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六 : 大志 - (20) 六月二日・参

「これより、二条御所へ移る」

 広間へ戻った信忠は、開口一番に皆へ宣言した。この表明に、一刻も早く逃れるよう進言していた貞勝は絶句した。

 先程から時間が経ち、広間には新たに駆け付けた者の姿もある。その中には傅役を務めた新左の姿も含まれていた。

「……その理由を、お聞かせ願えないでしょうか?」

 貞勝が代表して質問すると、信忠は予め用意していた答えを披露した。

「妙覚寺に比べ、二条御所は守りが堅く大軍を迎え撃つに適している。そこへ入り、明智勢の動きを見定める」

 その考えに、貞勝も反論しない。

 妙覚寺は、信長が上洛した永禄十一年から京での定宿にしていた。防御性を高める為に改修こそされていたが、塀を高くした程度で守りが堅いとは言い(がた)かった。対して、二条新御所は信長が妙覚寺に代わる新たな宿所として大規模な改修が(ほどこ)されており、石垣の上に高い塀が設けられ水の張った(ほり)があるなど強固な守りを誇っていた。妙覚寺と二条新御所のどちらかを選ぶとなれば、間違いなく後者だ。

 二条新御所へ移る案に、異議を挟む者は居ない。それを確かめた信忠は毅然と言い放った。

「では、直ちに移る。皆、急ぎ支度をせよ」

「ははっ!!」

 信忠の命に、皆が一斉に応じる。直後から家臣達が動き始め、慌ただしくなってきた。

 皆の動きに、信忠は内心ホッとしていた。松姫を逃す為に自らが(おとり)になるのが本当の狙いとは、口が裂けても言えなかった。幸いなことに、伝兵衛の不在を不審に思う者は出ていない。

 すると、新左が怪訝な顔をして信忠に近付いてきた。

「若、伝兵衛の姿が見えませんが……」

 信忠を除けば、一番伝兵衛と同じ時間を過ごしてきた新左が気付いた。これも想定していた事なので動揺はない。信忠は周りを確認してから新左の耳に口を寄せる。

「松姫様を無事に送り届けるべく、護衛につけた」

 その言葉に合点がいった様子の新左。明智光秀の叛逆で何が起きるか分からず、難を逃れる松姫が混乱に巻き込まれるとも限らない。松姫に対する想いを知っているだけに、信忠が最も頼りとしている伝兵衛を護衛につけた事に新左も理解を示した。

 伝兵衛が居ない理由を明かした信忠だが、二条新御所へ移る本当の狙いを新左が追及してきたらと思うとヒヤヒヤしていた。付き合いが長いだけ新左だからこそ、信忠の思考を把握している筈だ。はっきり言えば、隠し通せる自信がなかった。

 すると、新左は声を落として訊ねてきた。

「……松姫様は、まだこちらに?」

「あぁ。支度が整い次第、すぐに発つ手筈となっている」

「それはいけませんな」

 信忠の言葉に、新左は首を振る。何がいけないのか分かっていない信忠に、新左はさらに続ける。

「これから先の事を思えば、松姫様もきっと心細いことでしょう。ここは我等に任せ、若は松姫様と会って不安を取り除いてあげなさいませ」

 新左が信忠の真意に気付いているのかいないか分からないが、松姫に会うよう促されるとは思わなかった。だが、新左の話も一理ある。今生の別れになるのを考えれば、会っておくべきだ。

「ささ、早く。松姫様が()たれる前に。ここは我等にお任せあれ」

「……分かった」

 背中を押す一言に、信忠も新左の厚意を受けることにした。二条御所へ移る準備は信忠が居なくても滞りなく行える。少しくらい離れても大丈夫だろう。

 ソッと、信忠はその場から離れた。廊下に出てから歩く速度が自然と早くなる。会いたい気持ちが、信忠を押していた。


 信忠が松姫達の居る部屋に現れると、二人は驚いた表情を見せた。伝兵衛は支度に時間が掛かっているみたいで、まだ到着していない。

「勘九郎様……」

 まさかもう一度会えるとは思っていなかった松姫は、ビックリしていた。一方の信忠は間に合って良かったと胸を撫で下ろした。

 建物の中は移動に伴う準備で慌ただしかったが、ここは喧騒から離れているのもありやや落ち着いていた。信忠は片膝を付いて座っている松姫と目を合わせて言った。

「本当に、会いに来てくれてありがとう。二度とお目に掛かれないと思っていたので、会えた時は嬉しかった。この二日、短い間ではあったけど真に幸せな時を過ごせた。……どうか、お元気で」

 すると、松姫が信忠を抱き締める。松姫の体の温もりが、(かぐわ)しい(かお)りが、伝わってくる。

「松も……松も、勘九郎様に会えて、幸せでした。二日だけですが、夫婦(めおと)のようになれた事は一生忘れません。……どうか、ご武運を」

 たまらず、信忠も抱き締める。願わくば、ずっとこうしていたい。でも、状況は切迫している。最後にこの温もりや感触を、脳にも心にも刻んでおきたい。その一心だった。

 名残を惜しむように、ソッと離れる。涙が目に浮かぶ松姫は、本当に愛おしかった。

 そこへ、誰かが急いでこちらへ向かって来る足音が聞こえてきた。

「お待たせしました」

 姿を現したのは、伝兵衛。旅装に打飼袋(うちがいぶくろ)を背に負い、槍を手にしている。パンパンに詰まっている袋の中には、多額の銭が入っているのだろう。

「伝兵衛」

「……はい」

 名を呼ばれ、初めて信忠が居る事に気付いた伝兵衛。一瞬応えるのが遅れたが、気にせず信忠は続ける。

「長い間、尽くしてくれて感謝しかない。……報いてやれず、済まなかった。最後の最後まで、私の我が儘を聞いてくれてありがとう」

「勿体無きお言葉……」

 信忠の言葉に、深く(こうべ)を垂れる伝兵衛。堺で出会ってから約十三年、信忠に仕えた者の中で一番長く側に居てくれた。しかも、縁も所縁(ゆかり)も無い外様の身で、苦労も人一倍多かったことだろう。信忠の感謝の思いは、言葉で伝えきれないくらいに大きかった。

「難しい役目だが、頼んだぞ」

「はっ。身命を賭してお守り致します」

 力強く応える伝兵衛。それを受け、信忠は最後まで残っていた気()かりが消えた。これで、思い残す事は何も無い。あとは武人として、最期まで戦うまで。

「さ、参りましょう」

 別れを済ませたと見た菖蒲が、松姫を促す。伝兵衛が先導するように退室し、松姫も信忠に一礼してから去って行く。菖蒲も松姫に寄り添う形で出て行った。

 三人は妙覚寺の裏口から出た後、東へ向かう手筈となっている。主要な道は信長や信忠の逃亡に備えて封鎖されていると考えられるが、伝兵衛と菖蒲が何とかしてくれるだろう。託した以上は信じるしかない。

 これで、やるべき事は全て済ませた。悔いは無い。あとは、潔く散るまでだ。


 信忠を含めた織田勢は、守りが堅い二条新御所へ移った。これに困惑したのは誠仁親王を始めとする二条新御所に居た人々で、自分達も戦に巻き込まれる事を危惧していた。

 一方、寅の正刻から開始された本能寺の攻防は、『信長公記』に()れば辰の正刻(午前八時)頃に決着したとされる。明智勢は一万を超えるのに対し、織田勢は百程度しか居なかったにも関わらず二刻も耐えたのは、本能寺の守りが堅牢だった事もあるだろう。本能寺は内側から火の手が上がり、炎上の末に焼け落ちた。織田勢の大半を討ち取ったものの、信長と蘭丸など近習数名の遺体は発見に至らなかった。その為、光秀は総力を挙げて捜索する事を指示している。

 本能寺を落とした明智勢の次なる標的は、妙覚寺に宿泊している信忠を討ち取る事だ。だが、本能寺攻めに思った以上の時間を費やした事で、信忠達が二条新御所に籠もられてしまった。しかも、二条新御所の中には誠仁親王が居るという。この件に何の関わりも持たない親王が命を落とす事を望んでいない光秀はどうすべきか苦慮した。そこへ、同じく親王に危害を加える気も巻き込むつもりも全く無い信忠の意思を明智方に伝えるべく、文官の村井貞勝が使者として送られた。交渉の末、親王は徒歩で退去することで合意に至った。親王の身分であれば輿(こし)で移動するのが当たり前なのだが、信忠が皇室関係者に紛れて逃亡する恐れがあるとして明智方が認めなかったのだ。親王が二条新御所から出てくると、光秀と懇意にしており先日の愛宕山で開かれた連歌会にも参加していた連歌師の里村紹巴(じょうは)が簡素な輿と共に現れ、親王はそれに乗って内裏に避難した。

 二条新御所を明智勢の大軍に囲まれた状況に、斎藤利治を始めとする家臣達が「我等が血路を(ひら)きますので、お逃げ下さい」と強く勧めたが、信忠は「日向守はこれ程の事を起こした以上、備えもきっとしているに違いない。雑兵の手にかかって死ぬくらいなら、ここで腹を切る」と答えたという。議論を交わす間に外は蟻の這い出る隙間もなくなり、説得は諦めざるを得なかった。

 皇族方の退避が完了した(うま)の正刻(午前十二時)頃、明智勢約一万が攻撃を開始。二条新御所に籠もる織田勢は約千五百と少なかったが、経験豊富な直臣が大半を占めたのもあって明智勢を容易に近付けさせなかった。死傷者を出すばかりで苦戦を強いられる明智勢は一計を案じ、隣接する近衛前久邸の屋根の上から二条新御所へ矢弾を撃ち込んだ。想定外の方角からの攻撃に織田方は多くの兵が死傷し、混乱に乗じて明智勢は二条御所へ雪崩れ込んだ。

 明智勢の侵入を許した事で“最早これまで”と悟った信忠は、自害を決意。最後まで付き従ってくれた鎌田新介に『遺骸は床下へ隠せ』と命じ、自刃。新介が介錯し、首と遺体を隠した。二条新御所は信忠の指示で火を放ったのもあり、炎上した後に全焼。明智方は信長に続き、信忠の首を確保出来なかった。

 信忠、享年二十六。これから飛躍が見込まれる中での、非業の死だった。

 この二条御所攻防戦で信忠の弟・信房や重臣・斎藤利治、信長の近習の猪子“兵助”高就、毛利“新左”良勝、奉行職の野々村正成、福富秀勝、菅屋長頼、団忠正、さらに京都所司代の村井貞勝など、錚々たる面々が討死した。中には前田玄以(げんい)(一説では『京まで連れてきた三法師を信忠が玄以に託して脱出させた』とされるが、この時三法師は岐阜城に居たので誤りとされる)や信忠の叔父・織田長益(ながます)(後の有楽斎(うらくさい))など生存者もあったが、天下を動かす織田家の中枢を担う逸材が一日にして失われた形だ。そうした点では、光秀の叛逆は大成功したと見ていい。

 六月二日の“本能寺の変”は、世間の人々を大きく震撼させた。天下統一も現実味を帯びてきた状況での高転(たかころ)びに、織田家や家臣達の運命も大きく変わることとなる――。


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