレアの必死な声が聞こえて、壁際に座って落ち着いていたナナは顔をしかめつつ、対面で手持ち無沙汰になって落ちていた木の枝を弄ぶカーシュに訊いた。
カーシュは「ああ」と返事をして木の枝を軽く振った。
「覚えてるだろ? 子どもの頃、ロバートがよく話しを聞かせてくれた」
「あれって、ただの寝物語じゃ……」
「俺は森で変な体験をしたことがあったよ」
「……、そんなところに私を引っ張っていたの?」
訝しげに眉を寄せていると、布が開き、そこから両耳を押さえて半べそを掻くクレアが出てきた。ナナとカーシュはキョトンとしていたが、後からシメた顔でスコットが出てきて「……あ、お仕置きされたか」と理解する。
クレアは不愉快そうに耳を押さえて撫でていたが、ナナの隣りに座ると気を落ち着け、話しに割って入った。
「呪い士さん、見たことあるの?」
「見たことはないわよ。話しに聞いたことがあるだけで」
「おばーちゃん?」
「どうかしら? 意外と、若くて綺麗な人かも知れないわよ?」
「じゃあピートはお留守番だね」
「なぜです?」
食卓の椅子に座って小型ナイフに刃毀れがないかを確認していたピートがキョトンとした顔で首を傾げると、クレアはにっこりと笑った。
「だって、ピート、ナナばっかり見てる」
ピートは「なっ、何を……!」と焦って身を乗り出し、その傍でカーシュは複雑そうに瞬きをする。
クレアは空気を読むことなく、笑ってピートを指差した。
「だから、綺麗なお姉さんだったら、ピート、ダメダメさんになるっ」
「なりませんよっ!」
「まったく!」と眉を吊り上げ、「……あ」と、沈黙したまま困惑するナナに慌てて首を振った。
「じ、冗談ですよ。クレア様はすぐこういうコトを言って」
「ボクもいつかナナみたいになる?」
ピートをそっちのけで隣に座っているスコットに尋ねると、彼はクレアが脱いだ服を畳みながら普通に一言。
「無理ですね」
予告無しにボフッ! と脇腹を殴られ、スコットは唸り声を上げて背中を丸めた。
クレアは知らん顔でそっぽ向き、ちょうど目が合ったカーシュに訊いた。
「ボク、ナナみたいになれる?」
「……。どうなんです、ジョージさん?」
素直に答えたらスコットの二の舞だ。
カーシュに返事を振られたジョージは、荷物をまとめていた手を止めると間を置いてクレアに微笑んだ。
「……クレア様なら、ナナに負けないくらいの女性になりますよ」
その言葉にクレアはとても嬉しそうに笑った。単純な反応に、ナナもカーシュも苦笑する。
ピートは深く息を吐いて腕を組み、ジョージを窺った。
「それで……みんなで行くのか?」
言葉の出だしにカーシュは顔を上げると、「あのっ」と、焦りを交えて身を乗り出した。
「まだ何も言ってなかったけど……」
「なにが?」とクレアに首を傾げられ、カーシュは少し分が悪そうに目を逸らした。
「昨日助けてもらったお礼も、ここに泊めてもらったお礼も……」
「お礼なんて、いるの?」
クレアが顔をしかめてピートに訊くと、彼は肩をすくめて苦笑いした。
「礼なんていらないだろう。そもそも、クレア様が引っ張ってきたんだしな」
「申し訳ないのはこちらの方です」
と、スコットも殴られた脇腹を押さえながら続く。
「これからクレア様のお相手をさせられるのかと思うと、気の毒で気の毒で」
クレアはムスッと頬を膨らませるが、カーシュとナナは「……え?」と少し目を見開いて瞬きをした。
戸惑いそっと目を見合わせ、何かを伝え合う二人に、ピートは「ん?」と首を傾げた。
「どうした?」
「あ……、いえ……」
ナナは視線を逸らして言葉に詰まる。躊躇うような仕草を見せる彼女の代わりに、カーシュは戸惑いながら彼ら一人一人をそっと窺った。
「その……、俺達、……出て行かなくちゃ……」
聞き取りにくいほどの小さな声に、クレアが「なんで?」と顔をしかめると、カーシュは「なんで、って……」と遠慮気味に少し視線を斜め下に落とした。
「助けてもらって、その上ここにいたら……」
「何が駄目なの?」
「駄目って言うか……。全部を甘えたら、それは……」
「だって、行くトコないんだろ?」
「男言葉はやめなさい」
と、スコットに注意されて「……行くトコないんでしょ?」と不愉快げにやり直す。
ピートは、躊躇い目を泳がすカーシュに再び苦笑した。
「出会ったのも何かの縁だ。お前達はここを好き使ったらいい」
「好きに、って……」
「元からあったボロ小屋を手直しして使っていただけだからな。俺達は呪い士に会えばいずれ離れることになる。まあ、どうせこんな森の奥には誰も来んだろ。ここは、お前達二人で好きなように作り直して、自由に生活をすればいいさ。少し歩けば小川もあるし、魚もいる。食草も生えてるしな。わからなければ、今のうちにスコットに教えてもらっておくといい。馬も一頭、置いていこう。日常必要なものは、いずれ、落ち着いてからどこか町に入って手に入れておいてやるよ」
至れり尽くせりの状況に、カーシュは目を見開いて慌てて首を振った。
「け、けどそんなっ……」
「気にすんなって。お前達が使うか動物の住処になるか、どっちかになるだけなんだから」
「……けど」
「お前らのような若いヤツがこれからの世には必要だ。その為にちょっとした手助けをしようってだけだから。その代わり、俺達がここにいる間、ここに立ち寄った時はもてなしてくれ。家主としてな」
笑顔で提案されたカーシュとナナは、言葉も出ずに顔を見合わせた。
「新婚さんの住まいにしてはボロボロだけどねーっ」
クレアの楽しげ声に二人は「うっ……」と息を詰まらせて顔を赤くする。
ピートは「……いいよな?」とジョージに目で伺った。ジョージは頷き、クレアの髪の毛を手串で整えるスコットに目を移した。
「……俺とピートとクレア様で呪い士を捜してくる。……しばらくの間、任せても大丈夫だな?」
「ええ。留守番の共が出来れば、何日ここにいても平気ですよ。教えることはたくさんありそうですしね。腕が鳴ります」
笑顔でナナとカーシュを見ると、ナナは「……はい」と微笑み頷くが、カーシュは視線を落として何かを考え、顔を上げるなりジョージの方へ身を乗り出した。
「何か手伝えることはありませんか?」
「カーシュは薪割り」とクレアが真顔で指差し即答すると、「そうじゃなくてっ」と不愉快げに眉をつり上げた。
「一緒に行って手伝えないかってコトだよっ」
ナナが少し驚いて目を見開き、その視線に気付いたカーシュは彼女に目を向けて籠もった声で小さく切り出した。
「助けられっぱなしだろ? なんか……、すごくイヤなんだ。かと言って、俺、特に何もできないし。……でも、迷いの森ならなんとかなると思うんだ、俺にでも」
声に力はないが、表情は真剣そのもの――。ナナはしばらく間を置いて、ジョージに目を向けた。
「カーシュにもお手伝いさせて頂けませんか? ……私は足手まといになると思うので、ここで、スコットさんとお留守番しています」
遠慮気味な笑みのナナに、ジョージはしばらく考え込み、「……いかがなさいますか?」と、クレアに意見を求めた。
訊かれたクレアは不貞不貞しく腕を組んで目を細めた。
「けど、カーシュって戦えないんだよ? すっごくお荷物だ」
核心を突かれ、当たっているだけに何も言えないカーシュは「うっ……」と分が悪そうに身動いだ。
「それに、ナナを放っておくの、ボク、嫌い」
カーシュは更に言葉に詰まる。
公開処刑のような状況にナナは苦笑して軽く首を振り、カーシュを睨むクレアに優しく声をかけた。
「いいのよクレアちゃん。気にしないで。私はスコットさんと二人で構わないから」
「そりゃあ、スコットはピートみたいにすーぐ女の子口説いたりしないからいいけど」
「ゴホンッ!」と、ピートは咳き込んで見せたが、クレアはそれを無視した。
「せっかく新婚さんなのにさー」
「そ、そういうんじゃないから。一緒に逃げたけど、カーシュとは幼馴染みなだけよ」
「そうよね?」と恥ずかしそうに目で訊くナナに、カーシュも頷いた。
「昔から一緒に遊んでたし。そういうヤツが困ってたら助けなくちゃって思う、それと同じでナナを助けただけで、俺達、別に……将来約束したわけでもな」
「ピートチャーンス!」
クレアが愉快そうに指差すと、「なにがですか!」と、ピートは眉をつり上げた。
「ナナ、カーシュのじゃないんだってっ。よかったねピートっ!」
「そういうことを大きく言うもンじゃないでしょーが!」
「ナナのこと、嫌いなの?」
「だから今はそういうことを言う空気じゃなくて!」
二人の言い合いが始まり、言葉を遮られたカーシュはじっとりと目を据わらせる。
ナナは少し笑って、ジョージを見上げた。
「小さい頃、カーシュに引っ張られて迷いの森で遊んでいたんです。森の中で迷わないように、いつもカーシュの後を付いていました。……あの森は、みんなにとって恐ろしい場所ですけど、カーシュにとっては絶好の遊び場所だったんです。だからきっと、皆さんのお力になれるはずです」
力強く、自信に満ちた笑顔のナナに勧められ、ジョージはカーシュへと目を向けた。「どうだ?」と問いかけるようなその視線に、迷うことなくカーシュは大きく頷いてみせた。
「大体の道案内は任せてください。戦うことは出来ないけど、せめて道を見失わないように、俺が導きます」
「……わかった。それじゃ一緒に来てもらおう」
ジョージの許可に、カーシュは嬉しそうに「はい!」と大きな声で返事をした。
それからすぐに、それぞれ旅の準備を進め出す。ジョージはカーシュと共に外に出て、「迷いの森はあっちにあって」と話しをし出し、ピートとスコットは旅の間の食事の確保を。そして、クレアとナナは――
「ナナはカーシュが好きじゃないの?」
唐突な質問に、腰を下ろして身なりを整えるのを手伝っていたナナはキョトンとした。
ドアの開け放たれた小屋の中、クレアはおやつ程度の木の実を巾着に入れ終え、それを腰から吊し下げながら、服を畳むナナを窺った。
「ボク、恋人だと思ってたんだけど」
「それはどうかしら……」
「好きじゃなかったの?」
「……そうね……」
ナナは少し視線を斜め下に置いて、表でジョージと打ち合わせをしているカーシュを見つめた。
「好きか嫌いか、どちらかと言えば好きだけど……。それが愛情なのかは、たぶん、私もカーシュもわからないのよ」
「どうして?」
「ンどうしてって……。一緒にいたら、感覚が麻痺しちゃうわ。得に私達なんか、子どもの頃から一緒に遊んでいたし」
「けど、カーシュはナナをがんばって助けたろ?」
「……。男言葉を使うのはよくないわ、クレアちゃん」
スコットほどではないが、呆れるような目で見られたクレアは「嫌いにならないで」と言わんばかりの情けない表情で口を閉じる。
ナナは苦笑し、再びカーシュに目を戻した。
「カーシュは昔からよ。優しい子なの。……最初は私がいじめっ子から助けてたのに、いつの間にか立場が逆転しちゃって。……弟みたいな子だったのに」
「弟……」と、クレアが残念そうに頬を引きつらせ笑うと、「そうよ」と、ナナはなんでもない笑顔で肩をすくめた。
「だって、カーシュは私より年下なんだから」
「へ?」
「私が十八だから……カーシュは十五になったかな。……そういえば、クレアちゃんていくつなの?」
「ボクは十七だよ」
答えた途端、ナナの顔から笑みが消え、流暢だった口が閉じた。困惑と不可解さ、そんな空気を感じて、クレアは口を尖らせて拗ねた。
「言いたいことはわかる。もっと下だと思ったんだろ?」
「男言葉は使っちゃ駄目」
「……、はい」
素直に頷くと、ナナは少し笑い、吐息と共に笑顔で気を取り直した。
「けど、カーシュとはお似合いかもね」
「え?」
「どう? カーシュなんて」
「弱い」
真顔で即答され、ナナは微妙な笑みを見せた。
「ク、クレアちゃんが強いのよ……」
「ボク、強い人がいいんだ。ジョージとか。ジョージ、強いんだよ」
ニコニコ笑顔で報告するクレアに、ナナは愉快そうに頭を軽く斜めに傾けた。
「クレアちゃんはジョージさんが大好きなのね?」
「うん。ボク、ジョージが好き。ジョージもね、ボクが好きなんだって。だからね、ボク、ジョージのお嫁さんになるんだよ。約束したんだ」
「そう、よかったわね」
「うんっ」
嬉しそうに頷いていると、「クレア様、そろそろ」と、ピートの呼ぶ声が聞こえた。
ナナは腰を伸ばして外を見て、「はーいっ」と手を挙げるクレアに目を戻した。
「気を付けてね、クレアちゃん」
「わかったよ」
そう答えて、クレアは思い出したように真顔でナナを見上げた。
「……、もう、大丈夫?」
そう静かに問われたナナは、最初なんのことかわからなかったが、間を置いて、少し悲しげに微笑んだ。
「大丈夫、って言ったら……嘘かな。思い出すと、泣きそうになるけど……。でも……今はまだ安心のできる状況じゃないし……、何かをしていた方が楽なの。……カーシュだって、同じだと思う。すごく責任を感じているはず。何かしていないと、気持ちが押しつぶされちゃいそうになって……。だから……クレアちゃん達の助けになろうとしてるんだと思う。……私も、元気出さないと。……逃げようって、そう決めたのは自分なんだから。……でしょ?」
寂しい笑顔で首を傾げるナナに、クレアは間を置いて彼女の手を握った。
「天国のお父さんとお母さん、きっと、ナナのこと見守ってくれてるよ。がんばれって言ってくれてる。カーシュのこともそう。ボク、そう思うんだ。……うん、絶対」
強く頷かれ、ナナは少し笑って「……ありがとう」と応えた。
クレアは「うんっ」と笑顔で頷くと、彼女の手を離して「……よしっ」と、気合いを入れて胸を張った。
「お留守番よろしくね。スコットがドジしたら叩いていいよ」
「……。クレアちゃん、少しは女の子らしくしないとジョージさんに嫌われちゃうわよ?」
「このままでいいって、ジョージは言ってたモン」
「そ、そう……」
……だから直そうとしないのね。
ナナはため息混じりに苦笑して、「行っくぞー!」と、やる気満々で拳を振り上げるクレアの背中を見送った。
「森って、どこに行っても森だね。どうしてなんだろ?」
――迷いの森の中。
「シーロゥの森も同じだった。見た目が同じなら、森って、一つのトコに固まっちゃえばいいのに」
――黙々と歩く。
「街も大きいのが一つあったらそれでいいのにね。みんながそこに住んでるんだよ。だから、あっち行ったりこっち行ったりしなくていいんだ」
ブンブンと小枝を振り回して歩くクレアを横目でチラリ。カーシュはため息を吐き、背後でクレアの話しに笑っているピートをうんざり気味に振り返った。
「……いつもこんなンですか?」
「いつもこうだ」
「……、よく疲れませんね」
「慣れたからな」
「全部一つにまとめちゃうんだ。それでね、空いた土地は……遊技場にするんだっ」
勝手に一人で延々話しをする。
「みんなで遊べるトコだよ。決まり事はねぇ、意地悪をしないことでしょ、それから、仲良くすることでしょ、それから」
カーシュは再びため息を吐いた。
迷いの森に入る前からこんな感じ。早く喉が潰れて欲しいのだが、どうやら絶好調のようだ。
……ここは迷いの森だぞ? 一歩間違えたら出られないんだぞ? なのに……。
クレアは用心深く辺りの気配に気を向けるジョージを振り返り笑顔で見上げた。
「遊技場が出来たらジョージは何したい?」
無邪気に問いかけられ、ジョージは彼女を見下ろすと微笑んだ。
「……クレア様と散歩ですね」
「うんっ!」と、クレアは嬉しそうに頷く。なんとなく、彼女の周りだけがホンワカとした空気になっている。
カーシュは疲れ切った顔で辺りを見回した。
……だいぶ奥まで来たな……。
そんなに大きな森ではないが、油断が命取りになる。ジョージを振り返って見上げると、あらかじめ用意しておいた長細い生地を鞄から束で取り出した。
「そろそろ目印を付けていきます」
そう告げて足を止め、低木に生地を結ぶ。その行動にクレアは首を傾げた。
「目印?」
「あまり深くまで行くと、本当に帰れなくなる」
「大丈夫だよ。あっちからずっと真っ直ぐ来たんだし」
と、なんでもないことのように後ろを指差す。
カーシュはため息を吐いてクレアを無視し、ジョージとピートを交互に見た。
「もう少し先に湖畔がありますけど、休憩しますか?」
「しない!!」
眉を吊り上げて身を乗り出し怒鳴るクレアに、カーシュはキョトンとして瞬きを数回した。
ジョージは苦笑すると、不愉快そうなクレアの頭を撫で、顔をしかめるカーシュに頷いた。
「……先を進もう。日が暮れるまで、進めるなら進んでおきたい」
「……、わかりました」
カーシュは小首を傾げながら歩き出した。
……休憩が嫌いなのか? ……動くか喋るかを止めると死んでしまうのかもな、こいつ。
一人でなんとなく納得する。
――しばらく歩き続け、その間もクレアの独り言は止まることを知らない。
「呪い士さんに会ったら、ボク、魔法をかけてもらおうかな。もっと強くなる魔法。あと、大きくなる魔法。ぐーんと背が伸びるんだ。でっかくなって、ピートを追い越すの。そしたらね、大きな剣も持てるからね、今よりもっともっと強くなるんだよ」
話しがチンプンカンプンだ。
「知ってる? 呪い士さんが飼ってるカラスはね、喋るんだ。言葉がペラペラなの」
呪い士がカラスを飼っているか、誰も知らないのに。
「呪い士さんが持ってる杖に触ると、ネズミになっちゃうんだ。すっごく小さいんだよ。なのに力が強いんだ」
なんの童話を読んだのか。
カーシュは興味を示すことなく耳を傾けるだけ傾け、呆れるように肩の力を抜いた。そして、改めて気を取り直したが、ふと、顔を上げて足を止めた。
訝しげに眉間にしわを寄せてキョロキョロと辺りを見回すカーシュに、後ろを歩いていた三人は足を止めた。
「どうした?」
ピートが肩から担いでいた荷物を抱え直し聞くと、カーシュは彼を振り返ることなく、足早に何かを探すように辺りをウロウロと動き回り、足を止めて呟くように答えた。
「……変わった」
「え……?」
カーシュは歩いてきた道を振り返り、クレアを引き連れて近寄ってきたジョージを焦るように見上げた。
「変わりました、道が」
その言葉の意味がわからずにジョージは顔をしかめた。ピートも同じく顔をしかめて背後を振り返るが、「……あれ?」と瞬きをして、もう一度、確認するようにそこを凝視し、指差した。
「さっき確か……大きな木の横を通り過ぎたはず……だよな?」
だが、そこには大きな木なんて一本もない。道を遮るように低木が重渡っている。歩いてきたはずの道が、なくなっている。
クレアはキョロキョロと辺りを見回し、不可解げに眉間にしわを寄せた。
「なにこれ? どういうこと?」
「……これが迷いの森の由縁だ」
呟くような声に「……ユエン?」と繰り返したクレアは、辺りをくまなく見回すカーシュを振り返った。
「ユエンって、何?」
「……コロコロと形を変えて、入り込んだ者の気を動転させる。この森に住み着く何者かの仕業だって、小さい頃に聞いた。……こうなると冷静でいられなくなって、みんな、来た道の様子を忘れて遭難するんだ。そういう人達の魂を喰らうんだよ」
「でも、来た道は真っ直ぐ後ろだから大丈夫っ!」
余裕の笑顔で後ろを指差され、カーシュはガックリと項垂れてため息を吐いた。――その時
《おやまぁ、こりゃ珍しい。こんな所までよく迷い込んで来たもンだねぇ》
どこからか聞こえる老婆の声に、咄嗟にジョージとピートはクレアを囲み、険しい表情で息を潜めた。
カーシュは目を見開いて息を止め、じっと身動き出来ないまま、ゆっくりと視線だけで辺りを窺う。
《一人、二人、……三人……、……四人。……ふむ》
クレアはジョージの服を掴み、ピートとの間から顔を覗かせた。ぐるりと見回すが、彼ら以外の人影はどこにもない――。
「……どこにいるの?」
《お前らには見えやしないんだ》
クレアはじっとどこかを見ていたが、ビッ! と指差し「そこだ!!」と真顔で大きく言い切った。
《適当に言うんじゃないよ、小娘》
呆れ声に「チッ、外れたか」とクレアは指を鳴らして舌を打つ。
《……小娘、お前、見たことのある顔だね。何者だぃ?》
「おばあちゃんこそ何者だ?」
《失礼だねっ、あたしはおばあちゃんなんて年じゃないよっ、おばさんっ……いやっ、お姉さんと呼びな!》
図々しい老婆の声に、「誰がだ誰が」とピートとカーシュは目を据わらせることで突っ込む。
クレアは訝しげに眉を寄せていたが、不満そうに口を尖らせた。
「声がガラガラのくせに」
《お黙り! あたしゃモウロクしちゃいないよ!》
「……、おねーさん、何者?」
《あたしの質問に答えな。お前は何者だ? 名前は?》
クレアは不快さを露わに眉を吊り上げ、文句の一つでも吐こうかと拳を握ったが、「押さえて」と、ピートに軽く肩に手を置かれ、気を落ち着かせて拳を緩め、口を開いた。
「……ボクはクレアだよ」
《それは本当の名前かぃ? ……あたしにゃ見えるんだよ。お前には本当の名前があるはずだ。クレアってのは……そこにいる“白いの”が付けた名前だろ》
クレアはチラ、と、背後のジョージに少し視線を向け、再び辺りを見回した。
「おばあちゃんまじな」
《お姉さん》
即座に遮られて不愉快だったが、それでも、気を取り直して問いかける。
「おねーさん、呪い士? ボク、呪い士さんを捜してるんだ」
《あたしの質問はまだ終わっちゃいないよ》
……この、クソババァ。
内心そう思っても口には出さず、クレアは目を据わらせた。
《お前の本当の名前はなんだぃ? 言ってごらん》
クレアが振り返り窺うと、ジョージとピートは小さく頷いた。
「……ボクはブラッド。ブラッド・デロルト・ベルナーガスだよ」
《……ふむ、……なるほどな……。そうかぃ……》
言葉の節々が“何かを知っている”という雰囲気を醸し出している。それを感じ取ったクレアは、懸命に目を動かして老婆の姿を捜した。
「ボクのことを知ってるの? じゃあ、国王が変貌した理由も?」
《……、お前は何をしてるんだぃ? ブラッドは……死んだと聞いたが?》
「生きてたんだよ。ボク、国王を元に戻したいんだ」
《なぜだ?》
口調の変わった質問にクレアは一瞬表情を消したが、すぐ訝しげに眉間にしわを寄せた。
「なぜって?」
《見たところ、お前は現状に不満を抱いてはおらん。ならばこのままでもよいのではないか? 国王に楯突けばどうなるか……身を以てわかっていることだろう》
カーシュは、チラ、と、クレアを窺った。彼女はじっとどこかを見つめていたが、少し視線を落とし、ゆっくりと口を開いて切り出した。
「……このままじゃ、みんなが不幸だよ」
クレアは悲しげに目を細め、それでも、気持ちを隠すように顔を上げた。
「ボク、たくさん見てきたんだ。……みんな、死んだ目をして全然笑わないんだ。変な病気が流行ってるみたい。……治さなくちゃ。……けど、誰も何も出来ないから。……ボクは、ベルナーガスの人間としてこの事態を放っておけない。ボクはこのままでも楽しいけど、もっともっと、たくさんの人と一緒に楽しいことがしたいんだ。……だから、このままじゃいけないんだ」
真剣に訴えるクレアを、カーシュは目を見開き見つめた。
《つまり……国王を元に戻すのがお前の役目だと?》
「そうだよ。ボクの役目だ」
《ハッ! 小娘の分際でよくもまぁそんな大層なコトが言えるもンだね》
鼻であしらわれ、クレアはムカッ! と眉を吊り上げて身を乗り出した。
「ボクは強いんだぞ!!」
熱り立つクレアの肩を押さえ、ピートは辺りを注意深く見回した。
「……あなたが呪い士ですか?」
《さぁてねぇ……。お前さん達が捜している者かどうかはわからないねぇ》
どこかしら試すような、軽く突き放すような声にピートは目を細めた。
「……姿を現してはどうです?」
《あたしはさっきからあんた達の前にいるよ》
老婆の言葉に四人は視線を先に向けるが、やはりどこにもいない。その様子を察してか、老婆は鼻にかかった笑い声で言った。
《あんた達には見えないのさ》
「……見えない?」
《まあ、いずれ対面するだろうがね。……クレア、と言ったね?》
「……そうだよ、ボクはクレアだ」
《国王が何故変貌したか、だったね》
「……うん」
《国王は開けちゃいけない扉を開けてしまったのさ》
「やれやれ」と言わんばかりのため息混じりの声に、クレアは不可解げに眉を寄せた。
「扉?」
《扉から出てきた者に心を乗っ取られちまったんだ》
「……誰が出てきたの?」
《さてねぇ……。……影、とでも言うかな》
「そいつを倒す方法は? 国王を元に戻す方法は?」
戸惑いを交えて身を乗り出し知恵を乞う。
《あたしがそう簡単に教えると思うかぃ?》
「うん」
《教えるか!》
怒鳴る見えない老婆に「なんで!?」とクレアは眉を吊り上げた。
「教えてくれてもイイだろ!」
《甘ったれるんじゃないよ! 他人の力ばかりに頼ってどうすんだぃ!》
「だってわからないんだモン!!」
投げやりなのか、素直なのか……。老婆の深いため息が聞こえた。
《困った子だね、ホントに……》
呆れ気味に言った後、間を置いて《……よし》と、改めて話しを続けた。
《国王を助ける方法を教えてもいいが、条件がある》
「……なんだい?」
《選びな》
たったその一言に、クレアはキョトンとした。
「なにを?」
《ここにいる者で不要だと思うヤツを、一人、選びな。そいつを生け贄に国王を助ける方法を教えてやろう》
ピートとジョージは顔を見合わせた。つまり、カーシュが言っていた“魂を喰らう”という、アレか。――クレアは睨むような目でじっとしている。
《どうした? 国王を助けたいんだろ? 誰を切り捨てる?》
「……」
《たかが一人の命。国民の命に比べりゃ大したことないだろ。さあ、選ぶんだ》
老婆の含み笑いが響く中、風が吹き抜け、ザワッ……と木々が騒いだ。
「――俺にしろ」
小さな声に、ジョージもピートも、そしてクレアもカーシュに目を向けた。彼はどこかを真っ直ぐ見ている。
「俺でいい。……この中で一番不要なヤツは俺しかいない」
彼の申し出にジョージもピートも何も言わないが、表情を険しくしている。
クレアは真顔のカーシュを見上げ、見透かそうとするように目を細めた。
「……本気だな?」
「……。ああ、本気だ」
大きく頷くその姿を見て、クレアはゆっくりと遠くに目を向けた。
「ナナが泣くぞ」
「……あいつは強いから大丈夫だ。……けど……あいつのこと、頼む」
「……。やだね」
段々と不愉快げに眉をつり上げながら、クレアは拳を作った。
「人の面倒見るの、ボク、嫌いなんだ。だから知らない」
「……」
「けど、……キミの勇気はボクが受け継ぐ」
「……。……?」
カーシュが顔をしかめると、クレアは深く息を吸い込んでどこかを睨みながら力んだ。
「決めた!! 不要なヤツ!!」
怒鳴るような声に、カーシュは「……まさかお前!!」と目を見開き振り返った。
「クレア駄目だ!!」
「おばあちゃんいらない!!」
「へっ?」と、止めようとしたカーシュは目をパチクリとし、ピートは少し口元に笑みを浮かべ、ジョージは……真顔のまま。
クレアは喧嘩腰に拳を振り上げ、下ろした。
「ボクが不要だと思うのはおばあちゃんだ!! おばあちゃんなんかいらないぞ!! わかったか!! こン、の……意地悪ババァ!!」
ここにスコットとナナがいたら怒られるところだろうが。
《アハハハハッ!》
大きな笑い声が響き渡り、みんなは目を動かした。これで“正解”か? そう思った次の瞬間――
《こーのクソガキがァ!!》
老婆の罵声が響き、羽を休めていた鳥達が一斉に空に飛び立った。
《いい気になるんじゃないよ!!》
「どっちがだ!!」
《お前みたいなヤツに国が救えるもンか!! 野垂れ死ぬのがオチさ!!》
「ボクは死なない!! この国を変えるまでは!! ……絶対に死なないぞ!!」
拳を握り締めて大きく言い切った後、突然、遠くに何かが見えた。
ボンヤリと、霧のように浮かぶ人の形……――
【……俺はここにいる……】
そう言って消えてしまった。
クレアはキョトンとした表情で瞬きをして、ボンヤリとそこを見ていたが、
《とっとと出て行きな!! 二度と来るんじゃないよ!!》
老婆の突き放す声にハッ! と顔を上げた。
「逃げるのかクソババァ!!」
拳を振り上げるが、もうそれ以降、老婆の声はしなくなった。
みんなで辺りを見回しても何も起こらないまま。「出てこいババァっ!」とクレアが悪態吐いても反応すらない。
ピートは、「……ふぅ」と深く息を吐いて、辺りを注意深く探るジョージに目を向けた。
「ありゃなんだ? 呪い士か?」
「……さぁな。可能性はあるだろうが……」
「くそーっ」と、悔しげに拳を握りしめるクレアの頭を撫でながら、ジョージは少し体の力を抜く。
カーシュは静かになった森を見回し、何も起こらないことを確認してから安堵のため息を吐いた。
「……いなくなりましたね。……驚いたな……」
「お前の勇気にもな」
「え?」と振り返り見上げると、ピートは腕を組んで鼻から呆れるような息を吐いた。
「自分から命を差し出すなんて」
「……あ、あれは……、その……」
戸惑いを露わに目を泳がすが、
「今度あんなマネしたら許さねぇぞ?」
と、鋭く睨まれて、カーシュは「うっ……」と息を止めて硬直した。
クレアは彼らの間から出ると、足を進めて一点を見つめ、そこに立った。“誰か”が立っていた場所だ――。
足下を見下ろし視線を動かしていると、何かを見つけて手に取った。
汚れ一つもない、白い羽根……。
遅れて付いてきたジョージは後ろからそれを覗き込んだ。
「……珍しいですね。白い鳥は尽く殺されているはずですが……。水鳥の羽根でしょうか」
「……ねぇ、見えた?」
「……何がです?」
「ここに誰かが立っていたんだよ」
「……いえ、わたしには何も見えませんでしたが……」
「気のせいかな……。男の子の声が聞こえた気がした。なんて言ったっけ。ここにいる、だっけ……。おばあちゃんが化けたのかな?」
「……。誰かがクレア様にメッセージを届けたかったのかもしれないですね」
「メッセージ?」
繰り返して見上げると、ジョージは小さく頷き微笑んだ。
「……クレア様の真っ直ぐな気持ちが誰かに届いたんです。……あなたの助けを待っているのかもしれませんね」
「ボクの助け? だったら、どこにいるのか教えてくれたらいいのにね?」
不服げに首を傾げるクレアの頭に、ジョージは手を置いた。
「……先に進みましょう。……あの老婆を見つけて詳しい話しを聞く必要があります」
「ボク、おばあちゃん嫌いだ」
膨れっ面で口を尖らすクレアの頭をジョージは苦笑気味に撫でる。
ピートとカーシュは周りを窺いながら二人に近寄った。
「森の形が変わるなら迂闊に進むのは危険だな」
ピートがため息混じりに腕を組むと、ジョージは頷いてカーシュに目を向けた。
「……今、どのくらいの位置かわかるか?」
「結構奥まで入り込んでます。森の形は変わったけど……太陽の向きと目印があるから、引き返すのは可能ですが……」
「……引き返すわけにはいかない。……何かの手がかりがここにあるとわかった以上は」
クレアも「そうだね」と、同意するように頷いた。
「おばあちゃん嫌いだけど、捕まえて国王のこと吐かせなくちゃ」
「……でも、どうして姿が見えなかったんだろう……」
カーシュは視線を斜め下に置いて、呟き考え込む。
「この森を変えてるのもあの人なのかな。いつか見えるって……気味悪いな」
「カーシュって、強いんだか弱いんだかわかんないヤツだね」
カーシュは肩をすくめるクレアを不愉快そうに睨んだ。ただ、自分でもそう思うところがあるので文句は言えない。
ジョージは森の奥、道なき道を見つめた。
「……ここにいても仕方がないな。……先を進もう」
「これ、どうしよう?」
と、クレアが白い羽根を上げて見せると、ジョージは小さく笑みをこぼした。
「……持っていてはどうですか? 珍しいですし……、クレア様が拾ったのも何かの縁。幸福を呼ぶ羽根かもしれませんよ」
根拠はないが、クレアは嬉しそうに笑って羽根をポケットに入れた。
ピートは肩から提げていた荷物を抱え直して空を仰いだ。
「行くなら早くしたほうがいいな。日が暮れ……」
頭上高くをカラスが群れをなして飛んでいく、その様子に言葉を切った。カラス自体は珍しくはないが、見たことない程の大群だ。
不気味な光景に顔をしかめる、そんなピートの視線を追ってみんなも空を見上げると、クレアが「呪い士さんのペットだ!」と嬉しそうに指差した。
足踏みを始めて、今にも追いかけ出しそうなクレアに、ピートはジョージを窺った。
「どうする? 追いかけてみるか?」
ジョージは空を見上げているカーシュに目を向けた。答えを待つような、その視線に気付いたカーシュは、間を置いて強く頷いた。
「帰りは、俺、絶対みんなを誘導します」
自信に満ちた声に、ジョージは「……よし」とクレアを見た。
「……走れますか?」
「競争なら負けないぞーっ!!」
愉快げな声を振り絞ると同時に勝手に走り出してしまった。ピートが「こらこら!!」と慌てて追いかけ、ジョージとカーシュも後を追う。
先頭を走るクレアは、カラスの群れを見失わないように顔を上げて追いかけていた。背の低い木や大きく成長した雑草が行く手を遮り邪魔をするが、それらを避け、「追いかけっこなら負けない!」と、そんな奇妙な勝負心に炎を灯して。だが、その途中、空ばかりを見ていたせいか、足下に伸びる木の根っこに気付かず爪先を引っかけて思いっきり地面に倒れてドタンッ! と体を打ってしまった。
「クレア様!!」
すぐにピートが駆け寄って体を支え起こすと、クレアはその場にペタンと座り込み、痛みに顔を歪めながら息を詰まらせ、半べそ気味に、それでも「泣いてたまるか!」と言わんばかりに歯を食いしばってケガがないかと焦るピートを涙目で見た。
「……カ、カラス……」
「そんなことよりっ、ケガはっ? 痛いところはっ?」
「……カラス……」
空を見上げるが、すでにカラス達はいない。鳴き声すら消えてしまった。
クレアはショボン……と俯いた。
「……ごめん、カラス、いなくなっちゃった……」
「そんなことはいいですからっ。ちゃんと立てるんですかっ?」
心配を露わに顔を覗き込むピートに「……うん」と頷き、支えてもらいながら立ち上がった。手の平や、ズボンの破けた膝小僧から血があふれている。
ジョージはひざまづくと、携帯していた鞄の中から布を出し、ケガをした足に巻いた。クレアは痛みに少し顔を歪めただけで、弱音は吐かない。
「大丈夫?」
カーシュが気にして訊くと、クレアは答えることなく俯き、再び顔を上げて悲しげに空を見渡した。
「……カラス……」
「諦めろよ」
「……だって……」
口を尖らせてシュンと落ち込んだ、その時――
「きゃあぁぁ!! シッシッ!! あっちに行きなさいよもうっ!!」
と、女性の声が少し離れた場所から聞こえ、四人は目を見開いてそちらを振り返った。カーシュとピートが走り出し、ジョージが走ろうとしたクレアを捕まえて抱き上げ、足を進める。
「どうして来るのよ!! エサならないわよ!! あっちに行きなさいったら!!」
木々を抜けると広い原っぱに出た。その片隅には大きめの小屋や井戸、畑まである。
カーシュとピートは、ブンブン! と竹ボウキを振り回して、小屋の屋根に留まるカラス達を追い払おうとムキになる女性の姿にキョトンとした。後からやって来たクレアとジョージも、「シッシッ!!」と、ホウキを振り回す女性の姿に何も言えずにいる。
「ったく!! どっから来るのよ!! いつか食ってやるからね!!」
逃げないカラス達を見上げて怒鳴る女性。
ピートは、ホウキを振り回すのを止めた彼女の背後にそっと近寄った。
「あの……、ちょっとよろしいですか?」
問いかけただけだったのに、女性はビクッ! と肩を震わせると同時にホウキを上げて振り返った。
「殺すわよ!! 私は本気だから!!」
恐ろしいほどの形相に、ピートは手の平を向け、必死で誤解を解こうと頭を左右に振った。
「い、いやっ、ち、ちょっと……っ! 待った!」
「カラス共のエサにしてやろうか!? それともオオカミのエサにしてやろうか!? どっちがいい!!」
見た目は美人なのだが、女性ながら、とにかく迫力がある。物凄い眼光で睨まれ、ピートはタジタジと後退りした。
クレアはジョージに下ろしてもらうと、ヒョコっ、ヒョコっと、怪我をして痛む足を引きながら近寄った。
「……呪い士のお姉さん……?」
そろっと、ためらい訊いてみる。
クレアのか細い声と汚れた姿を見下ろし、女性は顔をしかめたが、何を思ったのか、表情を険しく変えてピートを睨み付けた。
「なんて事……! あんた達っ……こんな小さな子に何をしたの!!」
「……え!?」
「こンっ……の……ゲス野郎ォ!!」
ブンッ!! と、力一杯振り上げられたホウキに、ピートは唖然としていただけだった――
「昔は多かったのよ、森に迷い込んできたうえに襲いかかってくるような腐った奴が」
ホリーと名乗った女性は、傷だらけになったピートの消毒をし終え、今はクレアのケガを診ている。
「人が親切で助けてあげようって思ってるのに……恩を仇で返そうとするなんて。なんて世の中なのかしら」
ブツブツと文句をこぼしながらも手際よく手当をしてくれて、四人にスープまで用意してくれた。
見た目よりホリーの住んでいる小屋は大きくて、部屋も仕切られ、きちんと台所も作られて生活に必要な物が全て揃っていた。外に出ない限り、どこかの街の民家にお邪魔しているような感覚だ。
ジョージは出されたスープを飲みながら、クレアの傷を消毒するホリーを窺った。
「……お一人ですか?」
「そうよ。ずっと一人」
「寂しくないの?」
椅子に腰を下ろした状態で足を出しているクレアが訊くと、「全っ然」と、あっさりと首を振って肩をすくめた。
「寂しいどころか、退屈だと思えることもないわ。……オオカミは来るし、カラスは集まるし。……気の休まる暇もない」
「……、お姉さんは呪い士じゃないの?」
「マジナイシ?」
ホリーは包帯を巻く手を止めて顔をしかめ、少し間を置いて「……ああ」と小さく頷いた。
「変なのが出るわよ、この辺」
「意地悪ババァ?」
「……。意地悪かどうかは知らないけど、お婆さんはお婆さん。……はい、終わった」
綺麗に手当をしてもらい、クレアは「ありがとう」とお礼を告げて薬を直すホリーに更に問いかけた。
「その意地悪ババァはどこにいるの?」
「……余程嫌いなのね」
「うん。ボク、大っ嫌い」
「……。どこに住んでるのかは知らないわ。たまに現れるだけよ」
医療箱を閉じて一旦腰を上げ、それを棚の上に置くホリーを目で追いながら、クレアは顔をしかめた。
「姿が見えるの? ボク達、見えなかった」
「私にも見えないけど、話し相手になるからね」
「どんな話しをしてるのっ?」
身を乗り出すが、ホリーはそれには答えず、壁際の椅子に腰を下ろして訝しげにそれぞれを窺った。
「それより……あなた達は何者? ただの迷い人ではなさそうね?」
探るような視線にクレアはそろっとジョージへ目を移す。「どうしよう?」と目で問われ、ジョージは間を置いてホリーへと切り出した。
「……わたし達はとある事情で旅をしているんです。……その、あなたの前に現れるという老婆とお会いしたいのですが」
真顔で伺うが、ホリーは「プッ」と少し吹き出した。
「まさかっ……国を救おうとしてる、なんて言わないわよねぇっ?」
少し馬鹿にしたような、おかしそうな言い方に四人は黙り込む。
ホリーは「アハハ……ハハ……、……は?」と、笑いを止め、訝しげに眉を寄せた。
「え? ……、そ、そうなの?」
「ボク達、国王を元に戻したいんだよ」
ホリーは唖然としていたが、真顔に戻って「……ウソでしょ」と呟いた。
「ホントなの?」
「ホントだよ」
「待ちなさいよ。じゃあ……誰がブラッド王子?」
想像もしていなかった問いかけに、ピートとジョージは顔を見合わせた。クレアとカーシュもソロッと互いの出方を窺う。
ホリーは口籠もる彼らの中、一番確実だと思えたカーシュに目を向けた。
「あなたね? あなたが王子ね?」
「あ、いや、俺じゃなくて」
カーシュが戸惑い慌てて首を振ると、「ボクだよ」と、クレアが手を挙げた。ホリーはキョトンとした顔でクレアを見つめ、そしてカーシュに目を向けると、確かめるように再びクレアを見た。
「どうしてそんなことを知っているんだ?」
ピートが訝しげに訊くと、ホリーは不可解そうな顔をしたままで答えた。
「お婆さんが言ってたのよ。ここに王子が来るから世話をしてやってくれって……」
躊躇うように目を泳がし、言葉を続ける。
「けど、もうだいぶ前の話しだったのよ? 最初聞いた時はそりゃもう……王子様が来るってだけで有頂天で。……けど、いくら待っても来ないし。化かされたんだと思ってたのに」
「意地悪ババァが、ボクの面倒を?」
クレアが自分を指して訊くと、ホリーは「そうよ」と答えつつ顔をしかめた。
「って、あなた女の子でしょ?」
「そうだよ」
「ブラッド王子は男の子よ」
「実は女の子だったんだ」
あっけらかんとしているクレアに「……ワケわからないわ」とホリーは額を抑える。
「……老婆から聞いた話しを教えてはもらえないでしょうか?」
傍に寄って腰を下ろすジョージに、ホリーは困惑げな目を向けた。
「教えるも何も……嘘だとばかり思ってたし、ひょっとしたら幻聴かと……」
「話しを教えてっ」
クレアも必死な表情で詰め寄ると、ホリーは深く息を吐き、「……ん?」と、自分の膝に手を置いて身を盛り出す彼女に眉をひそめた。
「あなた、臭いわ」
「あ、昨日一日、ノーマンしてたから」
「なんて子なの!!」
ホリーはカッと眉を吊り上げて、断りもなく勢いよくクレアの襟首を掴み立ち上がった。息苦しさに負けて、顔を歪めつつ足を引きずり背を伸ばすクレアに、ピートが「おいおい!!」と慌ててホリーを制止しようと立ち上がったが、先程のこともあって迂闊に近寄れない。
「お風呂を用意してあげるから入ってきなさい!!」
怒鳴られたクレアの顔から血の気が引いた。
「やだ!! お風呂いやぁぁ!!」
途端に半べそを掻き、手足をバタつかせて逃げようとするが、ホリーが襟首を掴んで離さない。
「駄目よ!! 不潔な!! 女の子でしょ!!」
「いやだ!! いやぁーっ!!」
カーシュはキョトンとして瞬きをした。……こんなに嫌がるクレアを見るのは初めてだ。
ピートは「まあまあっ」と焦ってホリーの肩を掴んだ。
「それじゃ、用意してもらえばこっちで綺麗にするからっ」
ホリーは、暴れるクレアを離さないままギロッとピートを睨んだ。
「あなたが綺麗にするってコト?」
「……あっ、そ、それは誤解で! べ、別にクレア様と一緒にお風呂に入るとかそういうことじゃなく!!」
首を振って慌てて弁解する。これ以上誤解されたんじゃ、そのうち本当に毒殺される! そう恐怖を感じたが――
「……水が怖いんです」
落ち着いた静かな声に、ホリーとカーシュはジョージを振り返った。
「……幼少の頃、溺れて。……それからというもの、水が溜まっているような所に近寄ることも出来ないんです」
ホリーは、「ぐすん……」と涙ぐむクレアを見て、ジョージに目を戻した。
「トラウマになっているってこと?」
「……極度の」
「だからって汚いままじゃいけないでしょ」
容赦なくグイッと引っ張られ、クレアは「!?」と息を詰まらせた。
「いらっしゃい。私が綺麗にしてあげるから」
「ぃやだあぁぁー!! ジョージ助けてえぇぇー!!」
ボロボロと涙をこぼし、ズルズル引っ張られながら腕を伸ばすと、ジョージは息を吐いて後を追った。
――その後、クレアの大きな悲鳴と泣き声が響き、しばらくホリーとの格闘が続いていたようだが、大人しくなったと思ったらジョージが一人で戻ってきた。「何をやっているんだっ?」と、カーシュと話しながら落ち着きなくウロウロしていたピートは、困惑げに彼を窺った。
「クレア様はっ?」
「……気絶した」
「大丈夫なのかっ?」
「……呼吸は安定しているから大丈夫だろう。……湯船には近付けないよう、決して浸けないように言ってある」
ピートは不安な表情を消すことはないが、腰を下ろして落ち着いたジョージにとりあえず問題はないのだろうと悟り、肩の力を抜いて深く息を吐いた。
二人の様子に不安を感じ、カーシュは訝しげに眉を寄せた。
「……そんなに水が怖いんですか?」
身を乗り出してそっと問いかけると、ピートはため息を吐きつつ首を振った。
「聞いたんだろ、……幼少の頃に死にかけたこと」
「……あ、はい。……国王の手にかかったって……聞きました……」
言っていいものか迷ったが、目を逸らしながら告げると、ピートは再びため息を吐いて声を漏らした。
「……クレア様を沈めたんだ」
カーシュは少し眉を寄せ、顔を上げた。
「……沈めた、って……」
戸惑いを露わにジョージとピートを交互に窺うが、二人は視線を遠くに向けている。それ以上何も聞けずに口を噤んでいると、ピートが肩の力を抜いて言葉を切り出した。
「クレア様は湖畔の散歩が好きでな。いつもは俺達が付き添っていたんだが……、国王が二人だけで歩きたいと願い出て。そしたら……クレア様の頭を掴んで水に沈めて、そのまま湖に投げ込んだんだ」
愕然とした表情で硬直し、何も言葉が出ない、ショックを隠せないカーシュに、ピートは深く息を吐いた。
「その時の恐怖が未だに残ってるんだろうな、……水に近寄れない。近寄ることを恐れるんだ。……五年前か。沼に気付かなくて落ちてしまった。すぐに助けたけど、そのままずっと意識が戻らなくて。目が覚めたのも、つい数ヶ月前だ。……クレア様は小さいだろ? 意識がなかったせいか、普通の子より少し成長が遅いんだ」
「……そんな、酷い……」
「酷いなんてものじゃない。……あれじゃあかわいそうなくらいだ」
痛々しく首を振る、そんなピートを見てカーシュは俯いた。――これで合点がいった。彼らがクレアに対して過保護なこと。ただの世話焼きではないこと。迂闊に彼女から目が離せないわけだ。
それよりも、まさか父親である国王にそんなことをされていたなんて。自分たち庶民には「王子は事故死」としか伝えられていなかった。元気な王子だったから落馬か何かだろうと噂はあったのだが……。
なんだか気が重く、段々と不安に駆られだしていた――。
そして、その日の夜……。
ホリーに夜食を作ってもらい、ごちそうになった後、台所横の板間で暖を取っていると眠っていたクレアがモゾモゾと動きだし、傍にいたジョージが覗き込んで頭をそっと撫でた。その感触で目を覚ましたクレアは、虚ろな目を開け、ゆっくりと顔を動かして目を擦る。
「……大丈夫ですか?」
ジョージが苦笑気味に囁き問いかけると、クレアはのんびりとした動作で起き上がり、ペタンと床に座ってボー……とどこかを見つめ、何も答えることなくゆっくりとした動作でジョージの首に腕を巻いて抱き付いた。ジョージは微笑み、「よしよし」とクレアの背中を撫でる。
縫い物をしていたホリーはそれを見てため息を吐き、安堵のため息を漏らすピートに肩をすくめた。
「まるで別人みたい」
「……。まだ子どもだ。怖いことがあれば誰かにしがみつきたくもなるだろ」
「引っ掻かれたこっちの身にもなって欲しいわ」
軽く睨むピートに臆することなく、おでこのひっかき傷をそのままに立ち上がってスープを用意する。
ジョージはクレアを静かに離すと、沈んだ顔を覗き込み、頬を撫でた。
「……クレア様?」
「……、……」
「……ピートもカーシュも心配していましたよ?」
「……」
「……大丈夫。……ちゃんとみんな傍にいますから」
クレアは間を置いて頷くと、いつの間にか着ている大きなワンピースの裾を引きずり、ピートに近寄った。そして自然の流れのように腕を広げたピートに抱き付き、しばらく間を置いて離れ、カーシュに近寄った。カーシュは「……へ?」と瞬きをしたが、クレアが腕を広げたので、訳がわからないままとりあえず抱きしめてあげた。クレアはカーシュから離れると、今度はホリーに近寄り、ホリーは「はいはい……」と、みんなのマネをして抱きしめる。
その後、ズルズルと裾を引きずりながらジョージの元に戻るクレアに、カーシュは小首を傾げて「……なんですか、これは?」とピートに目で問いかけた。
「心配かけてごめんなさい、の挨拶だ」
ピートに苦笑され、「……ああ」と軽く返事をしつつも「……変な子だな」と内心訝しげに思う。
ジョージは、大人しく傍に座ったかと思ったらすぐにのんびりと横になって膝に頭を乗せるクレアの肩を撫でながらスープを用意するホリーを目で追った。
「……話しは明日でもいいですか?」
「私もその方がいいわ」
クレアの分の暖かいスープをテーブルに置くと、深く息を吐いて腰に手を置いた。
「外には出ないようにね。オオカミが取り囲んでる時があるから」
そう注意して奥の部屋へと歩いて行ったホリーの背中を見送り、ピートは眠りに落ちそうになるクレアの顔を覗き込んだ。
「……クレア様、大丈夫ですか?」
声をかけても返事がない。ボンヤリとしたクレアに不安を感じ、ピートは少し戸惑いジョージへと目を向けたが――
「ボク……何か忘れてることがあるかもしれない……」
小さな声に見下ろすと、クレアはまだボンヤリと真っ直ぐを見ている。ただ、何を見ているのかはわからない。
「……誰かのこと、忘れてるかも……。……思い出せないんだ……」
呟きながら、クレアは次第に目を閉じていく。
「……ごめんね……。ボク……、……キミがわからないよ……」
目が完全に閉じてしまうと、しばらくして寝息を立て始め、ピートは顔をしかめたままジョージに目を向けた。
「なんのことだ?」
「……さぁな……。水に触れて、深い記憶が甦ったか……、そんなところだろう」
「……誰かを忘れてる、って……」
「……。眠ろう。……明日は多くの情報を仕入れることになるかもしれないからな」
ジョージは横になると、クレアを包み込むように抱き寄せ、鞄を枕に壁に背を付けて目を閉じた。そのまま動くことも何かを喋ることもない彼を見てピートは深く息を吐き、窺っているだけのカーシュに肩をすくめた。
「……寝るか?」
「あ……、はい……」
空いている床にゴロ寝するピートを見倣い、カーシュも片隅で横になる。……だが、なかなか寝付けない。暖炉のかすかな炎のせいじゃないことはわかる。なんとか眠ろうとすればするほど、寝付けない自分がいる。
「……気になることはたくさんあるだろうけど」
カーシュは、仰向けで腕枕をし天井を見つめるピートに顔を向けた。
「いずれわかることもあるし、……わからなくていいこともある。……選択は出来ないだろうが、なんにしろ、お前はお前が見るものをただ受け止めるしかない」
「……受け止めるだけ……ですか?」
「ああ、そうだ。……それだけで充分だろ」
「……そうでしょうか。まるで……傍観者だ」
「意味があればそれでもいい」
「意味……。難しいな……」
「簡単さ。……忘れなけりゃいいんだ」
「……」
「……眠るぞ。明日は明日でクレア様の暴走が始まるからな。……体力蓄えておかないと」
ため息混じりに目を閉じるピートにカーシュは少し笑い、ジョージの腕の中で眠るクレアを見つめている間に眠りに落ちた――。




