第12話 『第42話』の再デバッグを開始します!
東棟研究室での裏切りは未遂に終わった。
カシム・ランバートは失脚し、ネクロマンサー、セイル・ノヴァリスは悲願であった聖女リリアナの蘇生を果たす。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
蘇生された聖女リリアナの肉体は、完全には世界へ馴染んでいなかった。
祈るたび、眠るたび、微笑むたび。彼女の内側で揺れる聖なる回路は、術者セイル・ノヴァリスの魔力を細く、絶えず求め続ける。
最初に失われたのは熱だった。
指先の温度。頬の血色。夜明けまで数式を追い続けても揺らがなかった、術者の魔力の均衡。
次に失われたのは、隠し通せるはずの時間だった。
聖教会は蘇った聖女の波長を感知し、帝国は死者を連れ戻した術者の痕跡を嗅ぎつけた。
彼らはそれぞれ異なる名目を掲げて塔へと近づく。
祝福。保護。監査。招聘。
そのどれもが美しい言葉であり、そのすべてが檻だった。
聖女は教会へ戻るべきだと、彼らは言う。
禁忌に触れた術者は帝国の庇護下に入るべきだと、彼らは言う。
分かたれた言葉の先にある未来は、ただひとつだった。
――二人は、再び引き離される。
そこで、話は終わっていた。
「…………っ」
息が、止まる。
私はスマホを握りしめたまま、しばらく画面を見つめていた。
指先が震えている。
心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
知らない。
こんな第42話、私は知らない。
本来の第42話は、『運命の処刑』だったはずだ。
セイル様が教会に売られ、民衆の前で殺される、あの最悪の回。
何度読んでも吐きそうになって、何度読んでも泣いて、それでも削除できなかった地獄。
でも、今ここにある第42話は違う。
セイル様は処刑されていない。
リリアナ様は蘇っている。
その代わりに、私は知らない破綻が始まっている。
「……本当に、変わったんだ」
声に出した瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
私が塔に行ったから。
私が、原作通りにさせなかったから。
だから物語が変わった。
その事実に、今さらみたいに足がすくむ。
もし、私が余計なことをしなければ。
もし、私が向こうに落ちなければ。
この第42話は生まれなかったのかもしれない。
けれど。
私はもう一度、画面の最後の行を見た。
『――二人は、再び引き離される。』
だめだ。
そんなの、だめに決まってる。
せっかく辿り着いたのに。
あんなふうに抱きしめあって、やっと取り戻したのに。
また教会と帝国の都合で、勝手に引き裂かれるなんて。
「……ふざけないでよ」
掠れた声が漏れた。
私はソファの前にしゃがみ込んだまま、両手でスマホを抱えた。
視界が熱い。
怒りなのか、悔しさなのか、涙なのか、自分でも分からない。
でも、ひとつだけはっきりしていることがあった。
私は、知ってしまった。
知らなければ、戻らずに済んだかもしれない。
現実にしがみついて、会社に行って、何もなかった顔で生きていけたかもしれない。
けれど、知ってしまった以上、もう無理だ。
セイル様がまた削られていく。
リリアナ様がまた檻に戻されようとしている。
その未来を、私は画面越しに知ってしまった。
だったら。
だったら、もう一度行かなきゃいけない。
私は右手の中の護符を握りしめた。
小さな赤い魔導石が、かすかに熱を持つ。
「……やっぱり、繋がってる」
じわり、と。
雪の夜の残り火みたいな温度が、確かに掌に伝わってくる。
夢じゃない。
終わってもいない。
あの世界は、今も続いている。
私はゆっくりと立ち上がった。
写真立てが目に入る。
夫の笑顔。
置いてきた現実。
もう戻らない時間。
胸の奥がきしむ。
「……ごめん」
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。
夫にか。
あの頃の自分にか。
ようやく現実に戻ったくせに、またどこかへ行こうとしている自分自身にか。
でも、次の言葉は驚くほどはっきりしていた。
「でも、今度は逃げるんじゃない」
静かな部屋に、自分の声だけが落ちる。
「助けたいから、行くの」
最初は、事故だった。
泣いて、叫んで、落ちた先があの世界だった。
けれど今度は違う。
私は、自分で選ぶ。
自分の意思で。
自分の足で。
もう一度、あの壊れかけた物語の続きを救いに行く。
護符の熱が、ほんの少しだけ強くなる。
まるで、それが返事みたいだった。
私は涙を拭って、もう一度スマホの画面を見た。
「……セイル様、リリアナ様」
喉の奥が震える。
それでも、今度はちゃんと声になった。
「私が助けるから」
そして私は、画面の下に表示された次話予告へと、震える指を伸ばした。
そこに記されていたのは、たった二行の短い文だった。
次回――聖女護送。
塔を出るのは、聖女か、魔王か。
「……っ」
短い。
なのに、十分すぎるほど嫌な予感がした。
護送。
その単語だけで分かる。
これはもう、話し合いだの交渉だのという綺麗な段階ではない。
連れて行く気なのだ。
どちらかを。
あるいは、両方を。
私は画面を見下ろしたまま、唇を噛んだ。
聖教会は、蘇った聖女を絶対に見逃さない。
帝国も、死者蘇生を成した術者を手放すはずがない。
あの二人が大人しく囲われるわけもないから、衝突は避けられない。
その時。
セイル様は、今の状態でどこまで戦える?
魔力を吸われ続けているままなら。
リリアナ様がそのことに気づいていないままなら。
「……間に合わない」
掠れた声が、静かな部屋に落ちた。
次の更新を待っている暇なんてない。
そんな悠長なことをしていたら、今度こそ本当に取り返しがつかなくなる。
私は護符を握りしめたまま、もう一度スマホの画面を見た。
次話予告の下。
いつもなら広告バナーが出る位置に、見覚えのない一文が淡く浮かび上がっていた。
※異界接続は不安定です。同一の祈りを、同一の媒介へ。
「……は?」
私は思わず瞬きをした。
広告、じゃない。
こんな表示、原作アプリにはなかった。
指で触れる。
だが、反応はない。
ただ、その文字だけが、画面の奥で微かに脈打っている。
同一の祈りを、同一の媒介へ。
媒介。
その単語に、私ははっとして右手を見た。
掌の中の銀の護符。
小さな赤い魔導石が、今はさっきよりもはっきりと熱を帯びている。
「……これ」
雪の日の火。
セイルが作った最初の護符。
リリアナ様が、私に託したもの。
これが媒介だというのなら。
同一の祈りって、何だ。
私はしばらく考え込んで、それからゆっくりと写真立てのほうを向いた。
夫の笑顔が、ガラス越しに静かにそこにある。
胸の奥が、ずくりと痛んだ。
祈り。
同じ祈り。
救いたい。
失いたくない。
消えてほしくない。
それは、あの時、私が夫に向けて何度も願ったことだ。
そして、セイル様がリリアナ様に向けて、狂気みたいに貫いてきた祈りでもある。
「……そういう、こと?」
喉の奥で呟く。
私はゆっくりと床に膝をついた。
護符を両手で包み込むように握る。
どうやって転移したのかなんて、最初から分からなかった。
理屈なんて、今さら求めても仕方ない。
だったら、やることは一つだ。
あの時みたいに。
あの夜みたいに。
心の底から、祈る。
「……お願い」
声が、震える。
泣きそうで、情けなくて、それでも止められなかった。
「今度は、ちゃんと行きたいの。事故じゃなくて。自分で選んで……あの人たちを助けに」
護符の熱が、じわりと強くなる。
私は目を閉じた。
「セイル様を、死なせたくない。リリアナ様を、檻に戻したくない」
指のあいだから、淡い赤い光が漏れた。
エアコンの音が、ふっと遠のく。
壁掛け時計の針の音も、外を走る車の音も、少しずつ薄くなる。
代わりに聞こえてきたのは。
――風だ。
冷たい石壁を抜ける、冬の終わりみたいな風の音。
「……え」
目を開ける。
護符の光が、部屋の空気ごと歪ませていた。
赤い光の筋が、床に小さな魔法陣を描くように広がっていく。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「ちょ、待って。待って待って待って。心の準備が――」
言い終える前に、視界の端で写真立てが揺れた。
私は反射的にそちらへ手を伸ばす。
けれど、指先が触れる寸前で、光が一気に弾けた。
白ではない。
今度の光は、赤に近かった。
雪の日の火みたいな、切実で、小さくて、でも絶対に消えない色。
「――っ!」
足元が消える。
落ちる。
でも最初の時みたいな、理不尽な引きずり込まれ方じゃない。
今度は、自分で踏み込んだ感覚があった。
世界が反転する。
空気が変わる。
肺を刺す冷たさが、現実ごと塗り替えていく。
最後に、耳元で何かが聞こえた。
低くて、掠れていて、もうほとんど幻聴みたいな声。
『……来るな』
その一言に、私は思わず笑ってしまった。
「無理です」
落ちながら、私はそう言った。
「今さら、止まれるわけないでしょ」
そして次の瞬間、私は再び、あの世界の冷たい石床へと叩きつけられた。
***
頬に触れる、冷たく湿った感触。
「っ、いた……」
顔を上げる。
見覚えのある石造りの天井。
鼻をつく、古びた魔術書と薬品の匂い。
遠くで、何かが砕けるような音。
息を呑んだ。
「……戻って、きた」
前と同じ塔の中。
でも、空気が違う。
前よりもっと、切迫している。
ぴんと張り詰めた糸みたいな緊張が、空間そのものに満ちていた。
私はよろめきながら立ち上がる。
その瞬間、廊下の奥から、鋭い怒号が響いた。
「――そこを通せるわけがないだろう!」
低く、冷えきった、聞き間違えるはずのない声。
セイル様だ。
次いで、別の声が重なる。
「これは聖教会の正式な召喚である! 聖女リリアナを速やかに引き渡せ!」
「帝国勅命でもある。術者セイル・ノヴァリスの身柄も同時に保護下へ置く!」
聖教会。帝国。
間に合った。
でも、ギリギリだ。
私は息を吸った。
胸の奥で、恐怖と高揚と焦りが一気に混ざり合う。
けれど不思議と、足は震えなかった。
「……よし」
私は拳を握る。
「第42話、再デバッグ開始よ」




