第72話 エミリーゼ=フリューゲンの憂鬱
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エミリーゼ=フリューゲンの憂鬱
エミリーゼ=フリューゲンは窓辺に立ち、どこまでも広がる青空を見つめていた。そこには、いまこの瞬間にも空高く舞い上がっているかもしれないグリーンドラゴンの姿は見えない。ただ、心の奥に渦巻く不安だけが、胸をぎゅっと締めつけてくる。
「……ほんとうに、行ったのね。カール」
ため息混じりに呟きながら、エミリーゼは窓の外へと手を伸ばす。その指先は空に届くはずもなく、ただ風を裂くだけだった。
グリーンドラゴン――それは百年以上前、北方の王国を一夜にして焼き尽くしたという伝説の災厄。その恐ろしさは歴史の教本にも語られており、竜と戦うというのはもはや英雄譚の領域、決して現実的な任務ではない。
だというのに。
「たった三人で討伐任務ですって? ……ふざけないでよ、父上」
エミリーゼは噛みしめるように呟いた。フリューゲン国王――この王国の頂点の存在。無謀な任務をカールたちに与えた張本人。その命をあずけるほど信頼している、ということかもしれないが、娘としては納得できるはずがなかった。
どれほど剣聖として名高かろうと、カールは人間だ。血が通い、傷つけば倒れる。リアナは天才魔術師とはいえ、まだ若い少女に過ぎない。そしてセリア――彼女の槍がどれほど鋭くとも、竜の鱗を貫けるかは分からない。
「おかしいわよ……どうして、どうして、そんな無茶を……」
エミリーゼは胸元をぎゅっと握りしめる。カールが好きだった。心から、深く。たとえ冷静を装っても、優雅に微笑んでいても、その心には常に彼がいた。
――そのカールが、命を賭けてでも自分との結婚を成し遂げようとしている。
思い出すのは、あの日の彼の瞳。あまりにも真っ直ぐで、不器用で、けれど真剣だった。
(そんな無茶な任務を引き受けてまで、わらわと結婚したいのか……?)
胸の奥で、少しだけくすぐったいような、誇らしいような感情が湧き上がる。エミリーゼはわずかに頬を染めながら、自嘲気味に笑った。
「ふん、愚かしいわね……でも、ちょっとだけ、嬉しいかも」
自分でも勝手だと思う。無事に帰ってきてほしいと願いながら、その挑戦の理由が自分にあると知って、優越感を覚えてしまう――まったく、心というのは厄介なものだ。
だが、現実は残酷だ。彼らが向かっているのは“討伐”任務。相手は災厄の象徴たるドラゴン。全てが上手くいく保証など、どこにもない。
「……帰ってこなかったら、どうしよう」
声が震えた。指先が、わずかに冷たくなる。もしも、あの三人の誰かが……そう思うだけで、視界が滲んでくる。
エミリーゼは椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
まだ何も終わっていない。むしろ、始まったばかりだ。ドラゴンとの戦い。王都を脅かす脅威。それに立ち向かう、たった三人の若者。
(追い払うだけなら……それくらいなら、カールなら、きっと……)
希望を手繰るように、エミリーゼは祈った。討伐でなくともいい。ただ無事でいてほしい。逃げてもいい、撤退してもいい。命さえあれば、また会える。言葉を交わせる。あの不器用な微笑みを、もう一度見られる。
「お願い、カール……絶対に、無事で帰ってきて」
そう願った瞬間、彼女の涙が一粒、頬を伝って落ちた。窓の外では変わらず、風が春を運んでいた。まだどこか遠い空で、ドラゴンの影が揺れているかもしれない。けれど、それでも。
エミリーゼは、ただ一つの想いを胸に祈り続ける。
――どうか、帰ってきて。あなたと、未来を語るために。
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