嘘偽りの無い素直な気持ち
「ねえ、もしかして茉白って口からも毒を吐けたりするの?」
再び舌を触ろうと茉白の口元に伸ばされた手は即座に叩き落され、弥夜は残念そうに肩を落とした。
「毒蛇なんだから当たり前だろ」
「こらこら、そんな皮肉を言わないの。じゃあカップ麺を半分残してくれた時、毒を混ぜて私を殺そうと思えば殺せたの?」
「ああ、灰になって死んでただろうな」
「それでも毒を混ぜずに素直に譲ってくれた茉白が可愛い。あーん、可愛い可愛い超可愛い」
身を寄せた弥夜が上手い具合にやり過ごされる。行き場を失った両腕が何かに触れる訳もなく悲しげに空を抱き締めた。
「少なくともお前よりは可愛いだろうな」
「何それ、私の方が可愛いもん。まあ何にせよ、私に毒は効かないけどね」
勢い余ってソファに顔面ダイブをした顔を上げながら舌を突き出す弥夜。はいはい、と言わんばかりに面倒臭そうに後頭部を掻いた茉白は大きな欠伸をする。普段の態度からは想像もつかない可愛げな声が響いた。
「風呂も入ったし眠くなってきたな。誰かさんのせいで今日は疲れた」
「私も疲れたもん、誰かさんのせいで。あと、風呂じゃなくてお風呂って言った方が女の子らしいよ」
「どの口が言うんだよ」
煙草の火を消した茉白は熊のぬいぐるみを抱いてベッドへと倒れ込む。ナイトガウンから覗く色白の肌が、仄かな照明に照らされて艶やかな表情を魅せた。
「もう寝るの?」
「お前も風邪引く前に風呂入って寝ろ」
大きめの布団を独り占めした茉白は静かに目を瞑る。 静かな部屋内には秒針の音だけが取り残され、互いに何かを言う訳でもなく数分の沈黙が流れた。
「ねえ茉白、えっちしよっか」
「……うっざ。一人でしてろ」
話しかけるなと言わんばかりに背を向けた茉白。その際、胸元で抱かれているぬいぐるみが体重を受けてぺちゃんこに潰れた。
「十四の頃にそういう店で働かされたって言ってたよね? いくらで他の人としてたの? 払うから」
「はあ? 馬鹿かお前。経験も無い奴が調子に乗るな」
僅かに陰る表情。手を後ろに回して自身の腰を優しく撫でた弥夜は切なげに視線を落とした。
「……うん、無いよ。こんな身体だから誰も相手にしてくれなかった。気持ち悪いって言われたから」
「まだ十八だろ、そういうのは焦るものじゃない。第一、お前もうちも女だろ」
「女の子でもいいよ。茉白なら、いい」
「変態かお前は。さっさと寝ろ鬱陶しい」
「……私は本気だよ」
ため息をついた茉白は勢い良く起き上がり、驚いて目を丸くした弥夜を押し倒す。身体に跨って腕を拘束した彼女は、威圧を含む深紫の瞳で弥夜を見下ろした。
「いいか? お前とは違ってうちは何十人、何百人と相手をしてきたんだ。その中にはもちろん女も居たよ。この歳でお前よりも卑猥なことやエグいことも知ってるし、お前が知らないようなことも大体はしてきた。全ては金の為、生きる為だ。それでもうちとやりたいなら相手してやるよ」
「うん……いいよ? 出来れば痛くしないでね」
流麗な黒髪が胸中を代弁するようにシーツの上で乱れる。押し倒されたまま抵抗を見せない弥夜は、僅かに頬を紅潮させて目を逸らした。
「……いくらでしてくれる?」
「それ以前に身体が震えてるだろ。ビビるなら最初から言うな」
「ビビってなんかないもん」
拗ねて尖る口元。解放された弥夜は、未だ少し紅潮したままの頬を煩わしく思いながらも、自由になった身体を起こし立ち上がる。
「お風呂入るね」
「寝てたら起こすなよ」
「はいはい、解りましたよっと」
くしゃみを何度かした彼女は身体の冷えを懸念して即座にシャワーを浴びる。出てきた時には夜も遅く、外の喧騒も嘘のように静まり返っていた。
「起きてるじゃん、眠れないの?」
横になったままの茉白は、何かを思考しているのか静かに瞬きを繰り返している。部屋内にはまだ新しいであろう煙草の煙が漂っていた。
「……少し考え事をな」
「へえ? 茉白でも考え事するんだ」
「お前はうちは何だと思ってるんだ」
布団に飛び込む弥夜。その反動で大きく跳ねながらも茉白の隣に並び、独り占めされている掛け布団を無理矢理に半分取り返した。
「それで、考え事って?」
「お前には関係ない」
「ひっど。相方でしょ?」
「だからなった覚えなんてないだろ」
「じゃあ考え事だけでも聞かせてよ」
僅かな間が訪れ、視線が交差する。短い思考を巡らせた茉白は観念して胸中を晒した。
「うちは今まで、還し屋の連中を数え切れないほど殺してきた。その中には、お前みたいに家族を大切に想う奴も居たのかと思うと……何とも言えない気持ちになった。還し屋を殺せば、その後ろで囚われている関係の無い奴まで殺していたことになるだろ」
「殺らなきゃ殺られていたんでしょ? それなら仕方ないよ。こんな穢れた世界なんだから……先ずは自分が生きることを優先して欲しい」
「……生きる目的が無くてもか?」
「目的なんて後で見付ければいい。それに今は、茉白は私の相方なのだから。勝手に死ぬのは赦さないし、もしそうなってしまえば私泣いちゃうよ?」
「くっだらねえ」
儚げな表情で首を振った弥夜は、茉白の口元を人差し指で優しく塞ぎながら続ける。
「下らなくなんかない。私は茉白と生きていたい。それは私の……嘘偽りの無い素直な気持ちだよ」
バツの悪そうな顔で背を向ける茉白。寝返りをうった際、髪から漂ったシャンプーの甘い香りが弥夜の鼻腔を擽り、それが悪戯心に火をつける。
「何で無視するの?」
自身の腕と脚を目一杯絡める弥夜。「鬱陶しい」と吐き捨てた茉白は布団を頭まで被って姿を隠す。これはチャンスだと言わんばかりに、弥夜の口角が大きく吊り上がった。
「あれあれ茉白? もしかして照れ隠ししてるの?」
「はあ? 何でお前に照れ隠ししないといけないんだよ」
「じゃあその可愛い顔を見せて? 絶対赤くなってるでしょ」
「……うっざ。早く寝ろ、うちは疲れてるんだ」
「私の方が疲れてるもん」
他愛の無いやり取りは暫く続くも、弥夜が先に寝落ちしたことで唐突な終わりを告げる。木にしがみ付くナマケモノのように、茉白に絡み付いたまま寝息が立てられていた。
「ったく、ふざけんな……どんな寝相だよ」
毒づきながらも起こさないようにと気を遣う茉白は、静かに眠る弥夜の顔に視線をやる。流れるような美しい黒髪に、僅かに口を開けていることによって露になった特徴的な八重歯。整った顔立ちは照明も相まって、更なる妖艶さを醸していた。
「抱き付いたまま寝やがって。涎垂らしたら殺すからな」
枕元に手を伸ばした茉白は、淡い光を発するパネルを操作して照明を落とす。暗くなった部屋の中で茉白の心の内に最初に芽生えたのは、弥夜が自身のことを大切にしてくれているという想いだった。ぶっきらぼうで無愛想な態度を取ってもなお、諦めること無くぶつかってくる。
──どうしてうちにそこまでするのか。
率直な疑問が湧くも、茉白は無意識の内に口元を緩めていた。
「お前がそこまで言うのなら……うちも応えてやるよ」
必要とされたことなど生まれて初めて。親からも愛されなかった茉白が、初めて弥夜の相方として生きると決めた瞬間だった。




