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椿館ーハリーさんは心配性・3

 罰を受ける心当たりのまるでないグレイスに向かい、口にするのも嫌だとばかりにヘンリーの口角が下がる。 先ほどやっと上がったというのに。


「あんな誘うような唇を描いて。頬まで染めて。酒場で君を見たとき、あまりに大人っぽくて自分の眼を疑ったよ」


ヘンリーが言っているのは、マダムの施した化粧のことだ。


「あれは、ここにいるのがルナだと分かりにくいようにと、あえてマダムがそうしたのよ。でも口紅と頬紅だけなのよ」

ほら、いつもは地味にしているから、と付け加える。


「それにしてもあんなに媚びるような艶っぽい化粧にするなんて。色好みの男はああいうのが好きなのに」


ヘンリーの口調は、ますます嫌そうになる。



「マダムが、唇はぷっくりと見せるのがいいって言ってたわ。ルナの唇は薄いでしょう。殿方は、唇から『具合』を連想するからって」


そういえば、『具合』の意味するところがわからなかったのだったと、グレイスは思い出した。


「ねぇ、この『具合』って。なにの? どこの?」

ヘンリーなら知っているだろうと、ついでにこの機会に尋ねる。


 ヘンリーの言葉に詰まる気配が、枕にされているグレイスの腿に伝わる。


「―――グレイス、わざとなの? いや、これで通常か……?」


 零れた呟きから、これは聞いてはいけない事だったのだと悟った。ロージーにでも聞くべき質問だったに違いない。聞く相手を完全に間違えたようだ。


またヘンリーから小言が来る、と覚悟していると。


「娼館への出入りを禁じたい。いやもう妙なことばかり覚えて来るから、ボクの目の届く所に置いておきたい……」


なんと、願望を語られた。良くない・本当に良くないことを言ってしまったと慌てる。



「グレイスは分かってないよ。地味にして特徴を消してるから目立たないだけで、少し顔にアクセントを付けたら、君が美少女だとすぐに気付かれるに決まってる。それが人の少ない田舎でどれほど危険な事か……君は分かってないよ」


ヘンリーの声の調子で、心から案じているのだとわかった。


「ごめんなさい。心配させて。明日から自重するわ」


謝りながら、ヘンリーの髪に右手を差し込んだ。グレイスの左手は、毛布の中に捕まっている。


「そうして」


渋々といったところだ。ほかにもまだ言いたい文句が沢山あるのだろう。



「でも、一目でよくルナとわかったわね?」

手触りのよい髪をゆっくりとすく。


「わかるよ。グレイスなら、どんな姿をしててもボクにわからないはずはない」


即答できっぱりと。その言い方に笑ってしまったグレイスは、それを機に聞いてみる。


「ヘンリー、何か嫌なことがあった?」


 反応がないという事は、肯定なのだろう。教会のある町まで来たのは仕事だったとしても、わざわざ此処まで足を伸ばしたのは、娼館にいるルナが心配でという理由だけではないはずだ。でも話す気はないようだ。無理に聞き出すことでもない。



「寒くない?ヘンリー」


 顎だけで頷かれる。グレイスは笑みの浮かばないヘンリーを見おろしながら、焦げ茶色の髪に指を通し続ける。


「それ、やめて」

いつもよりゆっくりとした口調でヘンリーが呟く。


それ? 髪を触られたくないってこと? ぴたり、グレイスの手が止まった。


「グレイスに髪を触られると……気持ち良くて……眠くなる。―――もっと君と話していたいのに」


唇が尖る様子が幼い男の子のようで、グレイスは声を立てずにそっと笑った。



 居心地が悪そうにヘンリーが頭を動かす。振動が足に伝わってくすぐったい。


「駄目よ。そんなに動かないで。くすぐったいわ」

笑いが声に出る。


「それも耳の毒だけど、言ってもグレイスにはどうせわからないよね」

ヘンリーの溜め息は、もう何度目の事か数えられない。



「私がしてあげられることはある?ヘンリー」


 髪をすいていた手を、目元を隠すヘンリーの腕に添えた。ありそうな気はしないけれども、と思いつつ聞いてみる。


「もう充分してもらってるよ。ねぇ、ここで眠ってもいいよね?」


君がこのベッドにボクを誘ったんだし。と、聞こえよがしに呟いているヘンリーは、ますます子供っぽい。


 この様子だと明日は早朝に発つのだろうと、グレイスは予測した。ならば、ルナはヘンリーがここにいたと気づくこともない。


「いいわ。さあ、もうお口を閉じてお(ねむ)の時間よ」


 お姉さんぶっていいながら、まだ尖っているヘンリーの唇をそっと人差し指で押さえた。


ぴくりと唇が反応した瞬間、毛布の中から出た手がグレイスのその指を捕まえた。そのまま手の甲にキスされる。


「―――!」

「愛してる。グレイス。おやすみ」


 ヘンリーは眠気に掠れた声で告げると、グレイスの指先を離した。不意打ちに驚くグレイスの耳に、規則正しい寝息が聴こえてくる。



 カーテンの隙間から見える外はまだ暗く、夜明けまではしばらく時間がありそうだ。自分の鼓動がやけに煩く感じられる。


ルナの身体を休ませなければならないのに、脚に乗るヘンリーの頭が気になって仕方がない。


 そう言えば、酒場で深くなった眉間のシワはと見ると、右腕に隠れたままだった。


グレイスは今夜、一度もきちんとヘンリーの顔を見ていない。


 ヘンリーに何があったかはわからないけれど。

「明日があなたにとって、良い事の多い一日となりますように」


 前髪をよけて、グレイスはそっと額におまじないのキスをした。


愛を返せない事を、心の中で詫びながら。



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