百二 備えるもの
「やれやれ……相変わらず人使いの荒い御仁だ」
ぶつくさと文句を垂れなら、健速は帳簿の文字を目で追ってゆく。
しかし言葉とは裏腹に、その表情にはほんのりと喜色が浮かんでいた。
現在は今だ兵を募る段階ではあるものの、いよいよ復讐に向けての一歩を踏み出したのだ。
七年という歳月、手をこまねいているしかできなかった須佐の民達にとってはこれ以上ない朗報である。
信濃で諏訪部高取が戦支度を始める以前より、健速はこのような事態を見越して準備を進めていた。
全国から合流した須佐の民指導の下、五馬傘下の土蜘蛛らと熊野の兵とで合同訓練を行い、猪武者であった土蜘蛛らに兵法のなんたるかを叩き込んだのだ。
今では簡易だが陣形を敷けるようにまでなり、指揮系統も確立できていた。
更には伊勢に集った民の中からも、国に不満を持つ若者を中心に有志を募り練兵を推し進めており、兵の拡充に一役買っている。
大黒屋の財力と伝手にものを言わせ、ありったけの資材をかき集めて、これらの兵がいつでも出撃できるよう物資の備蓄も整いつつあったところへ、白星の指示が飛んできたのだ。
万全の態勢とはいかずとも、多少の無理は聞ける下地は出来上がっていたが故の即応であった。
この手間を怠り、信濃に赴く福一に何の手土産も持たせられていなければ、此度の同盟は上手くまとまらなかったかも知れぬ。
その点で、今回の影の功労者は間違いなく健速であったと言えよう。
かくして同盟の件が上手くゆき、健速が残りの備蓄の確認をしていた折。
峠の出店にて見張りに立っていた千歳から、蜃越しに連絡が入った。
南より、白路の使いが訪れた、と。
「さて……白星殿の眷属であれば、まず間違いはないとは思うが……一体どのような者達だろうな」
帳簿をしまうと、出かける支度を始める健速。
白星から白銀の狼の群れとは聞いていたが、未だ実物を見ていない健速は、多少の緊張をもって会談に臨むこととなった。
出店付近には一般客が多く、突然狼が現れれば混乱の坩堝と化そう。
それを危惧した白星と健速は、峠より少々離れた森の中を合流地点と定めていた。
果たして指定された場所には、千歳とじゃれ合う巨大な白き狼の姿があった。その体高は、直立した健速よりも上かと思わせるほど。
白星が加護を施した龍穴の結界内にて鍛錬に励んでいた白路の民は、その膨大な気脈を一身に受け、若い雄を筆頭に、一回りも二回りも成長を遂げていた。
若き雄の首元には白星が贈ったと見られる氷の櫛がぶら下がっており、使者であることは一目瞭然であった。
「いらっしゃいましたね、健速様。見て下さいな、とても良い子ですよ」
半ば覆い被さられるような姿勢にも関わらず、千歳は笑顔で健速を迎えた。
よほど毛皮の感触が気に入ったのか、その間もずっと白狼の背を撫で続けている。
白狼もそれが心地良いのか、舌を出しはっはっと犬の如く息荒く尻尾を振り回すという、なんとも奇妙で平和な画を晒していた。
「う、うむ。貴殿が白路の使いか? いや、その前に言葉は通じるのか……?」
健速の疑問に対し、たどたどしくも、予想外にしっかりした言葉が返って来る。
「だいじょうぶ。おれ、白星様に人のことばおそわった。だからおれがきた。おまえが須佐の長か? よろしくな!」
一度千歳から離れると、櫛を首にかけた若い雄は礼儀正しくお座りをして、挨拶代わりに鼻先を健速に突き出した。
「ああいや、おれは長代行といったところだ。健速と言う。こちらこそよろしく頼む。早速で悪いが、長殿のところまで案内を頼めるか」
健速が鼻先を軽く撫でると、若い雄はふんふんと匂いを嗅ぎ始める。
「うん。たしかに白星様のにおいがする。よし、こっちだ。ついてこい!」
臭いの照合が済むと、白狼は颯爽と森の奥へ二人を誘った。




