第92話 留守番のふたりとみんながいない日々
留守番のふたりと一匹のいない日々
「……ふう。今日も暑くなりそうだねぇ」
朝の光が差し込む窓辺で、レーナは柔らかくため息をついた。港町エスパーダの陽射しは、春の終わりだというのにまるで夏のようだった。
屋敷の中には、ふだんの賑やかさがない。
カールさま、セリアさま、リアナさま、エミリーゼさま、そして……あの元気なフェンリルの子、ルゥちゃん。
一度に五人もいなくなると、家の空気そのものが変わってしまったように感じられる。
「お母さん、今日のお昼……何人分にする?」
キッチンに顔をのぞかせたのは、娘のティナ。年頃の獣人の少女で、最近は髪を結んだり、香草で香りづけをしたりと、少しずつ「女性らしさ」を気にしはじめている。
レーナは優しく微笑みながら答えた。
「三人でいいわね。わたしたちと、警備のロルフさんの分」
「そっか……。ちょっとさびしいね」
ティナの耳がぴくりと動いた。レーナもまた、心の奥にぽっかりと空いたような感覚を抱いていた。あれほどにぎやかだった屋敷が、まるで深呼吸をしているかのように静まり返っている。
セリアさまは朝から庭で剣を振るっていたし、リアナさまは魔法の練習でよく木を焦がしていた。エミリーゼさまは本を抱えて歩き回り、ルゥちゃんは屋敷中を駆け回っていた。
そして——カールさまは、みんなの中心にいて。
「……あの、カールおじさん、ちゃんと日焼け止め塗ってるかな」
ぽつりとティナがつぶやいた。ふいに口をついて出たその言葉に、自分でも赤くなる。
「ふふ。心配になるわね。焼けすぎたら、あとでヒリヒリして大変よ」
「うん……。それに、ルゥちゃんって泳げるのかな?」
「たしか……泳ぎはまだ練習中って、エミリーゼさまが言ってたわね。お魚見てはしゃいでる姿が目に浮かぶわ」
ふたりは思わず顔を見合わせて、くすりと笑った。
◆
留守番の日々は、穏やかだけれど、どこか物足りない。
ティナは家事を手伝いながらも、何度も窓の外を眺めてしまう。町の喧騒が遠く、潮の香りが強くなった気がした。
一人で部屋を掃除しているとき、ベッドの上に忘れられたセリアの髪飾りを見つけた。あの金髪の少女が、少し恥ずかしそうに前髪を整えていた姿を思い出す。
リアナの部屋では、机に広げられた魔導式のノートがそのままだった。端には小さく「魔力転換実験ノート・第五稿」と書かれている。
「きっと、すぐ戻ってまた実験を始めるんだろうな……」
ティナは軽くほこりを払って、元通りにそっと閉じる。
屋根裏の書斎では、エミリーゼの本が積み上げられていた。「海洋魔術と古代文字の関係」「幻獣の生態と魔石変換」など、難しそうな本がずらりと並ぶ。
そして、ルゥの寝床。毛布の山の上に、小さなおもちゃの魚が転がっていた。
「みんな、無事に帰ってきますように……」
祈るような気持ちで、ティナは小さなぬいぐるみを整えた。
◆
夜は静かだった。カールの帰還を祝って賑やかに開いた夕食も、今夜は三人分だけ。ロルフが肉を豪快に食べながら、ぽつりとこぼす。
「……こうして食卓が静かなのも、たまにはいいけどな。だけど……少しさびしいもんだな」
「ええ、そうですね」とレーナも笑う。「でも、戻ってきたときに“おかえり”って言えるのが、いちばん幸せな時間ですから」
その言葉に、ティナもそっとうなずいた。
明日には帰ってくるかもしれない。明後日かもしれない。
でも確かなのは——彼らが帰ってきたとき、屋敷はまた命を吹き込まれるということ。
走り回るルゥの足音。セリアの剣の音。リアナの魔法の閃光。エミリーゼの読書のつぶやき。そして、みんなを見守るカールの穏やかな声。
今は静かなこの屋敷も、彼らの「ただいま」でまた輝く。
ティナはその瞬間を想像しながら、眠りについた。
——カールおじさん。ちゃんと無事に、帰ってきてね。
いつかの日常が戻ることを願って。




