第77話 北方より来たる影
「北方より来たる影」
「……馬鹿な。カールが“あの娘”と婚約だと?」
王都ノルディア、氷に包まれた玉座の間に怒声が響いた。
それは、ノルド王国の第二王子――ユリウス6世=アルフレッド=ノルドの声だった。
銀の髪と蒼い瞳、整った顔立ちに冷ややかな気品をまとった男。その指には、ノルド王家の象徴たる蒼氷の指輪が煌いていた。
「フリューゲス王国の王女、エミリーゼ=フリューゲン。正室としての立場を得た――間違いない情報です」
そう報告したのは、ユリウス6世=アルフレッド=ノルドの側近の一人であり、諜報任務を担う〈影の眼〉だった。
ユリウス6世は目を伏せたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……カール=キリト。あの男が、ついにここまでのし上がったか。竜を倒し、フリューゲンの伯爵となり、しかも王族の正式な婿候補として扱われている……!そして、セリアが側室になるだと!」
声には怒気よりも、焦燥と焦りがにじんでいた。
それも当然だった。
ユリウス6世=ノルドの兄の婚約者候補として、かつて“セリア=ノルド”がいた。従兄妹であり、本命だった、しかし、王弟の謀反疑惑により、セリアはノルドを去ることになった。あれは冤罪だったのだ。
父が海外に外交に旅立っているときに、男爵令嬢に溺れた兄のエリオットが、学園の卒業式でセリアに冤罪をかけ断罪し追放したのだ。さらに、それに異を唱えた王弟である叔父の公爵家に、なんと兵を差し向けてだまし討ちにしたのだ。それが数年前の出来事である。
王族として不名誉な事件だった。
また、アリシア事件も似たような事件だったその時は、平民の自称聖女だったか。王家とは歴史を繰り返すものなのだろうか? だが、アリシアは生き延びて、その息子が生きていた。しかも、今やフリューゲン王国の貴族として、その国の王女と婚姻の絆まで結ぼうとしている。
「……このままでは、ノルド王国の威信が地に堕ちる」
ユリウス6世は低く言い放った。
「セリア=ノルドと、カール=キリト。二人はノルド王家の血を引く者。正式に、王族として認められている限り――奴らは“ノルドの財産”だ」
「王命により、フリューゲン王国へは正式な書状を送りました。ですが――」
「却下、か。王族であろうと、彼らはすでにフリューゲンの者だ、と」
ユリウス6世の唇がわずかに歪む。
怒りというより、見透かされた悔しさのようなものが滲んでいた。
「外交無視か……。それとも、自信があるのだな。竜を討つ英雄と、その血統に。」
彼は深く椅子に腰を下ろすと、静かに手を組んだ。
しばしの沈黙の後――
「……ならば俺が行こう。フリューゲン王国へ。外交団を率いてな」
「し、しかしユリウス殿下、危険すぎます。万が一、拘束や――」
「戯言だ。俺は王族として赴く。外交使節として、正当な理由と権限を持って。奴らも無下にはできまい」
「目的は……?」
「まず、カールとセリアを“ノルドへ連れ戻す”こと。そして……」
ユリウス6世の瞳が鋭く細められる。
「王女エミリーゼとの婚約を――無効にする」
側近たちがざわめいた。
「力で脅すのではない。言葉で交渉し、証拠を突きつけ、王家の威光をもって交渉の場へ引きずり出す」
「外交の名の下に、脅迫に等しい示威行動……」
「当然だ。我が王国の血筋が、他国の支配下に置かれようとしているのだぞ。黙って見過ごす理由があるか、それにあれの稼働に必要な人材だ!」
彼の言葉には、理屈以上の感情が込められていた。
ユリウス6世はかつて、従姉のセリアを慕っていた。
聡明で、穏やかで、時に強さを見せる従姉――だが、冤罪により、追放され国外へと姿を消した。
そして今、かつて断罪された王族の息子と他国で栄華を極めようとしている。
「俺は……許せない。あの者たちが、ノルドの誇りを捨て、他国に寝返るなどと」
「……ユリウス殿下。ですが、カール殿は、すでに民衆から“英雄”と見なされております。力で奪うなど――」
「力は使わん。“法”と“理”で封じる。それが外交の本質だ」
ユリウス6世はゆっくりと立ち上がり、壁にかけられた黒い外套を身にまとった。
それは、ノルド王族の外交儀礼服――氷狼を象った紋章が胸に輝く、極寒をも拒む威厳の装いだった。
「……三日以内に、出立の準備を整えよ」
「かしこまりました」
扉が静かに閉まると、ユリウス6世は誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。
「カール。お前がどれほどの力を手に入れようと――俺は“王家”を取り戻す」
蒼氷の瞳が、南の地――フリューゲン王国を見据えていた。
そして、物語は動き出す。
――二つの王国。
――交錯する血筋と誇り。
北より来たる王族の使節団が、平和の仮面の下で、火種を抱えたまま王都ルメリアの門を叩く日も、そう遠くはなかった。




