第77.5話 失われた王妃の微笑み
『失われた王妃の微笑み』
静かな書斎に、夜風がひそやかに吹き込んでいた。
窓辺に立つ青年の横顔は、燃える蝋燭の明かりに照らされて陰影を描き、どこか哀しげだった。ノルド王国第六王子、ユリウス=ノルド。まだ若いその瞳には、深く強い意志と、消えぬ記憶の色が宿っていた。
――セリア=ルゼリア=ノルド。
その名を口にするたび、胸の奥が疼く。
彼女は、かつてこの国の未来そのものだった。
ノルド王家の血を引き、王国屈指の魔導家門、ルゼリア公爵家の一人娘として生まれたセリア。威厳と気品を兼ね備え、若き日の第一王子エリオットと婚約し、次代の王妃として育てられてきた。
――だが。
「セリア=ルゼリア=ノルド、王家を欺いた罪により、追放を命ずる」
その日、王都中が凍りついた。
舞台はまたしても、卒業パーティーだった。王族と名家の子女が集い、将来を祝すはずの晴れの舞台。だがそこで、エリオットはセリアに一方的な断罪を言い渡し、冷たく背を向けた。
罪状は「禁術に手を染め、王家の機密を漏洩させた疑い」――だが、それが真実でないことは、少しでもセリアを知る者なら誰でも分かっていた。
すべては、仕組まれていた。
エリオットの背後にいたのは、王宮内で暗躍していた改革派の高官たち。彼らは「名門貴族の力を削ぐ」ことを目的に、ルゼリア家を潰すことを画策していた。そして、セリアを“標的”としたのだ。
そして、公爵家当主――セリアの父も、偽りの証拠と捏造された証言で処刑された。
「王命により、国家反逆の咎に処す」
それが通達されたとき、父・ユリウス五世はまだ国外の同盟国に外遊中だった。外交を重んじる立場ゆえ、帰国の遅れが命取りとなった。
知らせを受けたユリウス五世の怒りは、まさに烈火の如しであった。
帰国するとすぐに裁判のやり直しを命じ、エリオットを廃嫡とした。だが、すでにルゼリア公爵は命を落とし、セリアは行方をくらましていた。国の要であった名家は断絶し、王宮の信頼も失われた。
母は――王妃アリステリアは、その場に崩れ落ちた。
「あの子を……セリアを……」
彼女の名を呼んで涙を流す姿を、ユリウス六世は忘れない。
なぜなら、王妃は、かつてルゼリア公爵と深い仲だった。
まだ王妃ではなかった若き日のアリステリアは、婚約も決まっておらず、ただ一人の女性として、ひとりの青年と心を通わせていた。
その青年こそ、後のルゼリア公爵であり、セリアの父だった。
だが、当時の王太子――ユリウス五世の婚約者が事故で命を落とし、国は混乱に陥った。急ぎ王太子に新たな王妃を求められ、最も王家の血に近く、王家の伝統に合う娘として、アリステリアが選ばれた。
二人は、国のために別れたのだ。
泣きながら、愛を引き裂かれながら。
それゆえに、セリアは王妃にとって、ただの婚約者ではなかった。
「わたしの……もう一つの家族だったのに……!」
それからというもの、王妃は王宮を出て、東の海岸沿いにある離宮にこもってしまった。冷たい海の風に晒されながら、遠い日を想い、ひとり佇む日々が続いた。
誰も、彼女の心に触れることはできなかった。
……だが、ユリウス六世だけは違った。
彼は知っていたのだ。父の怒りの奥に、深い悔恨があることを。母の静かな悲しみが、ただ失っただけではないことを。
そして、信じていた。
セリアが、必ず生きていると。
その信念はやがて確信に変わる。
黒き剣聖――カール=キリト。
異国で名を馳せるその男の傍らにいたのは、かつての婚約者であるはずのセリアだった。
だが、もはや彼女は“姫”ではない。己の力で生き、愛し、戦う女性へと変わっていた。
それでも、ユリウス六世は願った。
(どうか……戻ってきてくれ、セリア)
(あなたが戻ることで、父も母も、王国もきっと変わる)
そして、カールを――彼女と共に歩むその男を、ノルドへと迎え入れようと決意した。
あの追放の悲劇を終わらせるために。
偽りの王子に塗れた玉座を、真実の王と妃の微笑みで、再び照らすために。
ユリウス六世は、窓の外を見つめながら、心の中でそっと祈った。
「カール。セリア。どうか、ノルドへ帰ってきてくれ」
――すべてを、取り戻すために。




