第19話 その二択は、却下です
最後の頁まで、私たちはちゃんと読んだ。
補助式も。
失敗例も。
例外条件も。
人格保持の試行も。
全部あった。
そして、全部駄目だった。
器だけを残して人格が崩れた例。
人格を引き戻しても核を食い潰した例。
補助式で数日だけ安定し、その後、より激しく崩壊した例。
どこにも、“二人とも残る”答えはなかった。
「……全部、見ました」
掠れた声で、私が言う。
「ああ」
「……他、ないです」
「ああ」
短い返事。
その声に、怒りはなかった。
否定もなかった。
ただ、静かに沈んでいくみたいな響きだけがあった。
私は恐る恐る、隣を見た。
セイル様は、記録束に目を落としたまま動かない。
指先だけが白くなるほど強く、紙の端を押さえている。
けれど、その顔は――
(……あ)
胸の奥が、ひやりと冷えた。
その表情を、私は知っている。
何もかも手を尽くして。
祈って。
願って。
それでも、もう届かないと分かってしまった人の顔。
深夜の病室。
白いシーツ。
機械の音。
もう何をしても戻らないと、医師に告げられたあとの、あの静かな時間。
夫が、最後に見せた顔と、あまりによく似ていた。
「……っ」
喉の奥が痙攣する。
やめて。
そんな顔をしないで。
あの時と同じだ。
何もできないまま、私はまた、この顔を見送るのか。
「セイル様……」
呼んだ声は、情けないほど震えていた。
でも、セイル様は顔を上げない。
ただ、掠れた声でぽつりと言う。
「……そうか」
その一言だけで、駄目だった。
私はもう一度、あの時の自分に引き戻される。
救えなかった。
間に合わなかった。
ただ、体温が消えていくのを見ているしかなかった。
(嫌だ)
胸の奥で、何かが悲鳴を上げる。
(また、同じ顔を見たくない)
その瞬間だった。
セイル様が、はっとしたように顔を上げた。
「……まずい」
低い声。
次の瞬間、左手の甲を押さえる。
塔の結界と連動した魔力印が、焼けるように脈打っていた。
「結界に触れたものがいる」
研究室の空気が、一変する。
過去に沈みかけていた意識が、一気に現実へ引き戻された。
「っ……リリアナ様!」
私とセイル様の声が、ほとんど同時に重なる。
***
「結界に触れたものがいる」
低い声が研究室を裂いた瞬間、世界が一気に現実へ引き戻された。
「っ……リリアナ様!」
私の声と、セイル様の声がほとんど同時に重なる。
セイル様は記録束を閉じるより早く立ち上がった。
その動きは速い。けれど、やっぱり少しだけふらつく。
「転移する」
「はい!」
私が答えるより先に、セイル様の手が私の腕を掴んだ。
青白い魔法陣が足元に走る。
保管庫の冷えた空気が、一瞬で歪む。
次の瞬間、視界がひっくり返った。
***
戻った先は、塔の中央ホールだった。
けれど、さっきまでの静寂はもうどこにもない。
結界の破れた音が空間そのものに響いている。
黒い石床には白い亀裂が走り、ホールの天井近くには、聖教会の封印環と帝国の拘束式が二重に展開されていた。
「……もう来てる!」
私が息を呑む。
聖教会。帝国。
今度は前回のような“交渉の顔”ではない。
白金の法具を構えた神官たち。
重装の魔導官。
さらにその奥、前回はいなかった深紅の祭服をまとった大司教級の男と、帝国紋章の刻まれた長杖を持つ上級魔導将が立っていた。
本気だ。
権限も、戦力も、全部揃えてきた。
ホール上階では、リリアナ様が結界の中心に半ば封じられるように立っていた。
淡い光の檻が、彼女の周囲を幾重にも囲っている。
「リリアナ!」
セイル様の声が、鋭く響く。
リリアナ様が顔を上げた。
その表情は青白く、でも意識はある。
よかった、と一瞬だけ思った、その時。
帝国側の上級魔導将が、静かに杖を上げた。
「術者、帰還確認」
その声は感情が薄くて、逆に怖かった。
「予測通りだな。聖女から離れられぬ」
「黙れ」
セイル様の周囲に、黒い魔法陣が一斉に咲く。
槍。鎖。刃。
さっき見た時より数は少ない。
でも、一つひとつの密度が異様に高い。
聖教会側の大司教が冷たく告げる。
「聖女リリアナは、教会に帰属する聖なる器である」
「死者を蘇らせた禁術者セイル・ノヴァリスは、帝国の管理下で保全・監査対象とする」
そして二人は、まるで当然みたいに続けた。
「従え」
「従わぬなら、力ずくで分離する」
その一言で、セイル様の空気が変わった。
黒い魔力が、ホールの温度ごと奪っていく。
「……分離、だと」
低い声。
「貴様らごときが。私たちを」
でも、その直後だった。
セイル様の肩が、ほんのわずかに揺れる。
私は見た。
リリアナ様を囲う檻の光が強くなるたび、セイル様の指先から熱が引いていくのを。
(まずい)
あれは、外から刺激されて接続が逆に強まっている。
「セイル様!」
「下がれ」
「無理です! 今、結界が接続ごと引っ張ってる!」
私の叫びに、大司教の目が細くなる。
「ほう。やはり、気づいていたか」
ひどく穏やかな声だった。
けれどその穏やかさの中身は、完全な悪意だった。
「聖女器と術者核の接続。未熟ではあるが、使えぬわけではない」
ぞっとする。
あいつらは、もう分かってる。
保管庫の全部ではなくても、少なくとも“利用できる程度”には把握している。
「教会は聖女を還元できる。帝国は術者核を保全できる。双方に利益がある」
「……利益?」
リリアナ様が、檻の中でかすれた声を漏らす。
大司教はその声に、微笑みさえ向けた。
「君個人の話ではない、聖女よ」
その言い方で、私の中の何かが切れた。
「ふざけないで!」
叫ぶと、全員の視線がこっちに向く。
でももう知るか。
「器だの利益だの、勝手に人を部品扱いして! セイル様もリリアナ様も、あんたたちの在庫管理表に載るためにここにいるんじゃないんですよ!!」
「黙れ、異物」
大司教が指を振る。
その瞬間、白い拘束光が私へ飛ぶ。
避けきれない。
そう思った瞬間、黒い鎖が横から割り込んだ。
白光と黒鎖が激突し、火花みたいに弾ける。
「触るな」
セイル様の声だった。
私の一歩前に立った背中は、やっぱり大きい。
でも同時に、前よりもずっと危うい。
「私の塔で。私の前で。彼女に二度も手を出すな」
その言葉に、胸がどくんと鳴る。
でも今は、それに浸ってる場合じゃない。
帝国の魔導将が、冷静に言った。
「核損耗が進んでいるな。長くは保つまい」
「……だから何だ」
「理解しろ、セイル・ノヴァリス。今のお前には二つしかない。聖女を手放して生きるか、聖女とともに朽ちるかだ」




